コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「それってあるあるじゃない?」
駅前の繁華街から路地に入ったビルの2階。
広さこそないが、落ち着いた大人のためのカフェ【ル・カフェ・ド・ジョンソン】は、本格紅茶専門店だ。
足踏みミシンをリメイクしたテーブルや、揺れるハンギングチェアが、新鮮なのにどこか懐かしい。
ドイツ人だという店主のセンスのいいこだわりが詰まった店だ。
晴子はそこでセイロンティーのオレンジペコを一口飲みながら、目を伏せた。
「……あるある?」
「そうよ。男の子の方がかわいい、長男が一番かわいいって、世間一般的によく聞く話だと思うけどなー?」
そう言いながら短大時代からの友人刈谷香代子(かりや かよこ)は、小さな顔を傾げて見せた。
「だから気にすることないわよ。同姓ってほら、いくら親子だって言っても難しいじゃない。私たちもそう言うことなかった?実の母親ってさ、良き理解者でもあり、ライバルでもあるじゃない?すべてを見透かされてるようで、私、若いころはあんまり好きじゃなかったなー」
言われて自分の母親を鑑みる。
そうだっただろうか。
母は見透かすというよりはどちらかというと、娘に無関心な人だった。
いつも庭に咲く季節の花を気にかけていたし、その花壇に生える雑草のことを気にしていた。
長年の大病の末、庭の草木が一番よく見えるベッドで息を引き取るまで、その2つのことで頭を悩ませていた気がする。
「ってごめん……。晴子のお母さんは、晴子が子供のときに亡くなったんだっけ?」
香代子が慌てて手で口を塞ぐ。
「子供って……。14歳のときの話よ」
晴子は笑いながらまたセイロンティーを口に含んだ。
「十分子供よ。中学生じゃない」
香代子は眉間に皺を寄せたまま、自分もカップを両手で持ち上げた。
「お父さんは元気なんだっけ?」
「……さあ?」
晴子はテーブルにカップを置きながら首を傾げた。
「役所から何の連絡もないから、生きてるんじゃない?」
「―――え、それって」
「縁を切られたから。結婚するときに」
晴子は何でもないような顔で言いながら、店主お手製のベリータルトにフォークを突き刺した。
「あの結婚は衝撃的だったもんね……」
香代子は肩を竦めながら言った。
「そう?あなたの方が結婚は早かったじゃない」
「いや、そうじゃなくて……」
香代子は苦笑しながら言った。
「まあ、今が幸せならそれでいいけどー?」
そう言いながら、黄金色に輝くグリーンルイボスティーを飲んでいる香代子を、晴子は軽く睨んだ。
どこか人を馬鹿にしているような態度が気に障る。
45歳と年齢は同じはずなのに、白髪一本ない髪の毛。
ビタミン剤なんか飲まなくても生まれながらに白雪姫のように白い肌。
天然の大きな目にくっきり二重、長いまつ毛はカールまでしている。
一方晴子は、メスこそ入れていないが、鼻にはプロテーゼが入っているし、瞼にはアスフレックスという細い糸が入っている。
香代子は毎月3万円を超える化粧品代、2万を超えるエステコスメ代を合わせて、今の自分を何とか保っている自分とは違う。
所謂、“天然物”。
それでも、彼女は自分には勝てない。
なぜなら、
「……そう言えば、妊活は進んでる?」
晴子は何でもないように聞いた。
「……!」
香代子の空気がピリリと凍る。
それに気づかないふりをして、晴子は真っ赤に染まったベリーを口に入れ、上目遣いで彼女を見つめた。
晴子の記憶が正しければ、2ヶ月前に3回目の人工授精にチャレンジして、受精障害により失敗してから、何の報告も貰っていない。
チャレンジ中なのか、それとももう諦めたのか。
「うーん。ちょっと休憩してる」
香代子はそう言うと、ハンギングチェアに体を埋め、前後左右に揺らした。
「そう。まあ、卵と精子にも縁があるっていうしね」
晴子は何でもないことのようにタルト生地をフォークの先で割ると、それも口の中に放り込んだ。
「……精子の運動率が落ちてるらしいの」
声を潜めた香代子が目を伏せる。
「悠仁(ゆうじん)さんの?」
その名前に少しだけ意味を込めたつもりだったが、香代子は気にする様子もなく頷いた。
「だからあんまり時間はないんだ……」
晴子は大きく息を吸った。
(……なに勘違いしてるの、この女。あんまり時間はないんじゃなくて、もうとっくに終わってんのよ)
その言葉を、セイロンティーと共に飲み下しながら晴子は微笑んだ。
「焦りは禁物よ。落ち着いた気持ちでいなきゃ、赤ちゃんだって逃げていってしまうわ」
「……晴子」
香代子が少し潤んだ目でこちらを見つめる。
(運動率が落ちてるですって?あんたが20代は仕事をしたいとかいって夫に避妊を強要させて、30を過ぎたら自然妊娠にこだわりすぎて、モタモタしてたからでしょう?)
「さ。紅茶で体を温めて。諦めちゃだめよ」
ウインクしてみせると、
「ありがとう。晴子」
香代子は嬉しそうに頷いて、再びカップを手にした。
(馬鹿な女。20年前なら、簡単に悠仁さんの子供を妊娠できたのに)
晴子はカップで見えなくなった香代子の小さな顔を睨んだ。
(――そう。私みたいに……)
◆◆◆◆
「旦那が迎えに来てくれるってー」
スマホを覗きながら喜ぶ彼女を横目で睨み、
「晴子も一緒に乗ってけばいいじゃん。送ってくよー?」
という彼女の誘いをさらっと断った。
そのまま人の波に流されて電車に乗る気にもならず、晴子は線路脇を歩き始めた。
別にーーー。
子供がいる人生が幸せだとは思わない。
ほとんど家に寄り付かない夫のせいで、子育てはほとんど自分でやるはめになった。
とはいっても輝馬以外は、餌をやり体を洗い、寝る場所を提供しただけに過ぎないが。
『ママ……。手を繋いでいい?』
寂しそうな顔をするくせに、愛情の不在に文句を言わない紫音が煩わしかった。
『ママが愛してるのはお兄ちゃんだけだよね』
そのことをまるで楽しむかのようにほくそ笑んでいる凌空が嫌いだった。
そうだ。何が悪い。
自分には輝馬だけいればよかった。
輝馬がいるということだけが晴子の存在価値だったし、生きている理由だった。
香代子なんて、一生妊娠できなければいい。
悠仁さんの子供は、
あの子だけでいい。