デート当日。
紫音は目のクマを消すために8時間たっぷりと眠った。
そして起きるとすぐに白湯を飲んで便通を整えてから、湯船に湯を張った。
「何よ、昨日の夜もちゃんとお風呂に入ったでしょう?」
母の小言を無視し、クリームのパックをしながら半身浴をした。
顔のむくみをとりながら、髪の毛に母が愛用しているトリートメントを塗りたくる。
これまた母のイオンドライヤーを拝借し、ちゃんとブローして乾かしてから、普段は日焼け止めくらいしか塗らないベースメイクも買ったばかりのパフでちゃんとやった。
その上からリキッドファンデーション。コンシーラーにハイトーン。その上にパウダーファンデーション。カバーファンデーション。
アイラインを引いて、立体的に見えるアイシャドーも配色通りに塗った。
アイブロウにマスカラ。
チークにリップ。
すべてファッション誌の受け入りだ。
載っている化粧品を買い集め、順番通りに描いていく、いわばキット付の塗り絵のようなものだ。
「…………」
鏡のなかに映る自分が、普段の自分とかけ離れていて、紫音は瞬きを2回繰り返した。
あまりに経験がなさ過ぎて、これがいいのか悪いのかわからない。
こんなことなら、昨日のうちに真帆にでも確認してもらえばよかった。
だからといって母に確認してもらうのはなんだか癪だ。
それに勝手に使ったトリートメントの匂いを勘づかれても面倒だ。
かくなるうえは休みの日は大抵暇そうにスマホゲームをしている弟の凌空に―――。
そのとき、
「ただいまー」
玄関からあの声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん!!」
紫音は兄の姿を見つけるなり、ほぼ反射的にその首に抱きついた。
「おお、紫音」
休みだというのにスーツ姿の輝馬は、少し疲れたような声で笑うと、優しく紫音を引きはがした。
「どうしたの!?」
「実はちょっと打ち合わせの帰りで。先方の会社が近かったから寄ってみたんだ」
兄はそういうと、紫音にビジネスバックを渡して、洗面所で手を洗い出した。
「今日は泊まるの?」
洗面所の鏡越しに聞くと、
「うーん、そうだなあ」
輝馬は絹タオルで顔を拭きながら、これまた鏡越しに紫音を見つめた。
「そうしようかな。たまには妹サービスもしなきゃだし。紫音が本当に酒が強いのか、俺が検証してやるよ」
優しく微笑む。
「やった!!」
言ってからハッと気づく。
自分は今日、この家に帰ってくるのだろうか。
深雪の熱い手の感触を思い出す。
柔らかい唇と、熱のこもった舌を思い出す。
もしあそこが、学校じゃなければ、
もしあのとき、予鈴のチャイムが鳴らなければ、
(私と先輩は……)
「紫音?」
兄が優しく紫音の額を触った。
「どうした、ぼーっとして。熱でもあるのか?」
いつもだったら飛び上がるほど嬉しいはずなのに、
紫音はただ静かに“兄”を見つめ返した。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」
そう言うと、輝馬は少し仰け反りながら、紫音を見下ろした。
「紫音……お前……」
とそのとき南側のドアが開き、上下スウェット姿の凌空が出てきた。
「お、兄貴。おかえり」
「ただいま」
紫音に何か言いかけた兄は、取り繕うように襟元を正した。
「……お兄ちゃん」
紫音は静かに兄を見つめた。
「私、帰るの遅くなるかも。今から友達と遊んでくるから。もしそのときは寝てていいからね」
輝馬は驚いたように紫音を見下ろしたが、やがて「ああ、わかった」と少し残念そうに頷いた。
なんて―――。
なんて、気持ちがいいのだろう。
今まさに、
紫音は生まれて初めて、
兄を振ったのだ。
「じゃあ、待ち合わせの時間だから行ってくるね」
紫音はハンドバックを持つと、微笑みながら上目遣いで兄を見上げた。
「じゃあね、お兄ちゃん!」
手を挙げて行こうとすると、
「紫音」
輝馬が呼び止めた。
「今日の髪型も、メイクも、ファッションも、全部似合ってるよ」
紫音は目を見開いた。
兄からファッションも含めた容姿のことを褒められたことはあっただろうか。
紫音はバッグを肩に掛けなおすと、
「ありがとう!」
そう言ってマンションを出た。
その分厚い扉の向こうから、
凌空の笑い声が聞こえたような気がした。
◆◆◆◆
学校に行く時と同じようにバスに乗る。
休日だからか、車両の中は空いていた。
いつも疲れたような顔をしてガラスに寄りかかるサラリーマンも、毎日襟の綺麗な制服を着ている国立大学付属小学校の男の子もいない。
乗っているのは、どこかからの帰りなのだろうか、紙袋を下げながらハイバックハットを被る老紳士と、それに寄り添う大きめの花がついているモチーフハットを被っている老婦人。
昨日すこぶる飲んで、今日は二日酔いで一日寝ていて、夕方になったからまた飲みに出ます、といった感じの眠そうな学生が一人。
こんなに着飾っていかにも今からデートですという紫音は浮いていた。
(大丈夫かな。変じゃないかな……)
紫音は自分の格好を見下ろした。
バックリボンがついたベージュのジャンパースカート。透け感が可愛い五分丈のブラックブラウス。パールホワイトのミュールに網目の荒いかごバック。
これもファッションサイトに載っていた、「大学生デートコーデ」そのままだ。
全ては真似っこ。作り物だ。
それでも、普段からオシャレで、読者モデルやカットモデルまで引き受けた経験のある兄が褒めてくれたのだから、自信を持たなければ。
紫音は視線を上げた。
◇◇◇◇
待ち合わせは駅前にあるドーナツ屋の前だった。
「げ」
思わず声が出た。
先に着いていた深雪は、男女数人に囲まれていた。
女子にも男子にも見覚えがある。
おそらく同じ辰見美術専門学校の生徒たちだ。
「あ、あの人……」
その中には、例のインナーカラーが紫の女の子の姿もあった。
何やら甘えた口調で深雪を見上げながら、小首を傾げている。
(まさか先輩が誘ったんじゃ……。いやいや、ちゃんとデートだって言ってたし)
紫音は小さく息をつくと、その集団に向けて歩き出した。
「ええ?深雪先輩だけまだ提出してないって小浜がぼやいてましたよー?」
誰の話をしているのかはわからない。
「ああ、でもまだ研磨かけてないから」
何の話をしているかもわからない。
それでも、
(今日、深雪先輩と待ち合わせをしているのは……私だ!)
「先輩!」
紫音は中心にいる深雪に話しかけた。
女たちが振り返る。
深雪の一番そばにいたあの女も振り返り、一回り以上小柄な紫音を見下ろした。
「え……何?」
女の眉間に皺が寄る。
「先輩の待ち合わせしてる子って、この子ですか?」
「あー、ええと、わかる!えっとね」
脇にいた金髪の男が人差し指を立てる。
「そだ!キャラデザにいた子でしょ!正解?」
人懐こく顔を寄せてくる。
「あ、はい。2年の市川です」
ぺこりと頭を下げると、
「やっぱりねー。てかこうやってちゃんとした服着てメイクすれば見違えるじゃん!」
男は満足そうに馴れ馴れしく紫音の肩に手を置いた。
「普段からそういうかわいい格好してればいいのに!」
そこまで言ったところで、集団の中から伸びた手が、ぐいと紫音を引き寄せた。
「ヒロ。紫音ちゃんに触り過ぎ」
頭上で深雪の声がする。
「それに紫音ちゃんは初めからかわいいから」
とんと彼の胸に触れた背中から、深雪の声が響いてくる。
「…………」
紫音は口を手で覆った。
「……あは。かわいいー、顔真っ赤」
もう一人の黒髪をマッシュに刈上げた男が笑い、女の子たちが露骨に白けた空気を出す。
その中心にいた例の子はわかりやすく下唇を噛んでいる。
「じゃ、俺たちこれからデートなんで。お前らは飲み会楽しんでください」
すべすべの手の感触が腕を滑り落ち、あっという間にさっと紫音の手を握った。
「こんな時間からデートって」
マッシュの男が両手をポケットに入れながら、意味深に下半身を突き出す。
「はは、やめろって」
金髪がマッシュの頭を叩きながら笑う。
「うるせえ。じゃあな」
深雪が紫音には見せたことのないうんざりしたような顔をして、集団を振り切り、歩き出した。
「ごめんね。あいつらゲスくて」
ある程度遠ざかると、深雪はため息をつきながら言った。
「あ、いえいえ、何も」
紫音が見上げると、深雪はじっとこちらを見下ろした。
「でも、さっき言ったことはホントだから」
「?」
紫音は瞬きをした。
普段つけないマスカラのせいでチクチクと痛い。
「俺はいつも、紫音ちゃんのこと可愛いと思ってるからね!」
深雪はそう言って目を逸らし、代わりに握った手にぎゅっと力を込めた。
「…………!」
紫音も慌てて目をそらし、まだドーナツ屋の前でたむろしている集団をなんとなく振り返った。
「じゃあね、気を付けてー!」
気づいたマッシュが手を振り、
「喰われんなよー!」
金髪が笑う。
女たちは会釈をする紫音を、角を曲がるまでずっと睨んでいた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!