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玄関の扉が閉まった瞬間、空気が凍りついた。夜の暗がりよりも冷たい気配が、背後からそっと近づいてくる。
「帰ってきたなら、ちゃんと挨拶しろよ」
低い声。颯馬だ。
遥が肩を震わせたその瞬間、容赦なく後頭部を掴まれる。視界がぐらりと揺れ、靴箱に頭を押しつけられた。
「……っ」
呻き声を漏らしただけで、背中に拳が落ちる。呼吸が詰まる。
「楽しそうにしてたじゃん」
耳元で笑う声。あの冷たい笑い。
「仲良しなんだろ? “日下部”とよ」
颯馬は名前を吐き捨てるように言った。
遥の首筋に触れた指が、跡をなぞる。
その跡は昨夜颯馬がつけたものだ。
「全部オレがつけたのに。アイツには触らせねえのか?」
嘲りが混じる。
遥は反論できない。声が出ない。息すら浅い。耐えるしかないと、身体が知っている。
颯馬は次の瞬間、遥の襟元を掴んで強引に引き上げた。背中を壁に叩きつけると、胸ぐらを掴んだまま顔を覗き込む。 至近距離、逃げ場はない。
「聞かせろよ」
声が低く沈む。
「アイツと、何してんの?」
遥は視線をそらそうとしたが、頬を叩かれて正面に戻された。
「手ぇ繋いだ? 抱き合った? キスでもした?」
一言ごとに、指先へ力がこもる。
遥は苦しげに首を振る。
「……してない」
それは真実だ。でも颯馬の怒りは消えない。
「へえ、生意気じゃん」
颯馬はわざとゆっくりと、遥の胸元へ手を滑らせていく。押し付けるように、あざに触れる。遥は呼気を詰まらせ、眉を寄せた。
「痛え?」
その声は、“痛がってほしい”という期待そのものだった。
遥の震えが、颯馬の笑みを広げる。
「いい顔じゃん。今日もちゃんと“兄”してんな」
兄——その言葉に含まれる支配と侮蔑。家族という鎖で逃げ場を奪う。
颯馬は遥の顎をぐいと上げる。
「次、日下部と一緒にいるところ見たら――」
言葉が途中で切れた代わりに、拳が遥の腹に沈む。
視界が白く弾けた。膝が崩れそうになるのを壁が支える。呼吸すら奪われ、喉がひくひくと動くだけになる。
颯馬は満足げに笑う。
「壊すから」
それだけ言って、踵を返し階段を上がっていった。足音が遠ざかるたびに、胸の奥の鼓動だけがうるさく響く。
誰も助けない家。逃げ場のない夜。
遥は壁に背を預けたまま、ひたすらに息を探す。
見られていた――日下部と、自分の距離を。 その事実だけが、痛みより深く刺さっていた。