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「ただいま戻りましたっ!」
若々しい声が響き渡り、お勝手口から紙袋を抱えた虎が戻って来た。
「あー!社長!お客様です!途中で、道を聞かれて、お連れしました。玄関でお待ちなんですけどぉー、なんすっか?ハリソンさんの紹介のドレス屋って、言ってました!」
「……ハリソン?」
金原は、首をひねる。ハリソンから集まりに招待を受けてはいるが、ドレスの仕立て屋まで用意してくるとは、何か、おかしい。
「社長……」
八代も、同じ思いなのか、小さく頷いた。
そんな金原と八代とは裏腹に、龍は、呂律が回らないどころか、足元もおぼつかない状態で、虎の頭を小突いていた。
「あのなぁ!なんで、あんパンなんだよー!」
「痛いっすよー!龍の兄貴!!」
板の間に置かれた紙袋には、あんパンが、これでもかと入っている。
「あー、虎、あんた、あんパン好きだもんねぇ」
「あっ!お浜さん!底には、キャラルも入ってるっす!」
「キャラメルなら、俺も持ってるけど……あー、食っちまったんだ」
「じゃ!龍の兄貴!ちょうど良かったっすよねー!!」
「で、なんだい?おやつかい?」
櫻子もいることだしと、買って来たのかと、お浜は虎へ問うた。
「いや、これ、夕飯っすよ!!あんパン、たまらないっすねぇー!!」
たちまち、お浜と龍の罵声が飛んだ。
「八代、あいつらは、任せた。俺は、取りあえず玄関へ行く」
櫻子へ、頷き、金原はまた、玄関へ戻って行く。
きっと、着いて来いということだろうと、櫻子は察し、慌てて後ろを追った。
「おやまあ、なんだかんだ言いながら、お二人とも息がぴったりじゃないですか」
玄関へ向かう二人へ、八代は目を細める。
そして、柳原の屋敷の玄関でも……。
「お母様!!!」
珠子は、ありったけの声を張り上げる。
何事かと出迎えに出て来たヤスヨに、珠子は、母、勝代の所在を聞いた。
「あー、今、奥様は来客中で……」
「どなたが、いらしているの?」
勝代を訪ねて来る者達は、おおよそ、珠子とも面識がある。
挨拶がてらに、櫻子の事を話せば、何か手を貸してくれるかもしれない。そう思った珠子は、応接間へ向かった。
「あっ、お嬢様!奥様は、手習いの最中で、応接間ではなく、ご自分のお部屋に……」
「手習いって?お母様が?」
「おや、お帰り珠子。そう、今日から、帳簿のつけ方を習い始めてね」
勝代が、奥から出てきた。言うように、習い事が終わったようで、後ろには男がいた。
「先生、娘の珠子です」
振り返り、勝代は、後を着いて来ている男へ珠子を紹介した。
「珠子、こちらは、帳簿のつけ方を教えてくださる、山之内先生よ」
眼鏡をかけた、三十路手前だろう、少しくたびれた洋服姿の青年が、つんとしながら珠子へ会釈する。
「……帳簿の?」
習い事といえば、芸事と決まっている母が、急に、帳簿などと言い出して、珠子は、唖然とした。
「……まあ、うちも、色々ありますからね、私も、少しは商売について知っておいた方が良いと思ってね」
笑顔を絶やさない勝代に、珠子は、少し違和感を覚えたが、いくらか、借金があったことを言いたいのだろうと思う。
ただそれは、櫻子が連れて行かれて終わった事になっているはずと、事情をはっきり知らない珠子は、軽く流した。
「では、奥様。今日は、これで。復習をお忘れなく」
「はい、先生」
ねっ、厳しい方でしょ?と、勝代は、誰に語る訳でもなく、一人、山之内という男の事を喋った。
銀行に勤めていたが、体を壊して、退職した。体調は良くなり、次の仕事が決まるまで、勝代に帳簿のつけ方や、商いの基本を教える事になったのだと。
「……奥様、人力車の手配は……」
ヤスヨが、恐る恐る言った。
「女中さん、それには及びません。道順を早く覚えたいので、大通りまで、歩きます」
朗らかに言っているつもりなのだろうが、山之内の口振りは、妙に棘のある、そして、陰気なものだった。
「じゃあ、先生、私が、途中までお送りしますわ」
勝代一人が、弾けている。
その様子に、ヤスヨはたちまち顔をしかめるが、気に止める者はいなかった。
「お母様、お話があるの」
珠子が気を引こうとしても、後でと、勝代は聞く耳をもたず、山之内と玄関へ向かった。
「まあ、いいわ、私、着替えるわ。先生をお送りしたら、珠子の話を聞いて」
ええ、ええ、と、勝代は軽く返事をすると表へ出た。
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「……ちょっと、いいか」
屋敷の塀に沿って歩みつつ、山之内は、勝代にぞんざいな口振りで声をかけ、すっと、脇にある路地へ身を隠すよう滑り込む。
そして、後を着いて来た勝代の手を取り、抱き寄せた。
「あんた、こんなところで……」
頬を染める勝代に、山之内は平然と口付けた。
「これが、欲しかったんだろ?」
薄ら笑う、山之内に、勝代は抗議の声をあげつつも、その腕に抱き締められたままだった。
「なあ、勝代。もう少し、なんとかならんか?」
「……だから、500円渡したじゃないかい?あれも、亭主を説き伏せて、そしたら、妙な所で借金して……挙げ句、取立て騒ぎだよ。義理の娘で手を打ったけどね、屋敷も危なかったんだ」
柳原の家は、もう資産が無いのだと、勝代は訴えた。
「だから、お前が、店へ入り込め。帳簿を上手く誤魔化して、店の金を流してくれんか?」
山之内は、勝代を更に抱き締め、そのうなじに、顔をうめた。
「……資金があれば、新しい世界が作れる。そして、お前とも暮らせる。違うか?」
あぁ、と、山之内の囁きに、勝代は、甘い息を吐く。
「俺が、帳簿のつけ方、誤魔化し方を教える。お前は、その通り、やればいいんだ。いいな?」
勝代は、山之内の言葉に頷いた。