5
口を真一文字に無理やり引き結ばされたまま、僕は緒方先生をじっと睨みつけていた。
僕のすぐ目の前では、榎先輩が眼を見張り、数歩あと退ると、ばたりと尻もちをついて地面に倒れた。
「すごいわね、ほんとにお口を閉じられちゃうなんて」
緒方先生はそんな僕らの様子を見て、底意地の悪い笑みを浮かべた。
なんで、どうして先生がこんなことを――
「ありがとう、榎さん」
緒方先生はまるで如何にも黒幕っぽい言い方で、
「これはありがたく、私がもらっておくわね」
榎先輩は信じられないといった様子で首を横に振っている。
真帆や井口先生、アリスさんたちの方に視線を向ければ、魔法使いたちは眉間に深い皺を寄せたまま、緒方先生の姿をじっと見つめ続けていた。
何か魔法で対処してくれるだろうと思っていたけれど、何か動きを見せる様子もない。
たぶん、緒方先生の出方を窺っているんじゃないだろうか。
険しい表情を見る限り、間違いないと思う。
緒方先生に顔を戻せば、彼女はぶらぶらと力なく揺れるひいお爺さんの腕のその手首の動きを楽しみながら、
「――でも驚いた。この学校に、榎さん意外にもまだ二人も魔法使いがいただなんて。井口先生もおっしゃってくれたらよかったのに。そうすれば、一年以上もかけずに、こうしてあっという間に魔法の腕を見つけることができたでしょうに」
責めるように、けれど満足げに緒方先生は口にして、手にした腕を振って見せる。
「これでこの魔法の腕は私のもの……! ようやく、ようやく願いが叶う……!」
低く唸るように言って、緒方先生は目を大きく見開いた。
普段見る緒方先生とのギャップに僕は怖れを感じ、思わず一歩あと退った。
緒方先生の願いが何なのかは知らないけれど、その表情から、相当に恐ろしいことを考えているんじゃないだろうか、と身が震えた。
けれど、そんな中で、
「――その腕を使って、何をするつもりなんですか?」
突然、真帆が口を開いたのだ。
「えっ?」
と緒方先生は驚きの表情を浮かべて、
「な、なんで喋れるのよ、あんた……!」
信じられない、といった様子で井口先生、アリスさんの方にも顔を向ける。
僕もつられて視線をやれば、井口先生は自分の口元にすっと手をやって指を動かし、
「――それはまぁ、我々も魔法使いなもんで。このくらい、自分で何とかできるんですよ」
と勝ち誇ったようににやりと笑んだ。
アリスさんも同じように口元で指をすっと動かすと、
「――榎さん、大丈夫?」
と榎先輩へ駆け寄って、お口のチャックを開けてあげた。
……で、僕は? 誰が解いてくれるの?
なんて思っていると、真帆がやれやれと言った様子で僕のそばまでやってきて、すっと指を向けてかけられた魔法を解いてくれる。
「あ、ありがとう、真帆」
「いえいえ、どういたしまして」
真帆はふっと笑みを浮かべてから、緒方先生の方に向き直ると、
「……それは榎先輩のものです。すぐに返してください」
じっと睨みつけながら、一歩前に足を向けた。
「い、嫌よ! これがないと、これがないと、私は――!」
慌てた様子で緒方先生はひいお爺さんの腕――魔法の腕をその胸に抱きしめると、今にも逃げ出しそうな勢いで後ろに下がる。
けれど自分で自分の足に躓き、ふらりとバランスを崩してよろめいた。
そんな緒方先生に、真帆はまた一歩近づいてから、
「先生、猿の手ってご存じですか?」
不敵な笑みを浮かべながら、そう訊ねた。
「さ、猿の手――」
猿の手――それはイギリスの小説家、W・W・ジェイコブズによって書かれた短編小説のタイトルだ。
見すぼらしい猿の手のミイラを手に入れた家族が、高い代償と引き換えに三つの願いを叶えてもらうという、有名な古典的ホラー作品。
たぶん、真帆は猿の手の話を引き合いにして先生を脅かし、ひいお爺さんの腕を取り返すつもりなんだろう。
けれど、
「だ、だからなによ。そんな手には乗らないわ。あれは所詮。物語の中の話でしょ?」
「さぁ、それはどうでしょう」
低く、落ち着いた様子で口にする真帆の言葉には重みがあって。
「な、なによ……!」
緒方先生も怯えた様子で、また一歩あと退った。
「先生は、魔法使いじゃありませんよね? 魔力を感じませんもん。けれど私たちは魔法使い――魔女なんですよ」
真帆が一歩近づいて、
「ま、魔女……!」
緒方先生は一歩さらに後ろに下がる。
けれどそこにはもはや図書館棟の壁しかなくて、背中を預けるような形で先生は自ら逃げ場を失った。
「その腕には魔力が宿っています。願えばどんなことでも叶えてくれるでしょう。けれど、その代償を、先生は必ず払わなければならなくなる」
「――っ!」
「先生は払えるんですか? その代償を」
「わ、わた、私は……!」
言葉に詰まる先生に、真帆はふっと笑みをこぼして、
「だから、はい。私たちに返してください。それは素人が手にしていいようなものじゃありません」
優し気に語り掛ける真帆。
それに対して、しかし緒方先生は激しくかぶりを振って、
「う、嘘よ……! 知ってるのよ、あなたがどんな問題児か。呼び出しにも答えず、授業中も教室を抜けてあっちへふらふら、こっちへふらふら。嘘ばかり口にして教師をからかって。どうせ、私のこともそうやって騙そうって言うんでしょう?」
「……もう、メンドくさいなぁ」
と真帆はそこで深いため息を一つ吐いて、
「そう思うのでしたら、どうぞ試してみてください」
「な、何ですって?」
「今から私、先生に魔法を掛けます。死の魔法です。先生がその魔法の腕を使って私を呪い殺さない限り、死ぬのは緒方先生、あなたです」
言うが早いか、真帆はすっと右掌を空に向かって挙げてみせた。
その途端、真帆の周りに激しい風が取り巻きだした。
ブオンブオンと音を立てて、風が真帆の長いスカートをはためかせる。
井口先生もアリスさんも、そんな真帆を止める様子はない。
榎先輩は大きく目を見開き、腰を抜かしたように地面に倒れたままだった。
全員が黙ってその様子を見ていることしかできないなか、次第に強さを増していく真帆の風に、緒方先生も相当に怖れを感じているのだろう。
胸に抱いていた腕をバッと真帆の方に向けると、
「腕よ! アイツを呪い殺してっ!」
その途端、ひいお爺さんの腕は狙いを定めるかのように、ピンと人差し指を真帆に向けた。
「――真帆ッ!」
それを見て、僕はたまらず駆けだしていた。
体が勝手に動いた、そういった方が良いかも知れない。
早く、早くやめさせないと、真帆が――!
必死だった、絶対に許せなかった。
それだけは、やらせるわけにはいかない……!
僕は真帆の脇を抜けてその前に立つと、地を蹴って緒方先生に飛びかかった。
「うあああああぁぁっ!」
力一杯に緒方先生に体当たりを喰らわせ、その手に握られているひいお爺さんの腕を左手で押さえつける。
ガンっと後頭部を壁にぶつけて膝から折れる先生を押し倒して、僕はその上に馬乗りになったまま右拳を振り上げて――
「大丈夫ですよ、シモフツくん。落ち着いて」
後ろから優しい声がして振り向くと、真帆が僕の振り上げた右腕をそっと掴んで立っていた。
「よく見てください」
言って真帆の指差す方に目を向ければ、左手で押さえつけたひいお爺さんの腕の手の平が、ひらひらと魚の尾のように揺れている。
その動きはまるで何か怪しげな呪文を唱えているように僕には見えたが、
「それ、呪文を唱えてるわけじゃありません。できないよ、ムリムリって、手を振っているだけです」
真帆の苦笑するような言葉に、
「……はい?」
僕はすぐには意味が解らず、眼を見開いて怯える緒方先生と見つめ合う。
そんな僕に、真帆は「ぷぷっ」と噴き出しながら、
「ほら、シモフツくんも井口先生から聞いたはずですよ。死の呪いなんて、この世には存在しないんだ、って」
「――あ、あぁ」
そう言えば、そんなことを言ってたっけ。
真帆にからかわれるようにして掛けられた、あの死の呪い。
あれはただ僕を怯えさせて楽しむために(だけじゃないけど)吐いた嘘っぱちで――
そうか、そうなんだよ。
死の呪いなんて、そもそも存在しない。
だから、真帆を呪い殺すなんてこと、最初からできるはずなんてなかったんだ。
そう思うと、何だか自分のこの行動が激しく恥ずかしくなってきた。
「――くううううううっ!」
僕は何とも言えないその恥ずかしさ紛れに、緒方先生からひいお爺さんの腕を奪い取ってやると、
「これは返してもらうからな!」
びくびく身体を震わせる先生から立ち上がった。
にっと口元に笑みを浮かべて僕を見てくる真帆から逃げるように榎先輩の方へ戻ると、
「どうぞ」
と、ひいお爺さんの腕を先輩に手渡した。
「――あ、ありがと」
とこくりと頷き、先輩は腕を受け取る。
アリスさんは「うんうん」と満足そうに何度か頷き、そのすぐ隣では井口先生が親指を立てながら、
「カッコよかったぜ、さすが彼氏!」
その一言が、僕の心を深くえぐった。