「おはようございます、焔様」
風呂からあがり、スッキリとした顔をしたリアンがテーブル近くで寛いでいる焔に声を掛けた。彼の長い黒髪はまだちょっと濡れていて、布でガシガシと拭き続けている。昨日着ていた服一式を着込むと礼装に近い格好になってしまうからか今はジャケットを羽織ってはいない。中に着ていた白いシャツとトラウザーズだけを穿いている状態なので、昨日よりも少し動きやすそうだ。
「……おそよう」
頬杖をつき、目隠し越しに視線っぽいものだけをリアンにやって、冷たい声で焔が挨拶を返した。
今朝の件もある。 無視をしたっていいかとも考えたのだが『コイツは覚えていないかもしれないんだよな』と思うと話を合わせる方が無難な気がしてくる。
「……おそ?あー、すみません。今って何時なのかわかりますか?」
テーブルを挟んで焔の向かい側にリアンが腰掛けた。そんな彼の様子を焔がチラリと伺った限り、表情は昨日の昼間と全く同じ雰囲気で、昨夜や午前の暴走が嘘の様に思えてくる。
(特に、午前の傲慢な口調は一体何だったのか……)
無難な方を選ぶ以上推測する事しか出来ないが、こっちの姿が猫を被った顔で、きっとベッドでの姿が奴の素なのだろうなと焔が思う。
(まぁ、召喚魔として仕える身にでもなれば、猫だろうが何だろうが被るよな。この俺だって、そうだったんだし)
そう考えた瞬間、オウガノミコトの酷く焦った顔が脳裏をよぎった。
最も古い記憶なせいか赤以外は全てモノクロになっており、彼が何と叫んでいるのかも思い出せない。自分の前には誰かが血に塗れた状態で寝転んでいて、二人の側で、当時はまだ子供だった焔が声を張り上げて威嚇する様に爪も牙も剥き出しにしている。だがその声は聞き取れず、自分が言った言葉のはずなのに記憶を掘り起こせない。記憶の中で 獣の如く叫ぶ己の姿はまさに鬼の形相と言うに相応しく、その焔にはまだ、目元に何も巻かれてはいなかった。
「……——焔様?如何されましたか?」
リアンの声が不意に聞こえ、焔が記憶の檻から強制的に引き戻された。
「あー……時間、だったか?俺に訊いたのは」
ぼんやりとした声に対し、「はい」とリアンが答える。『主人はいったいどうしたのだろうか?』とは思うも、焔やソフィアと同じく色々と詮索するタイプでは無いリアンは特に何も訊かなかった。聞いて欲しい何かがあれば、相手から言ってくるだろうという考えだ。
「昼が過ぎている事は確かだぞ。お前は風呂も長かったしな」と言いながら、焔が懐から懐中時計を取り出して時間を確認する。ゼンマイ仕掛けが硝子越しに見えるその文字盤はもう既に午後一時半近くを指し示していた。
「一時半だそうだ。とんでもなく寝坊したな」
「……起こして下さいと言いましたのに」
額に手を当てて、はぁと息を吐きながらリアンが項垂れる。彼のその様子を見て、午前の一件を彼は全然覚えていない事を焔が確信した。
「起こしはしたぞ?何度も肩を揺すったしな。それでも起きないから——」まで言って、一度焔の声が途切れた。
口を二、三回パクパクと動かし、着物の下に褌一枚すら穿けていない現状に対して恨言の一つでも言いたい気分になる。だが済んだ事をネチネチ言うのも気が進まない。内容も内容なだけあって、夢と思い込んでくれている方が好都合でもあった。
「——だから、これは無理だと諦めた。もう明日からは起こさないからな」
スッと顔を逸らて意識して淡々と普段通りに接する。『 そんなぁ』とでも言い出しそうな顔をリアンに一瞬されたが、自業自得であるせいか「そうですよね。自分で努力します」と彼は頷いたのだった。
『ただいま戻りましたー』
ログハウスの扉が自然と開き、ソフィアが森から戻って来た。 アイテム収集に出ると言っていたのでさぞかし沢山の荷物を抱えて戻って来るのだろうと焔は思っていたのだが、いつも通りの身軽そうな洋書しか見えない。外に何かを放置してきた感じも無く、焔はその様子を不思議に思った。
「おや、出かけていたんですね。お疲れ様です、ソフィアさん」
『おはようございます、リアン様。昼時は終わってしまいましたが、お腹が空いたりなどはなかったですか?』
「お気遣いありがとうございます。食べることは出来ますが、食べずとも平気なので大丈夫ですよ」
『リアン様もでしたか、なら良かったです。食事の心配をせずとも済むのは正直楽ですね』
「そうですね、確かに」と言うリアンの笑顔が何故かとても眩しい。
コレは何か良いことでもあったのだろうか?ソフィアが思い、『ご機嫌ですねぇ。何か良いことでもあったのですか?』とリアンに訊いた。
「わかりますか?実はですね——」なんて言うもんだから焔の肝が冷える。咄嗟に腕を伸ばし、急いで続きを言うのを止めるべきか?と考えた。
「夢見がとても良かったのですよ!」
「……ほ、ほう?」
動く直前まできていた焔の腕がぴたりと止まる。 焦りから無理に会話を中断せずに済んで本当に良かった!と焔が拳をこっそりと握った。
『夢見ですかー。それは何よりです。ワタクシは夢というものを見る事も無いので、羨ましい限りです』
うんうんと頷くみたいにソフィアが動く。
『ところで、どんな夢だったのですか?』
普段なら追求しないだろ!と焔がツッコミを入れたい心境になりながら、ずるずるとテーブルに突っ伏す。早まった行動をしなかった自分を褒めてやりたいが、ソフィアの事はぶん殴りたい心境だ。
「……ふふ。そこまでは秘密ですよ」
青い瞳を緩やかに細め、リアンが自分の口元に人差し指を立てた。言わないで済んでくれて本当に良かったが、夢だと思い込んでる事に関してはどうしたってちょっとイラッともしてしまう。目覚ましの為に風呂へ入るリアンを避ける為に桶に汲んだお湯だけで体を清める羽目になり、褌を汚され、着物がヨレヨレになった恨みはなかなか割り切れなかったみたいだ。
「それにしても荷物はどこにあるんだ?まさか今回は何も拾えなかったのか?」
話を逸らそうと、気になっていた疑問を焔が口にしてみる。するとソフィアはいそいそとした様子でテーブルに寝転ぶと、荷物一覧の書かれたページを開いた。
『こちらが今回の集取分となります』
ドヤッた雰囲気をまき散らし、ソフィアがふふんっと鼻息を荒くする。 誘導されるがまま開かれたページを二人が見てみると、鞄マークの入った欄に薬草や小石、太めの木材などといった素材名がずらりと並んでいた。
『昨日リアン様が色々と主人の能力値も割り振りして下さったので最大量の荷物を持てる様になっていたおかげで、かなりの量を回収することが出来ました。ありがとうございます、リアン様』
「いえいえ。役立ったようで何よりですよ」
召喚された自分に都合よくなる様に焔の能力を配分した事はソフィアにもバレていないみたいで、こっそりリアンが安堵の息を吐いた。
あまり焔本人の能力を優秀にしてしまうと、また自分の居場所を……存在意義を見失ってしまう。そんな恐怖心からおこなった行為が自己中心的なものである自覚はもちろんある。だが二人に対して後ろめたい気持ちを抱える罪悪感よりも、此処では必要とされたいという思いの方が圧倒的に強かった。
(でもまぁ、ベースの能力が焔は高いからな。俺優先で色々割り振りしたけれど、それでも十分戦闘能力は高いから問題は無いだろ!うんっ)
そう自分に言い聞かせてリアンが力強く頷く。気不味さからそう思い込もうとしているだけだということは、サラッと流して欲しい。
「で?荷物は」
『ゲームあるあるで、どうやら異空間に収納されている状態になっているようですよ。この一覧にある素材ならばいつでもお渡しできます。料理や裁縫のレシピなども色々と解放されているので、当初の予定に加えて、本日は今後の旅に役立ちそうな雑貨も色々とお作りになって過ごされるのも良いかもしれませんね』
「一体何なんだこの世界は。『料理』に『裁縫』……だと?魔王を倒すだけじゃないとか、前途多難過ぎだろ」
(『好感度』とやらも関係するらしいし、このゲームの『企画者』め、目見える事があったなら絶対に殴り倒す……)
そう思いながら焔が頭を抱える。だがしかし、『裁縫』に関しては興味を惹かれていた。何か着替えが欲しい。
今後の為にも主に下着類が。
人間達はちょっとのお金と明日のパンツがあれば生きていけるらしいが、自分には今日の褌すら無いとか勘弁して欲しい。
『おや、魔王を倒すだけではない、と。その様子では何か情報の進展があった様ですね』
ソフィアが鋭い指摘をする。 そのせいで焔とリアンが何とも言えぬ微妙な表情になった。『此処は恋愛シミュレーションゲームの世界ですよ』と言っていいのかリアンが困り、即座に気が付いた焔が面白いくらい全力で首を横に振る。
以心伝心。無言で会話が完結した事でリアンが嬉しそうに顔を綻ばせる。『自分の居場所』というモノを此処に感じられてとても嬉しい。
「えっとですね、フラグを回収しないと魔王を倒せないというか……」とリアンがしどろもどろになりながら、ざっくりとした内容で、また嘘を言った。
——もちろんそんな事実は、無い。
現状のままでも魔王・リアンは倒せる。恋愛シミュレーションゲーム的に言えばノーマルエンド、もしくはバッドエンドにはたどり着く事が出来る状態だ。
だが、リアン的には是非とも全イベントを制覇したい(重点的に夜伽の類を)。希望としてはもちろんパッピーエンドに。最悪の場合でもメリーバッドエンドに辿り着く程度にはフラグを回収したかった。だがしかし、今はどれがフラグなのか、二人の出逢いの時点から既に色々と狂ってしまっている状態なせいでこの世界の事を不自然な程に詳しいリアンにも明確にはわかっていない。
ひとまず、魔力回復の為に精液が必要だという関係性が、例外的に、二周目の召喚士と魔王の間にのみある仕様だけは変更されていないみたいで良かった……と、リアンは思った。
『そうなのですか。異世界にはインターネットや攻略本などが無い以上、どれがその“フラグ”とやらなのか不明ですよね。ならばこれはもう、色々な行動をしてみたり、サブクエストなどを消化したりもして地道に進むしかなさそうですねぇ』
リアンの歯切れの悪い言葉をソフィアがあっさりと信じてくれ、焔からも特に疑問を投げかけてくる様な気配は無かった。
そんな二人の様子を見て、髪を乾かす為の布を頭に乗せたままのリアンが『八面六臂の働きをするから嘘を言う不義理を許してくれ』と強く決意した。
「しっかし……面倒くさいな」
『言い切りましたね。流石です、主人』
「面倒でもこの先は地道に、ですね」
そうすればもっと焔達と一緒にいられるしな、と思いながら頭に乗せた布の端をギュッと掴む。
自分を必要としてくれる。
それがたとえ『召喚魔として』だとしても、必要とされる場所に少しでも長く居たくって、のんびり進む事を勧める事が出来た事にリアンは心底安堵した。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!