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「とりあえ俺の家来て」
「…?うん」
碧輝は僕の腕を掴んで走った。今まで鰭で泳いできたから、走るというのは何か不思議な感覚だった。碧輝は自転車の跨り、その後ろに僕を乗せた。ゆっくりと自転車を漕ぎ出し、山の間を通る道路を走る。
「速い…」
「あれ?もしかして自転車乗ったことなかと?」
「うん…」
碧輝は速度を緩めて、僕の方を振り向いた。その目に優しさが混じる。
「じゃあゆっくり行こうか。」
ゆっくりと自転車を走らせる。鯨と同じくらいゆっくりで、僕は退屈になってきた。
「…速いのがいいな」
そう小さな声で言うと、碧輝は振り向いてにっこりと笑った。
「おっちゃけんなよ?」
そう言うと碧輝は急に自転車を速く漕ぎ出した。後ろに落ちそうになり、咄嗟に碧輝にしがみつく。山を駆け抜けると田舎の畑と小さな家が見えてくる。涼しい夏の風が、二人の頬を優しく撫でた。
碧輝の背中にしがみつきながら、僕は初めて感じるスピードと風の感覚に胸が高鳴っていた。自転車は軽やかに坂を下り、田園風景が目の前に広がった。青々とした稲が風に揺れ、遠くには小さな家々が点在している。
「こんな風に風を感じるのは初めてだよ…」
僕は碧輝の背中に向かってつぶやいた。碧輝は少し振り返り、笑顔で答えた。
「よかやろ?風ば切って走るとは、なんか自由な感じがしてさ」
僕は頷いた。今まで水の中で感じていた流れとは違う、この地上の風の心地よさに、少しずつ魅了されていく自分を感じた。
「ここだよ、俺ん家。」
碧輝が言うと、自転車は小さな家の前でゆっくりと止まった。木造の家は古風で、どこか懐かしい感じがした。周りには花が咲き乱れ、風に乗って甘い香りが漂ってくる。
「さ、入って休もう。」
碧輝は自転車を降り、僕の手を引いて家の中へと案内した。
家の中は涼しく、畳の香りが広がっていた。窓からは庭が見え、夏の日差しが優しく射し込んでいる。碧輝は冷たいお茶を出してくれ、僕はその冷たさに驚きながらも一口飲んだ。
「お茶って、こんなに美味しいんだね…」
僕は感心しながら言った。碧輝は笑って頷いた。
「そうやろ?夏の麦茶って美味かよね」
僕はその言葉に、今まで知らなかった世界が広がっていることを実感した。地上の生活に対する興味と期待が、次第に膨らんでいくのを感じながら、僕は碧輝と過ごす時間を大切に思うようになっていった。
「碧輝、ここってどこ?」
「ん?長崎。諫早(いさはや)の多良見(たらみ)。」
「多良見……」
「よかとこばい。あ、もうすぐお昼やけんご飯作るね」
そう言って碧輝は立ち上がった。
「一緒にくる?」
僕は黙って首を縦に振った。碧輝は肩掛けカバンを持ち、僕の腕を掴んで外に出た。まっすぐな道が規則正しく並んでいて、潮風がゆっくり吹いていた。
「ここがスーパー。まつもとくんっていうとこ。安かし、いろんなもん置いとる。」
スーパーの入り口には瓶や果物が入ったカゴがたくさん積まれていた。店の中は野菜や果物、肉やお菓子が置いてあった。魚コーナーを見て、僕は何故か噛みつきたいという感情が湧いてきた。
「昼ごはん何がいい?」
「……魚がいいな」
「魚ね。じゃあ〜…鯖にする?」
僕はコクリと頷いた。なんだか寒い。冷房が効いているのだろうか。碧輝の腕をギュッと掴む。
碧輝は僕の反応に気づいて、優しく微笑みながら腕を握り返した。
「冷房がちょっと強いかな。すぐに買い物終わらせて、外出よ」
彼は手際よく鯖をカゴに入れ、他にもいくつかの食材を選んでいった。僕はその様子を見ながら、碧輝の腕にしがみついていた。冷たい空気の中、彼の温かさが頼もしく感じられた。
「もう少しで終わるけん、我慢し。」
碧輝は僕に優しい声で言い、最後に飲み物コーナーで何本かのペットボトルを選んだ。
レジを通り、外に出ると、暖かい日差しと潮風が迎えてくれた。冷えた体が徐々に温まり、僕はホッとした。
「お昼ご飯は家で作るから、それまで少し休もうか。」
碧輝は微笑んで言い、僕の手を引いて家に戻り始めた。
道中、僕は碧輝に質問した。
「ね、どうして助けてくれたの?」
碧輝は一瞬考え込んだ後、穏やかに答えた。
「なんでやろうね。まぁあんたば見たときにほっとけんって思うたんや。君が困っとう感じが伝わってきたけんかな。」
彼の言葉に、僕は心の中に温かい何かが広がるのを感じた。自分がまだよくわからないこの世界で、碧輝の存在が大きな支えとなっていることを改めて実感した。
「ありがとう。君がいてくれて、本当に助かってるよ。」
碧輝は照れくさそうに笑って肩をすくめた。
「そんなことなか。でも、そう言ってもらえると嬉しい。」
僕たちは再び家へと向かい、静かで穏やかな道を歩き続けた。これから何が起こるのかはわからないけれど、碧輝と一緒なら、少しずつこの新しい世界に馴染んでいけるかもしれない。