神楽坂仁のドラマはラブコメ要素の強いオフィスラブ系のドラマだった。秋の新ドラマ枠で今日は第三話目。途中からでもなんとか話についていけそうだ。
綾子はそのドラマを見ながら信じられない思いでいる。
(本当に神楽坂仁がこのドラマを作ったの?)
彼の小説のファンにとってそのドラマはかなり衝撃的なものだった。なぜなら彼が今まで書いてきたベストセラーの小説には似ても似つかない。
まさかあの神楽坂仁がラブコメドラマの原作を書くとは誰も思っていなかっただろう。
綾子はびっくりしながらしばらくドラマに見入っていたが途中で思わずプッと噴き出してしまう。
オフィス内での主人公二人のやり取りが面白過ぎて声を出して笑ってしまった。
そこで綾子はハッとする。声を出して笑うなんていつ以来だろう?
しかし今はドラマの続きが気になるのでテレビに集中した。
気付くと綾子はドラマが終わる10時まで他の事は一切何も考えずにドラマに没頭していた。
ドラマが終わると綾子はフーッと息を吐いてソファに沈み込む。
窓からは時折涼しい夜風が入ってきた。庭からは虫達の賑やかな鳴き声が聞こえてくる。もうすぐ軽井沢には本格的な秋が訪れる。
ふと夜空を見上げると明るい月が輝いていた。綾子は月を眺めながら久しぶりに心穏やかな一日を過ごしていた事に気付く。
その日綾子は久しぶりに朝までぐっすりと眠れた。
翌日、綾子はいつもより早い時間に出勤した。普段はもう少し遅く家を出る。
いつもは皆がロッカールームからいなくなった頃を見計らって着替えをしていた。しかしこの日は少し早めに出勤した。
ロッカールームの前まで行くと耳をつんざくような賑やかな声が漏れてくる。
しかし綾子がドアを開けて中へ入った瞬間シーンと静まり返る。
(やっぱり昼休みにすればよかったかな)
その場の雰囲気を変えてしまった事に綾子は居心地の悪さを感じる。しかし綾子は光江に茄子のお礼をひとこと言おうと思ったのであえて早く出て来た。
こういう律儀過ぎる性格が時々嫌になる。もっとちゃらんぽらんに生きられれば生きるのも楽なのかもしれない。
そこで綾子は意を決して奥にいる光江の傍へ行った。すると隣の女性と話していた光江が綾子に気付いた。
「あ、あの……茄子ありがとうございました」
ひとこと言うのが精いっぱいだった。なぜなら皆が綾子に注目している。綾子が言葉を発した瞬間皆が息を呑むのがわかった。
『嘘っ、あの人喋れるの?』
『初めて声聞いたかも』
『へぇ、ちゃんと喋れるんじゃん、いっつもシカとしてるのにね』
そんな囁きが耳に入る。
すると光江が怒鳴った。
「陰口みたいなのはやめなっ! 言いたい事があるなら堂々と言えばいいじゃんっ」
すると室内がシーンと静まり返る。
そして光江は綾子に言った。
「茄子、何にしたんだい?」
「え、あ、パスタです……」
「洒落てるねー、内野さんだったらきっと洒落た料理にするんだろうなーって思ったよ」
光江はそう言ってガハガハと笑った。
「うちの親戚は農家が多いからさ、また持ってきたら貰っておくれよ」
光江はそう言ってから綾子の肩をポンと叩くとロッカールームを後にした。
綾子はとりあえずお礼が言えたのでホッと息を吐く。そして静まり返ったロッカールームで居心地の悪さを感じながら着替えを始めた。
その日の昼休み、屋上にいる綾子の元へ光江がやって来た。
光江はいつものように隣に座ると煙草を吸い始める。
今日は何も話しかけてこないので、綾子は勇気を出して話しかけてみた。
「昨日ドラマ見ました」
綾子が先に口を開いたので光江は少し驚いた様子だったが、煙草の煙をフーッと吐き出すと言った。
「面白かったでしょ? 小説と全然違うんだもんね。ちなみにあのドラマは三本目だからね」
「そうなんですか?」
「うん。一昨年初めてドラマの原作を書いたのが大ヒットしてあれで三本目だよ。テレビばっかりにかまけてて小説の方ちゃんと書いてんのかねー」
綾子も頷く。
神楽坂が小説を書かなくなったら楽しみがなくなってしまう。
「でもさぁ、ミステリーだのサスペンスだのの物書きがあんなドラマを書くんだからね。あの人才能あるよね。あの人のドラマが始まる前は、あの……ほらナンチャラっていう脚本家のドラマばっかりでさぁ、あたし見る気がしなかったんだよね」
「ナンチャラ?」
「そう、松ナンチャラ…だったかな? あのやたらおオシャレっぽい空気感ばかり出す気取ったドラマだよ」
綾子は光江が元夫のドラマの事を言っているのだと気付いた。
「松崎隼人?」
「そうそうそいつ! テレビをつければアイツのドラマしかやってないからあたしゃしばらくドラマは見なくなってたんだよ。あの松崎ナンチャラって勘違い野郎じゃない? ドラマの内容は薄っぺらいのに有名女優を起用すればいいと思ってる感じ? 視聴者を馬鹿にしてるよね」
それを聞いて綾子は思わず笑いそうになる。なぜなら綾子も同じ事を思っていたからだ。綾子は以前隼人の妻だったが夫の作品に対する評価はそれほど高くはなかった。もちろんそんな事は隼人には言わなかったが。
「それに比べたら神楽坂のは面白いよねー。一作目は不倫もの、二作目は病院もの、で三作目はラブコメでしょう? 次は純愛ものをやってもらいたいなー」
そこで綾子は思わずクスッと笑ってしまう。光江が『純愛もの』を切望していると知りつい可笑しくなってしまったのだ。
「なんだ、内野さん笑えるんじゃん。だったら普段も笑った方がいいよ、あんた美人だから」
光江は凄みがある顔を緩ませて言った。
「さーて、あたしも缶コーヒーでも買って来るかなー」
煙草を消してベンチから立ち上がった光江はゆっくりと階段へ向かった。
後に残された綾子はポカンと狐につままれたような顏をしていた。
コメント
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ノルノルさん,華子さん、らびぽろさんが言われるように,ほんと光江さん優しい‼️神楽坂さんが事故の事小説が何か書いて元旦那脚本,主演不倫女で自分達の罪の重さがどれだけの事をしたのか知って欲しいとつくづく思うわ。
光江さんの優しさ、温かさにグッときますね....😢💖 神楽坂氏の小説の話題から、少しずつだけど 心を開きはじめている綾子さん....本当に良かった🥺🍀