ミヒは、ただ、様子のおかしいチホを伺うしかない。
「私は、ジオンに斬られた。気がついたときには、あなたのお姿はなかった。ご無事だったのですね。私一人、生き残ってしまったと悔いていたが……」
言うチホの手は……震えている。
何が起こったのか……。
斬られた?
背中に傷が……。
「……走ったのよ……私……。言われたとおりに……」
男の声がした。
確かに、走るように言われて……。
胸が踊った。あんなに走ったのは久しぶりだった。
「私……言われて……」
「あの時言ったのですよ。走るように。逃げるように」
「逃げるように?」
「……私は、キル。あなたのしもべ」
自分を押さえつけた男が、かしづいていた。しもべと言って、ミヒに頭を垂れていた。
男が……あの時いた。
夢の中に?
あの時?
しもべ……。
……キル。
見ていたのは、
いったい、何を……。
何を見ていたのだろう。
夢は、何?
チホは、背中に傷を受けている。
ジオンが、ジオンが剣を振るっていた。
チホ?
傷?
何……?
いったい、何なの!
ミヒの体中の血が、ザッと引く。
ジオンは夢を嫌った。
なぜ?
それは……。
それは……。
……夢の意味が、見えた。
それは、
記憶!
ジオンは……!
「で、でも、私は、育てられたのよ!愛されていたのよ!あなたは、私を……!私を拐った!」
チホに向けられる瞳からは、たちまち涙が溢《あふ》れ出した。
かきむしられる胸――。
夢は……。
夢は……!
知ってしまった事実は、あまりにも残酷でせつなすぎた。
恋しいと思い続ける男は、誰――?
愛しいと、すがっていた男は……、ミヒの命を狙った。そして……自分を不幸に突き落としたと思っていた男こそミヒを守りぬいた。
チホの背中の傷は、ミヒを守るために受けたもの。
日々恋しい思いを募らせているジオンによってつけられたもの。
腫れ上がる……傷痕。
「どうか、泣かないでください」
チホは、泣き崩れるミヒの手をとる。
(……どうして、この娘に惹かれるのか。辛抱強く抱きしめることができたのか、やっとわかった……。)
しかし。
信じられない。どうして、いまさら。
ミヒの細い指は、震えていた。
指だけではない。彼女自身、何かから逃れようとばかりに……震えていた。
「私、私……」
嗚咽するミヒを、チホはしっかりと抱き止めた。
「私が見ていたのは……」
ミヒの呟きに頷くチホは、本来の姿、主人を守る従者に戻っていた。
――ミヒは、ミヒでなく、チホは、チホでない――。
では……誰なのか……。
行き場のない思いが闇の中をうごめいた。
空が朝焼け色に染まり、眠れない夜は明けた。
二人は黙って寄り添い、皮肉なめぐり合わせを噛みしめている。
「お忘れください」
外から、どさり、どさりと雪がしずれる音が響いてくる。
「よろしいですね?」
チホは確かめるよう声をかける。
ぴくりとミヒの体が動き、むさぼるように、チホの唇を求めた。
「いけません。わかってしまえば、抱けないものです」
ミヒの指が宙を掻く。
チホに押しとどめられた細い指が彼の背で、たゆたう――。
胸の思いをどこへぶつけていいのかと、瞳は涙で潤んでいた。