テラーノベル
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朝の光が、廊下に薄く伸びていた。石の冷たさが、靴底からじわりと上がる。
縫季は歩いていた。歩いて、いなかった。
足は前へ出ているのに、胸の奥だけが置き去りになる。昨夜の決め事が、まだ固まっていない。
(……行く)
言葉にすると、途端に嘘みたいに軽い。だから、息で押さえ込む。
そのとき、背で音がした。政務の間の扉が、静かに開く音。
縫季は止まる。止まってしまう。
「縫季」
名が呼ばれた。朝の空気に、帝辛の声が落ちる。柔らかいのに、背筋だけが勝手に伸びた。
振り返る。扉の向こうに、帝辛が立っている。光を背にしているせいで、輪郭が少しだけ白い。
いつもの穏やかな表情。けれど、目の奥が違った。何かを決めた人の静けさ。
「少し、時間があるか」
問いという形をしている。でも、帝辛は待っていた。扉の内側へ、一歩だけ引いて。
縫季は頷くしかない。頷いた瞬間、自分の中の何かが、かすかに折れた。
「……はい」
帝辛は何も言わず、室内へ戻る。縫季が続く。扉が閉まる音は、静かだった。
静かすぎて。閉じ込められた感じがした。
政務の間の奥に、小さな卓がある。朝の光が、卓の端にだけ触れている。
茶器が置かれていた。いつもここにあるものなのか、今日だけなのか。縫季には分からない。分からないまま、喉が渇く。
帝辛が卓の前へ座る。向かいの座を、手で示した。
「座れ」
命じる声ではない。けれど、拒む余白は残らない。縫季はゆっくりと腰を下ろす。
帝辛は黙って、湯を用意した。火の気配。湯が沸く音。白い湯気が、薄く立つ。
その湯気の向こうで、帝辛の指先が動いた。
――あの仕草。
縫季は、呼吸を止める。帝辛の指が、碗へ伸びる。湯の表面すれすれで、止まる。
触れない。触れずに、温度を測る。
指先が空気を読み取っている。ほんの一瞬。そして、碗を傾ける。
湯が茶葉へ落ちる。音が小さく、香りだけが大きい。ふわり、と。胸の奥へ入り込む。
(……同じだ)
あの日。初めて二人きりで茶を交わした日。帝辛の指先。碗の傾き。湯気の白さ。
あの時も、こうだった。
縫季は、視線を外せない。外したら、何かが崩れる気がした。
帝辛が茶を淹れ終える。碗を両手で持ち上げた。
差し出す。碗の向きを、ほんの少し整えて。
相手の口が当たる場所を、相手のために空ける。その小さな配慮が、痛い。
縫季は受け取った。
冷えた掌に、温もりが乗る。
去っても、この線はしばらく残るのかもしれない。
縫季は、その事実を胸の奥に押し込んだ。
「……ありがとうございます」
声が掠れる。掠れたのが恥ずかしくて、茶の湯気を見た。
帝辛は自分の碗へも注ぐ。その所作が、いつも通りで。だから余計に、今日が特別だと分かる。
二人で茶を持つ。中庭が見える。白い花が揺れている。葉が擦れる音が、細い。
朝は、こんなに静かだったか。縫季は思う。思った瞬間に、胸が軋む。
(……あの日と同じだ)
光。風。二人きりの余白。
でも、今は違う。あの時は始まりだった。今は――
「縫季」
帝辛の声が、落ちる。
「もうすぐ、去るのだろう」
縫季の手が止まる。碗が揺れそうになって、指に力を入れる。
帝辛は中庭を見たまま続ける。
「分かる」
「そなたの目が、別れを語っている」
縫季は、何も言えない。否定の言葉が浮かぶより先に、喉が硬くなる。
帝辛は小さく息を吐いた。
それだけだった。
しばらく、沈黙が続く。
やがて帝辛が口を開いた。
「子嘉の言う通りだ」
一拍。
「私は、そなたを置く根拠を持てなかった」
自嘲ではない。ただ、事実として置く声だった。
「血統で人を測る制度を変えたいと思っている。だが今の私には、まだその力がない」
帝辛の指が、碗の縁を一度だけなぞる。
「変えようとするほど、敵が増える。増えるほど、守れるものが減っていく」
中庭で、花が揺れている。
「……悔しいな」
その一言だけが、掠れた。
コメント
1件
ああ、もう…この回、すごく良かったです…。縫季が帝辛の茶を淹れる仕草に「同じだ」と気づく瞬間、胸がぎゅっとなりました。何も変わっていないようで、でももうあの頃とは違う距離感。帝辛の「悔しいな」が本当に刺さります…。王でありながら変えられない現実と、それでも縫季を想う気持ちが、あの短い一言に全部詰まってました。朝の光と湯気の描写も美しくて、しばらく余韻から抜け出せそうにないです…。
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