家まで帰るには、地下鉄とバスを使わなければいけない。直線距離では大して遠くはない方なんだが、丁度いい交通機関がないのだ。急いで地下鉄に向かい、目的の駅で降りる。乗りたいバスの出ている場所までは地下鉄から少し離れたJRの駅前まで行かなければならない。いつもなら表通りを通って向うのだが、『近道を』と言っていた宮川の言葉に従い、俺は裏手の路地に入った。
ここは風俗店が軒を連ねている通りで、正直俺は大っ嫌いな場所だ。もちろん、色々な事情でこういう場所で働く人達を非難する気は無い。だが、呼び込みの人間に声を掛けられるのがどうもイヤでしょうがない。
確かに近道ではある。でも、呼び止められるのが嫌で、普段はどうしても通る気になれない場所だ。強引な奴がいると表を通るよりも時間が掛かる事もあるからだ。
出来るだけ周囲を見ない様にして、急いで歩く。だが、未成年者に売春を斡旋しているかもしれない店がこの辺りにあるという話を聞いたのを思い出し、ふと顔を上げて見てみた。
確か店の名前は『ピンクドール』だ。店名を思い出せても、看板が多くて上手く探せない。どれもこれも女の裸に近い絵や写真ばかりが周囲に溢れる。
(あった、あれか)
看板の位置から、店舗は二階にある様だ。念の為場所も覚えたし、もう行こう。噂の域を出ていない情報だし、事件でも起きない限り、今の俺に無関係だ。
——そう思った時だった。
ゆっくりとその店のドアが開くのがチラッと視界に入った。
(客だろうか?)
職業病なのか、どうしたって気になってしまう。少し隠れ、誰が出て来るのか確認しようと店の方を見る。そんな事をする必要もないのに、体が自然に動いた。
出て来たのは、ひどく背の低い女だった。
水色のキャミソールに、短めのスカート。ブランド物と思われる鞄を持ち、周囲の様子を窺っている。
「…… 嘘だろ、まさか…… そんな」
あまりのショックに驚いて体が動かない。
(…… 唯じゃないか)
あまり周囲に人が居ないタイミングを見計らって、唯は急いで階段を駆け下り、バス停の方向へ走って行った。
その様子に言葉を失い、口元を押える。
信じられない……。何で、よりにもよって、唯があの店から出てくる?
飲み屋での、『火の屋』でのバイトではなかったのか?まさか、そう偽って、彼女が売春でもしていたというんだろうか。
いや、まさか…… そんな、はずは…… 無い。無いと思いたい——
でも、結婚してからというもの、唯はやたらと俺に抱かれたがっていた。
ずっと『夫婦だからなのだ』と思っていたんだが、もしそれがただ男に飢えていただけだとしたら?
誰でもよかったんだろうか。
心の中で、何かが崩れていく感じがする。
今まで押さえ込んでいた、全てが——
「…… ははは!…… なんだ、もう守る必要なんて無いんじゃないか」
ボソッと呟き、バスに乗る気のなくなった俺は、タクシーを拾ってそれに乗った。
移動中、すれ違ったバスに乗っている唯の姿がチラッと見えた。
眼を閉じ、満足気な顔だ。
イライラする。
(誰と寝てきた?誰に体を許し、甘えてきたというんだ。人が必死に働いている間に、よくもまぁこんな酷い裏切りが出来たもんだよ。俺がどれだけお前を愛していると思ってるんだ…… )
黒い感情に支配されたまま、タクシーがマンションの前に停まる。料金を払い、部屋へと向うが、足がおぼつかない。
何とか家に入り、中に上がるも、電気をつけるような気持ちにはなれなかった。窓から入る外灯の灯りにすらイライラする。何もかもが気に入らない。シャッとカーテンを閉め、俺はその場に座り込んだ。
…… もうすぐ唯が帰って来る。
(知らない男とでも寝るような女の体が壊れようが、俺には関係ないよな)
思うがままに抱き、たとえ今までの女達同様に嫌われたとしても、もう唯が俺から逃げる事など出来ない。離婚は両方の承諾がいるし、夫婦間での強姦罪は立証が難しい為、成立した例は残念ながら少ないはずだ。
(そうか、もう我慢しなくていいんだ…… )
何かが吹っ切れた感じがする。が、同時に唯への猜疑心に支配される。理性なんてものは既に無く、もう何もかもがどうでもいい。
ガチッと、鍵の開く音が部屋に響いた。
俺はゆっくりと立ち上がり、唯の方へ歩いて行く。
裏切りの代償がどれだけ重いのか、自らの体で味わってもらおうか——
【完結】
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!