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#コメディ時々暗闇
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#妖怪
百はな🍑
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◆ 首相官邸 記者会見室
時計が午後九時を指した瞬間、威圧的な政府の紋章がホログラムに浮かび上がり、荘厳な音楽が会見室に鳴り響いた。だが、それは王宮の大広間で奏でられるはずの、由緒ある式典曲ではなかった。光の粒子が空間を漂い、ホログラムによって投影された王家の紋章が鮮明に浮かび上がった。
その幻想的な光の中から、イザリオとエルファーナが、レイチェを伴ってゆっくりと姿を現した。しかし、そこは王宮ではなかった。本来、この儀式に臨席するはずのイーサム王も、その傍らに控える侍従長バルティスも、どこにも姿がなかった。代わって壇上に現れたのは、リヴァン首相と、その側近であるマラー首相補佐官だった。
マラーが捧げ持つ儀礼用の盆の上には、王冠と儀仗の杖が載せられていた。
王冠の中央にはイエローエナジーストーンが据えられ、金、銀、プラチナによる精緻な装飾と、随所にちりばめられたダイヤモンドが、照明を受けてまばゆい輝きを放っていた。儀仗の杖にも同様の意匠が施され、その豪華さは王権の象徴にふさわしいものだった。
だが、神聖であるはずの王位継承の儀式は、国王不在のまま進められようとしていた。それはまるで、リヴァン首相が自らの野望を実現するために仕組んだ壮大な政治劇のようだった。
やがて、イザリオが壇上の中央へ進み出た。
エルファーナとレイチェは、その後方に設けられた席へ静かに腰を下ろした。
レイチェは、壇上に立つイザリオの背中をじっと見つめていた。
リヴァンはゆっくりと壇上の中央へ進み、一枚の書状を広げた。
同時に、その内容が背後のホログラムに映し出される。
【王位譲渡の誓書】
書状の中央には、紛れもなく国王の印章が押されていた。
リヴァンは書状へ視線を落とし、厳かな口調で読み上げた。
「ここに、我が王位および王権のすべてをイザリオへ譲渡し、イーサム王国の新たな国王とする。イーサム・アーシェス・ルミナス」
読み終えると、リヴァンはゆっくりと顔を上げた。
「――代読、リヴァン・カイザ」
その低く重々しい声が、会見室に響き渡った。
リヴァンの口元に、抑えきれない笑みが浮かんだ。
長年にわたって胸に秘めてきた野望が、ついに実現へと動き始めた。
その瞳が赤黒く揺らめき、勝利を確信したかのような誇らしさがにじんでいた。
続いて、リヴァンは儀仗の杖を手に取り、イザリオへ差し出した。
イザリオは無言でそれを受け取った。
新たな王となる喜びは、その表情には浮かんでいなかった。
しかし、完全に感情を失っているわけでもなかった。
ほんの一瞬、戸惑いにも似た光が、その瞳の奥をよぎった。
儀仗の杖を握る指先にかすかな力がこもる。
やがて、イザリオは定められた位置へ進み正面を向いた。
その姿は、あまりにも従順だった。
リヴァンが一歩前へ進み出る。
それに応じるように、イザリオはゆっくりと壇上に膝をついた。
リヴァンはマラーから王冠を受け取ると、跪くイザリオを見下ろした。
そして、その頭上へ静かに王冠を載せた。
「イザリオ新王、万歳!」
リヴァンの高らかな祝賀の声が会見室に響き渡った。
だが、その声に呼応する者は、あまりにも少なかった。
「……万歳!」
ラマズド長官、マラー、そして数名の官邸職員が、申し合わせたように腕を掲げた。
その声には、祝福の熱気も、新王誕生への喜びも感じられなかった。
やがて、祝賀の音楽が流れ始めた。
リヴァンとイザリオは壇上に並び、報道陣のカメラへ正面を向いた。
パシャッ。
パシャッ、パシャッ。
カメラのシャッター音が、断続的に響き始めた。
会見室には、祝賀の歓声も拍手もなかった。
華やかな音楽が流れるなか、ただカメラのシャッター音だけが、虚しく響き続けていた。
◆ ヨナクル島 西の島エルフィオン避難所 臨時仮設村役場
首相官邸で執り行われている王位継承の儀式は、王国全土へ生中継されていた。セレナ村長は、執務机に置かれた映像端末を、険しい表情で見つめていた。画面には、王冠を戴いたイザリオと、その傍らに立つエルファーナの姿が映し出されている。
「……やはり、何かがおかしいわ」
セレナの胸には、拭いきれない疑問が残っていた。今夜、王都セイラン城の湖岸で開催された奉祝行事。その模様を伝える生中継では、華やかな花火が夜空を彩るなか、イザリオ王子とエルファーナ王女の姿が映し出されていた。しかし、二人がヨナクル島を出航したのは、昨日の夕刻だった。ヨナクル島から王都までは、普通の船なら少なくとも三日はかかる距離である。いくらオルシオンが速い船とはいえ、一日余りで到着できるとは考えにくい。
途中で飛空艇に乗り換えた可能性もある。だが、赤黒い霧の影響で空港は無期限に閉鎖されており、空路での移動も困難なはずだった。
「今夜の奉祝行事には、もう王都にいらっしゃった……」
セレナは眉をひそめた。
「……そんなはず、ないのに……」
そして、もう一つ。
奉祝行事の後に行われたリヴァン首相の緊急記者会見も、セレナの不安を深めていた。
首相は西のバリア塔の崩落について説明したものの、避難を余儀なくされたエルフィオンの島民たちへの救援については、具体的な方針を何一つ示さなかった。
「私たちは、故郷を失ったのですよ……」
セレナの小さな声が震えた。
「それなのに、救援について何もおっしゃらないなんて……」
政府危機管理センターへの救援要請にも、いまだ応答はない。そして今、画面の中では、国王不在のまま王位継承の儀式が進められている。
セレナは画面を見つめた。
そこにいるイザリオとエルファーナは奉祝行事と同じように、硬い表情を浮かべている。島民たちを励まし、温かな笑顔を向けてくれた二人とは、まるで別人のようだった。
(イザリオ様……エルファーナ様……お二人とも、表情が強張っていらっしゃる……)
(島の人々に見せてくださった、あの優しい笑顔はどこへ……)
(いったい、何があったのでしょう……?)
胸に広がる不安を拭いきれないまま、セレナは通信端末を手に取った。
今度こそ政府から回答が得られるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、再び政府危機管理センターへ接続を試みた。
【政府危機管理センター・通信接続中】
しかし、表示されたのは、見慣れた赤い警告文字だった。
【接続失敗】
【応答なし】
「……また、つながらない」
セレナは深く息を吐いた。映像端末では、リヴァン首相が誇らしげに微笑んでいる。その姿を見つめた瞬間、セレナの脳裏に、遠い日の記憶がよみがえった。かつてリヴァンが西の島エルフィオンを視察した際、島民たちを前に力強く語った言葉だった。
『たとえ、この島に不測の事態が発生したとしても、政府の監視衛星と王研の監視システムが、いち早く異変を察知します。我々政府は、あらゆる手段を講じて、島民の皆さまの生命と安全を守ることをお約束します』
あのときのリヴァンは、確かに頼もしかった。そして、その言葉を裏付けるかのように、視察からほどなくして西の島エルフィオン島内の通信設備が整備された。
約束を言葉だけで終わらせず、迅速に行動へ移した首相。その姿勢に、セレナは深い信頼を寄せ、島の安全を確信していた。
しかし、今はどうだろう。
島はエルフバリアを失い、赤黒い霧により島の動物は魔物に異常進化し凶悪化。多くの人々が故郷を追われた。それにもかかわらず、政府からは救援の知らせさえ届いていない。
「……リヴァン首相。あのとき、島民の生命と安全を守るとお約束してくださったお言葉は……
いったい、どこへ行ってしまったのですか……」
セレナは、それ以上言葉を続けられなかった。
そして、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「皆さんの様子を見に行かなければ」
通信端末を手に取り、集落広場へと向かった。
◆ ヨナクル島 集落広場
同じ頃、ヨナクル島の集落広場では、大勢の島民たちが、首相官邸で執り行われている王位継承の儀式を、大型スクリーン越しに見守っていた。
王冠を戴いたイザリオと、その傍らに立つエルファーナ。
画面に映る二人を見つめる島民たちの表情は、決して明るいものではなかった。
「……やっぱり、何かおかしいぞ」
一人の島民が、腕を組みながらつぶやいた。
「どうしたんだ? 王子様も王女様も、ご無事じゃないか」
「それはそうなんだが……考えてもみろよ。昨日の夕方に島を出航されたばかりなんだぞ。それなのに、今夜の奉祝行事には、もう王都にいらっしゃった」
「王都から特別な迎えが来たんじゃないのか? 王子様たちが無事なら、それでいいじゃないか」
先ほどの奉祝行事では、その言葉に周囲の島民たちも納得しようとしていた。何より、二人が無事に王都へ帰還できたことを喜びたかったのだ。だが、続いて始まった戴冠式は、その安堵を再び疑念へと変えていった。
「さっきまでは、王子様たちが無事なら、それでいいと思っていたんだ。だが……」
男は画面を見上げた。
「陛下がご不在のまま、王冠を授けるなんて……いくらなんでも、おかしくないか?」
「そうだよな……どうして首相官邸で戴冠式をしているんだ?」
「王位継承の儀式なら、セイラン城で行うのが普通じゃないのか?」
「国王陛下は、王研で魔物に襲われて療養中だと発表されていたな」
「だったら、陛下のご回復を待つべきじゃないのか?」
島民たちは、互いに顔を見合わせた。先ほどの奉祝行事では、二人の無事を喜ぶ気持ちが疑問を上回っていた。しかし、首相官邸で進められる異例の戴冠式を目の当たりにして、その疑問は少しずつ大きくなっていった。
そのときだった。
「ねえ、お父さん」
最前列にいた少年が、父親の服の裾を引いた。
「どうした?」
「イザリオ様……どうして笑わないの?」
少年は大型スクリーンを指さした。
「僕たちが作った王冠と王の杖を渡したとき、あんなに喜んでくれたのに……」
父親は大型スクリーンへ視線を向けた。
イザリオは、まっすぐ正面を見据えていた。
その表情には、島民たちが祝福したときの温かな笑顔がない。
「きっと、緊張していらっしゃるんだろう」
「でも、さっきの花火大会でも、ずっとあんな顔だったよ」
少年は不安そうに首をかしげた。
「ねえ、本当に、僕たちの知っているイザリオ様なの?」
父親は、すぐには答えられなかった。
その隣では、小さな少女がエルファーナを見つめていた。
昨日、手作りのブローチを王女へ贈った少女だった。
「……お母さん」
「どうしたの?」
「エルファーナ様も、笑っていないね……」
少女は、母親の手をぎゅっと握った。
「昨日は、私が渡したブローチを見て、とっても喜んでくれたのに……」
画面の中のエルファーナは、硬い表情のまま、イザリオの傍らに立っていた。
「ずっと、あんな顔してる……」
「きっと、エルファーナ様もお疲れなのよ」
母親は少女の肩を優しく抱き寄せ、安心させるように微笑んだ。
「違うもん! 違う! 違う!」
少女は首を横に振った。
「エルファーナ様は、もっと優しい顔をしていたもん!」
その声が、次第に震え始めた。
「昨日は……あんなに笑ってくれたのに……」
少女は画面を見つめたまま、母親の服をぎゅっと握りしめた。
やがて、大きな瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
その様子を見ていた近くの島民が、大型スクリーンへ視線を戻した。画面の向こうでは、リヴァンが主導する戴冠式が、厳粛な雰囲気の中、滞りなく進められている。そんな中、別の場所からも島民たちの声が上がり始めた。
「それに、先ほどの首相の記者会見も気にならないか?」
「西のバリア塔が崩落したという発表のことか?」
「ああ。甚大な被害が出ているというのに、俺たちへの救援については、何一つ説明がなかったじゃないか」
「政府は、いったい何をしているんだ?」
「俺たちは故郷を失ったんだぞ!」
その悲痛な叫びに、周囲の島民たちも次々と声を上げ始めた。
「王都では奉祝行事を開いて、今度は戴冠式だ。それなのに、避難している俺たちへの支援はどうなっているんだ!」
男は悔しそうに拳を握りしめた。
「イザリオ王子様だって、俺たちに約束してくださったじゃないか。西の島の復興に力を尽くすと……」
その声が、わずかに震えた。
「まさか、あのお言葉まで嘘だったというのか?」
先ほどまで王子と王女の無事を喜んでいた男も、今は険しい表情で画面を見つめていた。
「イザリオ様たちがご無事なら、それでいいと思っていた」
男は、ゆっくりと首を横に振り顔を伏せた。
「だが、今はもう……何を信じればいいのかわからない」
そのときだった。
「皆さん!」
広場の後方から、セレナ村長が姿を現した。
島民たちが一斉に振り返った。
「村長! 政府と連絡はつきましたか?」
セレナは、静かに首を横に振った。
「いいえ……残念ながら、政府危機管理センターとは、今も連絡が取れていません」
「まだですか!」
「西のバリア塔が崩落してから、どれだけ時間が経っていると思っているんだ!」
セレナは島民たちを見渡した。
「皆さんのお気持ちは、よくわかります。私も、今回の政府の対応には疑問を感じています」
そして、大型スクリーンへ目を向けた。画面の中では、リヴァンがイザリオ新王の前で万歳三唱している映像が映り込んだ。その姿を見つめていた一人の島民が、声を荒げた。
「リヴァン首相はいったい、何を考えているんだ!」
「国民を守るという言葉は、全部嘘だったのか!」
再び怒号が幾重にも重なり、広場の空気が一気に険しくなった。
そのときだった。
ふと沖合に目を向けた一人の島民が、異変に気づいた。
「おい、あれを見ろ!」
男が指さした先、ヨナクル島から離れた夜の海上に、赤黒い霧が薄く漂っていた。
闇に溶け込むようなその霧の奥で、赤い光が脈打つように揺らめいている。やがて霧の一部が渦を巻き、まるで広場に渦巻く怒りに呼応するかのように、ゆっくりと島の方角へ伸び始めた。
「霧が、こっちへ向かっているぞ!」
島民たちが次々と沖合へ視線を向けた。子どもたちは悲鳴を上げ、母親にしがみついた。老人たちは互いに身を寄せ合い、広場のあちこちからおびえた声が上がった。
夜の海に浮かぶ赤黒い揺らめきが、島民たちの恐怖をさらにかき立てた。
「皆さん、落ち着いてください!」
鋭い声が広場に響き渡った。
人垣をかき分けて現れたのは、エルフィオン観測所のエリオとカイだった。
「皆さんが怒る気持ちは、よくわかります。ですが、これ以上、怒りや恐怖にとらわれないでください!」
エリオは沖合の赤黒い霧を指さした。
「あの霧は、人々の強い感情、とりわけ集団的な怒りや恐怖に反応する可能性があります! このままでは、霧をさらに刺激してしまうかもしれません!」
カイも声を張り上げた。
「皆さん、どうか冷静になってください! ここには小さな子どもたちもいるんです!」
続いて、セレナが島民たちへ呼びかけた。
「皆さん、お願いです! 今、私たちが守らなければならないのは、この島にいるすべての人たちです。どうか、落ち着いてください!」
島民たちは互いに顔を見合わせた。
やがて、怒号が一つ、また一つと収まり、広場に静けさが戻り始めた。
すると、沖合で渦を巻いていた赤黒い霧の動きが、次第に鈍くなっていった。
ヨナクル島へ向かって伸びていた霧の先端が、ゆっくりと形を崩し、やがて海上の闇に溶け込むように消散した。しかし、赤黒い霧の本体は、依然として沖合に留まっていた。幸い、赤黒い霧かが放つ瘴気がヨナクル島へ到達することはなかった。
観測端末の数値を確認したカイは、ほっと安堵の息をついた。
そして、改めて集落広場の大型スクリーンへ視線を戻した。
「それにしても、妙ですね……」
カイが小さくつぶやいた。
「何がだ?」
エリオが振り向く。
「あの王子様と王女様です。昨日の夕刻に出航されたばかりなのに、もう王都にいらっしゃる。それに……」
カイは画面に映る二人の顔を見つめた。
「あの表情です。私たちが知っているお二人とは、どこか違う気がするんです」
エリオも大型スクリーンへ目を向けた。
「ああ。俺も先ほどの奉祝行事から気になっていた。帰還が早すぎるうえに、あの不自然な表情……」
エリオはしばらく考え込んだあと、慎重に口を開いた。
「カイ。王研にいた頃の、あの噂を覚えているか?」
「あの噂、ですか?」
「ああ。王研の一部で、生体の複製に関する極秘研究が進められているという話だ」
カイは眉をひそめた。
「覚えています。ですが、あれは単なる噂にすぎなかったはずです。実物を見た者も、研究の詳細を知る者も、少なくとも私たちの周囲にはいませんでした」
「もちろん、確証はない」
エリオは、画面に映るイザリオとエルファーナを見つめた。
「だが、もし仮に……あのお二人が、生体複製技術によって造られたレプリカだとしたら……」
「それ以上は言わないでください、エリオ先輩」
カイが声を潜め、エリオの言葉を遮った。
「ここには大勢の島民がいます。もし私たちの話が耳に入れば、余計な不安を与えかねません。確かな証拠もないまま、憶測を広めるのは危険です」
エリオは周囲を見渡し、口を閉じた。
そのとき、二人の会話を耳にしたセレナが、険しい表情で歩み寄ってきた。
「今、レプリカとおっしゃいましたか?」
エリオとカイは顔を見合わせた。
しばらく迷ったあと、エリオが口を開いた。
「生体を人工的に複製するレプリカ技術が存在するという噂が、かつて王研の一部で囁かれていたんです。ただし、私たちも噂を耳にしただけで、実際に研究が行われていたかどうかはわかりません」
セレナは再び映像端末へ視線を向けた。
「では、あのお二人が、本物の王子様と王女様ではない可能性もあるということですか?」
「否定はできません。ですが、今の段階では何も断定できません」
エリオは慎重に答えた。
三人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
やがて、カイが別の疑問を口にした。
「それにしても、西のバリア塔の崩落も不可解ですね」
エリオがうなずいた。
「ザルガン博士のことか?」
「ええ。ザルガン博士は、ジン博士の第一の弟子でした。エルフバリアの強化実験を進めていたことも確かです」
「そうだな。だが、エルフバリアの基礎理論を考案したのはジン博士だ。あの人が、自らの研究成果を破壊するような工作に関与したとは、どうしても考えられない」
エリオは腕を組み考え込んだ。
「それなのに、肝心のジン博士の動向がわからないんですよね」
カイの言葉に、セレナの表情が険しくなった。
「西のバリア塔の崩落、政府との通信途絶、王子様たちの不可解な帰還……そして、首相の豹変」
セレナは、一つひとつ確かめるようにつぶやいた。
「これらは、本当に偶然なのでしょうか……」
エリオもカイも、すぐには答えられなかった。
セレナは再び大型スクリーンへ視線を戻した。
画面の向こうでは、リヴァンが主導する戴冠式が何事もなかったかのように続いていた。
一方、広場の片隅では、タレントリポーターのサラが、同行していた撮影クルーたちを呼び集めていた。
「みんな、ちょっと聞いて」
いつになく真剣な表情を浮かべるサラに、クルーたちは顔を見合わせた。
「私、定期船便で王都に帰らない」
「……えっ?」
突然の宣言に、スタッフの一人が目を丸くした。
「サラさん、何を言ってるんですか? 今後の出演予定はどうするんです?」
「全部キャンセル。これから入るオファーも、当分の間は断るわ」
「ちょ、ちょっと待ってください! そんなことをしたら、番組制作にも影響が出ますよ!」
「わかってる」
サラは静かに答えた。
「でも、この騒動が収まるまで、私はこの島に残るつもり」
クルーの一人が困惑した表情を浮かべた。
「ですが、サラさん。ここに残って、いったい何ができるんですか? あの赤黒い霧がまた近づいてきたら、危険ですよ!」
サラは沖合へ視線を向けた。夜の海の彼方には、赤黒い霧が今も不気味に漂っていた。先ほどヨナクル島へ向かって伸びていた霧は、すでに闇の中へ消えていた。だが、その本体は依然として沖合に留まり、赤黒い濃淡をゆっくりと揺らめかせていた。
「危険だからこそ、残りたいの」
サラは振り返り、クルーたちを見つめた。
「私、モンスター使いでもあるでしょう?」
「それは、そうですが……」
「もし、あの赤黒い霧がこの島にまで及んだら……私なら、またあの時のように、みんなを助けられるかもしれない」
その言葉に、クルーたちは黙り込んだ。
「もちろん、絶対に守れるなんて言えない。でも、何もせずに王都へ帰って、あとからこの島に何かあったと知ったら……きっと、私は後悔する」
サラの視線が、広場に集まった島民たちへ向けられた。
不安そうに身を寄せ合う家族。母親の手を握りしめる子供たち。
「ここには、まだ助けを必要としている人たちが大勢いるの。私にできることがあるなら、最後まで力になりたい」
しばらく沈黙が続いた。やがて、撮影スタッフの一人が小さく息を吐いた。
「まったく。サラさんは、一度決めたら絶対に譲りませんからね」
サラが顔を上げた。
「……え?」
「わかりました。出演予定の調整は、こちらで何とかします」
「本当?」
「ただし、一つ条件があります」
スタッフは、ほかのクルーたちを見渡した。
「私たちも残ります。サラさん一人を、こんな危険な場所に置いて帰るわけにはいきませんから」
「そうですよ。撮影機材だってあります。何か起きたとき、島の状況を記録して、外へ伝えることくらいはできます」
「それに、俺たちだって、ここの人たちにはずいぶん世話になりましたからね」
クルーたちが次々とうなずいた。
サラは驚いたように目を見開いた。
「……みんな」
そして、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「ありがとう! それじゃあ、この島の人たちを、みんなで守ろう!」
クルーたちも力強くうなずいた。そのやり取りを少し離れた場所で見つめていた島民たちの表情が、わずかに和らいだ。政府からの救援は、いまだ届かない。それでも、この島に残り、自分たちと共に歩もうとする者たちがいる。その事実が、島民たちの胸に小さな希望を灯していた。ふと、サラの目に、母親に抱き寄せられた少女の姿が映った。
少女は母親の胸に身を寄せたまま、大型スクリーンをじっと見つめていた。
そして、小さな声でつぶやいた。
「エルファーナ様……また、笑ってくれるよね……?」
母親は、少女の頭を優しく撫でた。
「ええ、大丈夫よ。きっと、またあの優しい笑顔を見せてくださるわ。
一緒に信じて待ちましょうね」
そう言って、母親は少女をそっと抱きしめた。
その言葉は、娘に向けたものであると同時に、自分自身に言い聞かせるものでもあった。
◆ オルシオン船内 王都へ向かう航路
夜の海を、オルシオンは王都へ向けて航行していた。船窓の向こうには、月明かりに照らされた波がどこまでも続いている。船内のテレビには、王都で開催された奉祝行事に続き、首相官邸で執り行われている戴冠式の模様が映し出されていた。
イザリオたちは、重苦しい沈黙のなか、その映像を見つめていた。画面の中では、リヴァンが厳粛な面持ちで儀式を進めている。その傍らには、イザリオとエルファーナに瓜二つのレプリカが立っていた。
奉祝行事の段階で、そのレプリカの存在はすでに全員が認識していた。しかし、こうして自分たちの姿をした者が、王位継承の儀式に臨んでいる光景は、イザリオにとって到底受け入れられるものではなかった。
「リヴァンめ。僕たちの姿を利用して、この王国を思いどおりに支配するつもりなのか……」
イザリオは拳を固く握りしめた。
エルファーナも、不安そうに画面を見つめていた。
「お兄様。あの二人は、私たちと同じ姿をしています。でも……」
エルファーナは言葉を詰まらせた。
「あの人たちにも、私たちと同じように、心があるのでしょうか?」
その問いに、イザリオはすぐには答えられなかった。ただ、自分と同じ顔をした青年が、感情の読めない表情でリヴァンの傍らに立っていた。その光景を見つめるうちに、イザリオは先ほどの戴冠式で目にした、ある人物の姿を思い返した。レプリカのエルファーナの隣に座っていたあの女性。幼い頃から、自分たち兄妹を家族のように見守り、支え続けてくれた王宮女官。
――レイチェ・フォレスタ。
イザリオは、傍らにいたルーネへ向き直った。
「……ルーネ。一つ、聞いてもいいか?」
「はい、イザリオ様」
「レイチェはあのレプリカたちの存在を知っているのか?」
ルーネは静かにうなずいた。
「はい。レイチェ様は、レプリカ王子と王女の存在を、当初からご存じでした」
「……えっ?」
イザリオは思わず息を呑んだ。予想もしなかった答えに、頭の中が真っ白になった。
「……レイチェが? 最初から……知っていたというのか?」
ルーネは静かにうなずいた。
イザリオは信じられないというように、ゆっくりと首を振った。
「そんな……レイチェまで……」
言葉を失い、視線を落とした。
そのとき。
「ルーネ! 君は知っていたのか!
まさか、君も王子と王女の複製に加担していたんじゃないだろうな!」
それまで黙って話を聞いていたロスクが、思わず声を荒らげた。
ルーネは驚いたように顔を上げた。
「ロスクさん、私は……」
「だったら、どうしてそんなことまで知っているんだ!」
ロスクは、やり場のない怒りを抑えきれずにいた。
「私は君を信じていたんだぞ。それなのに……どうして何も打ち明けてくれなかったんだ……!」
その声には、怒りだけでなく、深い悲しみがにじんでいた。
「ロスク、待ってくれ」
イザリオが静かに口を開いた。
「ですが、殿下……!」
「僕だって驚いている。だけど、まだルーネの話は終わっていない」
イザリオはロスクをまっすぐに見つめた。
「まずは、最後まで話を聞こう。責めるのは、それからでも遅くないだろう?」
「申し訳ありません、殿下」
ロスクは我に返ったように頭を下げた。
イザリオは小さくうなずくと、ルーネへ向き直った。
「ルーネ。続きを聞かせてくれ」
ルーネは過去を思い返すように、慎重に言葉を選んだ。
「はい。私がまだ王宮でレイチェ様と共にお仕えしていた頃のことです」
ルーネは静かに語り始めた。
「当時、ラマズド科学技術長官は、王宮の給仕室へたびたびお越しになり、レイチェ様と何やらお話をされていました。ある日、私は偶然、お二人がレプリカ計画について話しているのを耳にしてしまったのです」
「レプリカ計画を?」
イザリオが眉をひそめた。
「はい。あまりにも信じがたい内容でしたので、私は思わず声を上げてしまいました」
ルーネは、わずかに視線を落とした。
「そのとき、レイチェ様が私をかばってくださったのです。ラマズド長官に向かって、『この者も計画に協力している者です』と……」
「なんだって?」
ロスクが目を見開いた。
「もちろん、私は何も知りませんでした。ですが、レイチェ様は、私が計画の存在を知ってしまったことを長官に悟られないよう、とっさにそうおっしゃったのです」
ルーネは小さく息をついた。
「その後、レイチェ様は少しずつ、計画の実情を私に打ち明けてくださいました」
「だったら、どうしてその時点でバルティス侍従長に相談しなかったんだ?」
ロスクが口を挟んだ。
「イザリオ様とエルファーナ様の複製なんて、王家を揺るがす重大な問題じゃないか!」
「……おっしゃるとおりです」
ルーネは静かにうなずいた。
「ですが、レイチェ様は恐れておられました」
「恐れていた?」
「はい。計画が明るみに出れば、秘密を守るために、私たちの身にも危険が及ぶかもしれません。それだけではありません。すでに生み出されたレプリカたちも、計画の証拠を消すために処分されるおそれがあったのです」
ロスクは言葉を詰まらせた。
「レイチェ様は、レプリカたちも一つの命として生きる権利があると考えておられました。そして、本物のイザリオ様とエルファーナ様の命も、何としてでもお守りしたいと……」
イザリオは、黙って耳を傾けていた。
「そこでレイチェ様は、私を王宮から遠ざけることを決意されたのです」
「それが、西の島への異動だったのか?」
「はい。レイチェ様は女官長としての権限を用い、バルティス侍従長に、私を西の島エルフィオンの王室別邸へ異動させるよう進言してくださいました」
ルーネはロスクへ視線を向けた。
「そして、もし王子様と王女様が西の島エルフィオンへお越しになることがあれば、ロスクさんと力を合わせて、お二人をお守りするようにと……」
「……そんなことを?」
「はい。それから、根の洞にまつわる伝承についても、よく学んでおくようにと言われました。いつか、お二人を守るために役立つかもしれないから、と……」
「根の洞のことまで?」
今度はイザリオが驚きの声を上げた。
「はい。レイチェ様は、いつもお二人の成長を願っておられました。西の島でどのような状況に置かれても、ご自身の意思で未来を切り開いてほしいと……」
ルーネの声が、わずかに震えた。
「イザリオ様とエルファーナ様が西の島へ向かわれる際、レイチェ様から私に、密かに連絡があったのです」
「連絡?」
「はい。ラマズド長官が、調味料に偽装した薬液を、随行員を通じて届けようとしていると……」
「薬液だって?」
イザリオの表情が険しくなった。
「はい。長官は、その薬液をお二人の食事に混ぜるよう、私に指示するつもりだったそうです」
「なっ……!」
ロスクが思わず声を上げた。
「レイチェ様は、その調味料が届いたら、決して使用せず、直ちに処分するよう私にお命じになりました」
「それで、どうしたんだ?」
「はい。随行員から渡された調味料を受け取りました。レイチェ様の指示どおり、直ぐに廃棄処分しました」
イザリオは幼い頃から自分たちを見守ってくれたレイチェが、知らないところで危険を退けてくれていた。その事実に、胸の奥が締めつけられるようだった。
それまで黙って話を聞いていたヒロノゼウスが、険しい表情で口を開いた。
「……気になるな。わざわざ調味料に偽装してまで、イザリオ様たちに摂取させようとした薬液だ。単なる薬とは考えにくい。……毒物だった可能性もある」
「毒物だと!?」
イザリオが思わず声を上げた。
「イザリオ様。成分がわからない以上、断定はできません。ですが、ご本人たちに知らせず投与しようとしたこと自体、尋常ではありません」
ヒロノゼウスはルーネへ視線を向けた。
「続きを聞かせてくれ」
ルーネは小さくうなずいた。
「レイチェ様は、西の島のエルフバリア塔で、神石の力によって維持されているバリアを停止させる実験が計画されていることも、耳にしておられたそうです」
「何だと!? エルフバリアを停止させる実験だと!?」
ヒロノゼウスが驚きの声を上げた。
「ルーネさん、それは何かの間違いではないか? ザルガン博士はジン博士の一番弟子だ。バリアの重要性も、停止させる危険性も十分に理解しているはずだ。そんな実験に関わっているとは、とても思えん」
「……私にも、詳しいことはわかりません」
ルーネは静かに首を振った。
ヒロノゼウスは押し黙った。
ザルガン博士が、そのような計画に関わっていたとは信じられなかった。
「私は、西の塔が崩壊したのは、神石に何らかの異常反応が生じたためだと考えていた。そして、その影響で、地下に封じ込められていた赤黒い霧が噴出したのだと……」
ヒロノゼウスは険しい表情で続けた。
「だが、もしバリア強化実験の過程で、人為的にバリアを停止させる操作が行われていたのなら……塔の崩壊そのものが、実験と関係していた可能性もある」
イザリオは唇を噛みしめた。
「そんな危険な計画を知りながら、どうして……」
うつむいたまま、絞り出すように言葉を続けた。
「レプリカのことも、バリアのことも……どうしてレイチェは、僕たちに何も教えてくれなかったんだ……」
ルーネは、イザリオの苦悩を察するように静かに告げた。
「レイチェ様は、かつてリヴァン首相の掲げる理想に、希望を見いだしておられたのです」
「レイチェまで、リヴァンの思想に染まっていたというのか」
イザリオは信じたくないというように、小さく首を振った。
ルーネは、王子の心情を察するように、穏やかな声で語り始めた。
「いいえ、違います。確かにレイチェ様は、リヴァン首相の『戦争のない世界を築く』という理想に、希望を見いだしておられました。ですが……」
ルーネは一度言葉を切った。
「その理想が、命を人工的に生み出し、人々の意思を支配することで平和を維持するという思想へ変わっていくにつれ、レイチェ様は深く苦悩されるようになったのです」
イザリオは息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
「苦悩していた?」
「はい。レイチェ様は、最後まで『誰かが犠牲にして成り立つ平和』を、受け入れることができなかったのです」
ルーネは静かにうなずいた。
「レイチェ様は、私にこうおっしゃいました」
そして、かつてレイチェが語った言葉を、一つひとつ確かめるように口にした。
「『リヴァン首相が主張する力だけでは、世界を一つにすることなどできません。命を縛れば、確かに秩序は生まれるかもしれません。ですが、そこに残るのは、悲しみと憎しみだけなのです』」
ルーネの声が、わずかに震えた。
「『誰もが一人の人間として、自由に生きる権利を持っています。私は、イザリオ王子様とエルファーナ王女様を、王族という立場だけでなく、かけがえのない存在としてお守りしたい。いいえ……私がお守りしなければならないのです』と、常々おっしゃっていました」
その言葉を聞いたイザリオは、何も言えなかった。
ルーネは、そっと言葉を続けた。
「レイチェ様は、誰かに命じられたからではなく、ご自身の意思で、その覚悟を決められたのです」
イザリオは静かに目を伏せた。
いつも傍らで自分たちを見守ってくれたレイチェの笑顔が、脳裏によみがえっていた。
ルーネは、さらに言葉を続けた。
「そして、もう一つ……今でも忘れられない、レイチェ様のお言葉があります」
イザリオは静かに顔を上げた。
ルーネの声が、わずかに震えた。
「『いつか、その時が来たならば、私は国王陛下と王妃様、王子様、王女様の御前に立ち、人工的に生み出された命にも、生きる権利があるのだと訴える覚悟です。たとえ、自らの命を懸けることになろうとも……』と」
ルーネは、そっと目を伏せた。
「そして、私にはこうおっしゃいました」
「『どうか、お二人の成長を見守り、常に寄り添い、支えてあげてください。私は、いずれこの計画に関わった責任を問われ、罪を償わなければならないでしょう。それでも、この国の未来を担うお二人を、陰ながら見守り続けたいのです』と……」
イザリオは静かに息を呑んだ。
「レイチェが、そんなことを……」
「はい。レイチェ様は、レプリカ王子と王女のことも、かけがえのない命として考えておられたのです」
ルーネは、ゆっくりと顔を上げた。
「そのお言葉を聞いて、私も気づかされました。たとえ人工的に生み出された存在であっても、命であることに変わりはありません。その成長も、希望も、いつか抱くかもしれない夢も……誰かが一方的に奪ってよいものではないのだと」
ルーネの瞳が、静かに潤んだ。
込み上げる思いをこらえながら、彼女はイザリオとエルファーナを見つめた。
「ですから、どうか……
あのレプリカ王子と王女にも、自由に生きる未来を与えてあげてください」
ルーネは深く頭を下げた。
「これは、私からの一生のお願いでございます。
きっと、レイチェ様も同じことを願っておられるはずです」
誰も、すぐには口を開かなかった。船内には、低く響く機関音だけが流れていた。
やがて、イザリオがゆっくりと顔を上げた。
「……そういうことだったのか」
イザリオは、腰に装備している剣へ視線を落とした。
「ルーネ。安心してくれ。僕は、もう一人の自分に危害を加えるつもりはない」
そして、静かに言葉を続けた。
「以前、ラッセルに教えられたことがあるんだ。『剣をどう使うかは、使い手の心次第だ』と」
イザリオは、剣の柄にそっと手を添えた。
「『その刃が誰かを守るためのものならば、それは真の王へと通じる道になる』……とも」
エルファーナは、兄の横顔を見つめていた。
「僕は、ずっと考えていた。赤黒い眼とは、いったい何なのかを」
イザリオは、窓の向こうに広がる夜の海へ視線を向けた。
「支配したいという欲望。恐れ、怒り、嫉妬……。そうした人の心の闇につけ込み、争いを生み出す存在なのかもしれない」
そして、再びルーネへ向き直った。
「だからこそ、僕は決めた。もう一人の自分を、赤黒い眼の支配から守るために剣を抜く」
その声には、確かな決意が宿っていた。
「この剣に宿すのは、怒りじゃない。願いだ」
イザリオは、剣の柄を静かに握りしめた。
「この刃に刻むのは、争いじゃない。希望だ」
そして、まっすぐに前を見据えた。
「僕は、誰かを倒すためではなく、誰かを守るために、この剣を振るう」
その言葉に、エルファーナが静かにうなずいた。
「お兄様。とても素敵なお考えです」
エルファーナは、そっと兄の手に自分の手を重ねた。
「私も、もう一人の自分と、もう一人のお兄様が、どうか無事でいてくださるように祈ります。そして、いつか……あのお二人とも、心から笑い合える日が来ることを願っています」
イザリオは妹を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「ああ。きっと、そんな日が来るさ。父上にも私から事情を説明しよう。そして、あの二人が王国で自由に暮らせるよう、お願いするつもりだ」
その言葉を聞いたルーネも、安堵の微笑みを浮かべた。
「レイチェ様も、今のお言葉をお聞きになれば、きっとお喜びになることでしょう」
「そうだな……レイチェは、どんな顔をするだろうな」
イザリオは、懐かしむように目を細め、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「また、あの優しい笑顔を見せてくれるといいな」
少し離れた場所で、そのやり取りを見守っていたヒロノゼウスも、穏やかに微笑んだ。
(このお二人なら、きっとイーサム王国を正しい未来へ導いてくれる)
船窓の向こうでは、月明かりを受けた波が静かに揺れていた。
ヒロノゼウスは何気なく船内のテレビモニターへ視線を向けた。
画面には、戴冠式の映像は既に終わり、王国政府の紋章が映し出されていた。
しかし、その映像は微かに揺らぎ、時折、赤黒いノイズが走っていた。
まるで、何か得体の知れないものが、映像そのものを侵食しているかのようだった。
やがて、画面下部に赤いテロップが現れ、無機質な機械音声が流れ始めた。
『現在、王国全土に非常事態宣言が発令されています。魔物が徘徊している危険性がありますので、不要不急の外出は控え、政府が発信する最新情報に注意してください』
ここまでは、非常事態下の政府広報として理解できる内容だった。しかし、次に流れた言葉に、ヒロノゼウスは眉をひそめた。
『なお、政府の指示に従わない場合、治安維持のため、やむを得ず身柄を拘束する場合があります』
(拘束だと!?)
ヒロノゼウスは、思わず画面を見つめ直した。
『王国全土に配備された監視ドローンおよび警備ロボットにより、治安維持活動を実施します』
その直後、画面が一瞬乱れた。
ザザッ――。
赤黒いノイズが走り、テロップが切り替わった。
『国民の皆様。恐怖を存分に感じてください』
「は? 恐怖を……存分に感じろ、だと!?」
ヒロノゼウスは、思わず声を漏らした。
さらに、機械音声とテロップは淡々と続いた。
『恐怖という感情がなければ、安心という感情を知ることはできません。両者は表裏一体の関係にあります』
ヒロノゼウスの表情が険しくなった。
『どうか希望を持ち、恐怖に耐えてください。そして今は、その感情を存分に味わってください』
船内に、異様な沈黙が広がった。誰もが、テレビモニターに釘付けになっていた。
ヒロノゼウスの額を、一筋の汗が伝った。それは、危機に直面した国民を励ます言葉などではなかった。恐怖を鎮めるどころか、国民の心に恐怖を植え付け、その感情を受け入れさせようとしている。しかも、王国全土に配備された監視ドローンと警備ロボットによって、人々の行動まで統制しようとしているのだ。
ヒロノゼウスは、画面に映る王国政府の紋章を凝視した。
(まさか、赤黒い眼の糧となる恐怖を、王国全土の国民に植え付けようとしているのか……?)
その疑念を深めるかのように、赤黒いノイズが再び画面を走った。そして、『国民の皆様。恐怖を存分に感じてください』先ほどと同じ言葉が、感情のない機械音声によって繰り返された。船内に、重苦しい沈黙が広がった。誰もが画面を見つめたまま、言葉を失っていた。
そのとき、イザリオの脳裏に、ラッセルから教わった言葉がよみがえった。
『殿下。剣をどう使うかは、使い手の心次第です』
イザリオは、画面に映し出された王国政府の紋章を、まっすぐに見据えた。
「私は、この双剣で誰かを支配する王にはならない。誰もが自由に生きられる王国を、この双剣で必ず取り戻してみせる」
その瞳には、もはや迷いはなかった。オルシオンは、暗い海を切り裂きながら、王都へと進み続けていた。
コメント
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読ませていただきました。第61話、重くて美しい回でしたね……。 国王不在のまま進む戴冠式の異様さと、ヨナクル島の島民たちが抱く疑念が、見事にシンクロしていました。特に小さな女の子が「エルファーナ様はもっと優しい顔をしていた」と涙する場面に胸が詰まりました。本物だからこそ気づく違和感、という描き方が秀逸です。 そして何より、イザリオが「誰かを守るために剣を振るう」と決意した場面。ラッセルから教わった言葉がここで生きるとは……。レプリカにも命があると認めた上で、守る立場に立つ覚悟。本当に良いお話ですね。次話も楽しみにしています🌷