心の中で憎まれ口を叩いたティアは表情が動いていないように見えて、実は内心、とてもとても困っていた。
胸にじわりと湧き上がった暖かいものが、いつまで経っても消えてくれないのだ。それどころかどんどん溢れて、鼓動まで早くなる。
こんなことは生まれて初めてだった。自分の感情なのに、持て余してしまうなんて。
(なんだろう、この気持ち。とっても……気持ち悪い)
それが恋というものなのだが、ティアは制御できない気持ちに苛立ち、ここがどんな場であるかをついつい忘れてしまい……思わずしかめっ面をしてしまった。
運悪くそれをノハエはしっかりと見てしまい、キッと鋭くティアを睨みつける。
「なんですか、その顔はっ。だいたい、あなたは一体、何様なんですかっ!?王女を目の前にして、礼の一つも取らないなんて無礼にもほどがありま──」
───パチン。
ティアに詰め寄ろうとするノハエを制するかのように、王女が手にしていた扇を閉じた。
「おだまりなさい」
これまでずっと傍観していた王女アジェーリアが、初めて口を開いた。
女性特有の艶のある声に、威厳と落ち着きを加えたそれは、部屋の空気を一変した。
「わらわはこの娘を気に入ったゆえ、礼などいらぬ。ノハエよ、よう見てみろ、このくりりとした眼。18歳であるのに、このあどけなさ。まるで生きた人形のようじゃ。それに、わらわが10歳の時に生き別れたリスのピソによう似ておる。まるで生き写しじゃ。……ほれ、娘。こっちにこい。クルミが好きか?それとも、どんぐりがいいか?」
ちょいちょいと扇を揺らしながら、そんなことを言う王女に向かって、ティアは心の中で舌打ちした。
ティアはクルミが好きでもなければ、どんぐりなど人生で一度も口にしたことがない。ましてや、リスの代わりにされたこともない。
口を開くことが躊躇われる空気の中、せめてもの抵抗で、ティアはぐっと両足を踏ん張り、何が何でもそっちには行かないという意志だけをみせる。
「……え?……18?嘘だろう」
驚愕したグレンシスの小声が、ティアの元に届く。
(それ、今、気にするところ?)
騎士の驚きぶりを見て、自分は一体幾つに見えていたのだろうかと、ティアはふと疑問を抱く。
しかしティアの疑問は、ノハエの悲鳴に近い声で塵となった。
「アジェーリアさま、お戯れはおやめくださいっ。今はペットの話をしているのではありません!」
顔を真っ赤にして、アジェーリアに憤慨するノハエと、食い入るようにティアを見つめるグレンシス。
そして、生まれて初めて他者から見た自分の年齢を気にし始めるティア。
さまざまな思考が交差して、ここは目には見えないがカオス状態だ。
そんな収拾がつかなくなりそうなこの状況で、最初に声を上げたのはアジェーリアだった。
「うるさい、うるさい。わらわは、この娘が気に入った。間者であろうがかまわん。が、ノハエがそれ程、気掛かりなら、わらわがこの娘が無害であることを証明してみせるわっ」
勢いよく立ち上がったアジェーリアは、そのままゴミを放るように手にしていた扇を放り投げる。
投げ捨てた王女の扇を華麗にキャッチするノハエを見て、ティアが思わず「お見事!」と呟きそうになった瞬間、グレンシスの叫び声が部屋に響く。
「おやめください、王女。ティアにソレは、あまりにもむごすぎますっ」
それとは何?そんなことを思った瞬間、ティアはびっくりして、目を見開く。
瞬きをしている間に王女が、目の前に現れたのだ。
「娘、悪く思うでないぞ」
アジェーリアは、短く断ってティアの腕を掴む。
「は?うわぁっ………へ?」
間抜けな声を上げたと共に、なぜか天井が視界に入った。柔らかい幾何学模様を組み合わせた花柄が、素晴らしい。
そう称賛した途端、ドシンと背中に衝撃を覚えた。
ゆっくりと数えて5つ経ってから、ティアは王女の手によってひっくり返ったことを知る。
足首まで埋まるふかふかの絨毯のおかげで衝撃も痛みもないから、ティアは再び、ゆっくりと瞬きをする。
出会って数分で床にたたきつけられる経験は初めてで、どうリアクションをすればいいかわからない。
「ノハエ、どうじゃ?このひっくり返った無様な姿を。たとえ、この娘が間者であったとしても、このざまでは……な?」
その言葉で、ようやっとティアは王女の意図がわかった。
王女は、自身が身に付けた護身術で、ティアが間者でないことを証明してくれたのだ。
ティアにとっては、とても、とても、とぉーっても、ありがたくはなかったが……。
「さ、さようでございますね」
頬を引きつらせながら、そう言ったノハエの言葉で、もうこの侍女が、王女の説得を諦めてしまったことに、ティアは気付いてしまった。
グレンシスといえば、片手で覆って顔を背けている。色んな意味で、現実を受け入れたくはないのだろう。
ウィリスタリア国第四王女であるアジェーリアは、今年で御年17。ティアより一つ年下である。
歴代の王女の中で、類を見ない美貌の持ち主で、歴代の王女の中でも類を見ないお転婆姫でもあった。
国内外に決して公表できることではないが、アジェーリアは5歳の頃から乗馬を嗜み、護身術と称して体術と剣術を学んできた。
自他共に認めるワガママで飽きっぽい性格のはずなのに、鍛錬だけは一日も欠かすことがなく、長年積み重ねてきた腕前はかなりのもの。ついたあだ名は、黒曜の暴れ馬。
グレンシスが王女の伝令役という名のお目付け役でいるのは、顔の良さで選ばれたわけではない。
身分の上下に関わらず、歯に衣着せぬ物言いができることと、今や、アジェーリアと対等に武芸で渡り合えるのは、グレンシスとバザロフしかいないからだ。
黒曜の暴れ馬ことアジェーリアは、これで一件落着といった感じで、優雅に椅子に戻ると、ティアに茶目っ気ある視線を向けた。
「娘、いつまで寝っ転がっておるのじゃ?ふふっ、そんなにここが気に入ったのなら、出立までここで過ごすか?」
その言葉で、ティアは自力でむくりと起き上がると、嫌という意志を込めて、ふるふると首を横に振った。
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