テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
笑顔のまま、泣いていた。
「殿下……殿下!!」
声が割れても、足が止まらない。引きずられる靴の底が、敷石を擦る。遠ざかる背中。届かない距離。それでも手が伸びる。笑顔のまま、なぜ泣いているのか、本人にも、もう分からない。
灯台の記録層は、その叫びを観測していた。
声量。感情の振れ幅。歴史線への干渉度。すべて記録され、照合欄へ納められる。通常なら、それで終わる。
だが今夜は違った。黒い滲みが、広がっていた。昨夜より、速い。揺れが境を越えた。
白い記録盤の前に、一人の管理官が立っていた。古い時代の灯台には、職務を細かく分けられるほど人がいない。任務照合も、帰還確認も、記録監察も、ほとんどその管理官一人が担っている。
香が、任務用の仮身を編み始めた。
周囲の空気が、一斉に灯る。香が燃えるわけではない。熱も、煙もない。ただ、白い香気が光を孕み、虚空へと収束していく。
肩の線。背の影。瞳の奥へと、小さな灯芯が点った。光の粒子は人の形を成し、床へ足を下ろす。生まれたての肺で深く息を吸い込むと、すぐにその口元を、任務に臨む者のそれへと引き締めた。
「……休憩中だっていうのに。何か用か?」
「殷だ。王太子の周辺記録に、異常な揺れが出ている」
調整員の目が、切り替わった。軽口は、もう出なかった。
「状況は」「見ろ」
管理官が片手を上げると、眼前に白い流れが展開した。無数の筋が走り、それぞれ別の夜明けへと続いている。だが今夜は、その幾筋かが薄く、薄く、消えかけていた。
霧に沈むように輪郭が溶け、二本の歴史が一本に混じる。元の記憶は、永遠に判別できない。残るのは、ただの空白だ。
調整員は香の海を見た。流れの中に、殷が映っていた。甘くて、粘っこい香が、朝の配給列に漂っていた。現存する記録にはない香だった。子供が笑っている。笑いながら、目が据わっている。王太子府の帳は正確だ。正確すぎて、現場を映していない。
周の声がまだ小さいのに、殷の外から別の軍馬の蹄が聞こえた。名も知らぬ軍旗。記録に名を持たない軍勢が、殷の壁の手前で静かに馬を揃えていた。王太子は今夜も政務の間に灯りをともしている。床に就かない。就けない。
別の線では、王太子は即位を待たずに病に伏していた。別の線では、東方遠征が起きる前に兵糧が尽きていた。滅びは来る。だが来る順序が違う。殷滅亡は、観測と記録の上で極めて強く収束する固定点だ。それでも、そこへ至る経路まで一つと決まっているわけではない。
「記録上、最も強かった収束経路から外れている」管理官の声に、起伏はない。「歪みが核に触れ、崩壊の順序を加速させた。このままでは、周よりも先に別の何かが殷を落とす」
「……正しい歴史に戻すってことか」「違う。正史は結果だ。我々にも、唯一の正解など分からない。観測できた経路の裂けを、必要な範囲だけ補修する」
調整員の瞳が、わずかに揺れた。
「……帝辛か」その名を口にした瞬間、殷の線が一筋、掌に触れた。記録の断片が、滲んだ。喉に鉄の味が蘇り、唇が勝手に歪む感覚が走る。
「――っ」首を振る。掌から、殷の線が離れた。
沈黙が、一拍あった。
「……あの記録は、残らないんだよな」海を見たまま言った。問いかけではなく、確認するように。「あいつが泣けなかったこと。命令に歪んだ顔。――後の線には、残らない」
「現行の保存基準では、接続先がない」
「なら、何のためにあの悲しみはあった」問いではなく、独り言のように落ちる。「保存されなかった瞬間は、誰が決める」
海は答えない。白い層は静かに揺れるだけだ。
「勝者の書が必要とした帝辛は残る。だが、因果収束へ直接接続しない感情まで拾う仕組みを、今の灯台は持っていない」
管理官の声音は変わらない。哀惜も、悪意もない。ただ、保存された記録を現実のほぼすべてと信じて運用する者の判断があった。
「無理に接続すれば記録圧の偏りを生む。だから保存対象外として扱う。それが、現在の規定だ」
調整員は、己の掌を握り、そして解いた。灯りの中へ編まれたばかりの任務用仮身の指先が、妙に人間くさく、熱を持っている。
「俺に照合要請が来たってことは……俺がよく知ってる、近い場所なんだな」
管理官は頷いた。
「お前の縫香術が最も自然に届く。裂け目の照合と補修を頼む。だが、縫った痕は残すな」「……縫い目が見えなきゃ、誰も直したとは思わない」「ああ。補修そのものが選択へ影響すれば、新たな干渉になる。ただし、針を通せば布の方が裂ける場所もある。そこには触れるな」
「名は隠せ。未来は渡すな。選択は奪うな。――だが、歪みだけは折ってこい。急げ。歪みは既に、核に触れている」
調整員は、短く笑った。「了解。……行ってくる」
踵を返す。その瞬間、海底から這い上がる軍馬の蹄音が、耳の奥に残った。
調整員の輪郭は眩い灯りにほどけ、真っ白な香の海へと落ちていった。
管理官は、その光の余韻が完全に消えるまで記録盤を見つめていた。やがて任務欄へ、「照合手続、異常なし」と記す。
灯台は、規定どおり正しく動いている。だとすれば――誰が、それを疑う。
コメント
1件
読み終えました。冒頭の「笑顔のまま、泣いていた」が強く残ります。歴史に残らない感情、保存されない悲しみを誰が覚えているのか——という問いの重さが印象的でした。「縫った痕は残すな」という掟と、調整員自身が「あの記録は残らないんだよな」と確認する場面が特に胸に刺さります。灯台の無機質な正しさと、調整員の人間くさい熱の対比が効いていますね。光から生まれた彼がなぜ「泣けなかった王太子」にこれほど共鳴するのか、今後の展開が気になります。設定の設計がとても丁寧で、続きが楽しみです。