血筋良し、見栄え良し、都でも一二を争うモテ男、少将、守近《もりちか》の屋敷裏、通用口から、なにやら、話し声が漏れ聞こえてくる。
「猫が子を産んでいたとはなぁ!こりゃ、びっくりだ!」
「沙奈《さな》ちゃん、悪かったねぇ、まさか、譲ったあの猫が、孕んでいたとは思ってなかったもんだから」
「おや、干し魚屋。あんたが、事の発端かい?」
「もう、とにかく、大変だったんですよぉ!わからんちんの髭モジャ検非違使《けびいし》が現れて!」
「沙奈ちゃん、そりゃあ、大変だったねぇ。あいつらときたら、威張り散らすだけだからなぁ」
「ほんと、わからんちんな、奴らだよ!」
わはははと、出入りの商人達が、屋敷の女童子《めどうじ》沙奈を囲んで笑っている。
──今、都では、「少将様のお猫騒動」が、話題になっていた。
守近の正妻──北の方、徳子《なりこ》付きの女童子、沙奈が、主夫婦《あるじふうふ》の為に、出入りの干し魚屋から、猫をもらい受けてきた。
そうして、何をまかり間違ったのか、猫に、主夫婦の名前、守近、徳子と名付けて、可愛がる。
そこまでは、良かったのだ。
守近徳子猫が、居なくなり、慌てた屋敷の者たちが、都大路で、猫の名前を呼びながら、その姿を探し始めた。
タマやら、ミケやら、猫らしいものではなく、連呼するのは、少将夫婦の名。
通りかかった、巡邏《けいび》の、検非違使達が、これまた、大きな勘違いをおこし、少将様と、北の方様が失踪したと思い込む。
猫を探す屋敷の住人と、少将夫婦を探す検非違使では、到底、話が噛み合うはずがない。
お互い、何を言っているのかと、一触即発の大騒ぎ。当然、野次馬も集まって、やり取りは、すっかり見世物になってしまった。
居なくなった猫は、屋敷の縁の下で、子猫を産んでいた。子細を理解した野次馬は、蜘蛛子を散らしたかのように消え去ると、それぞれ、事の顛末を語り始める。
ああ、恐ろしきは、人の口──。
検非違使は、少将様の猫も探しきれぬ無能ぶりと、あらぬ方向に噂が広まった。
さらに、誰の仕業か、辻々の屋敷の塀には、騒動の当事者、検非違使《けびいし》庁の下級職、看督長《かどのおさ》の似顔絵が「わからんちんの髭モジャ男の図」と、落書きされる始末だった。
「いやー、しかし、北の方様も、ご懐妊とはなぁ。あながち、猫騒動も、馬鹿にできないもんだねぇ。あっ、そうそう。これを、北の方様に。干し雉《きじ》の肉。精がつくよ」
「あっ、これ、干し鮑《あわび》。猫が、迷惑かけちまったからねぇ。粥に煮込んで食べるといい」
「はい。椿餅《つばいもちい》。意外と菓子が食べ安すかったりするのさ。とにかく、食べない事には、体が持たないからなぁ」
沙奈《さな》へ向けて、数々の品が差し出される。
「オホホホ。皆の者、その様に気を遣わなくても良いのですよ」
袖で口元を隠し、女房ぶる沙奈を見て、一同は、さっと品を下げた。
「沙奈ちゃん、誰かお屋敷の人を呼んどいで!」
「おや、沙奈がすべて……」
言いかける童子に、一同は、ダメだとばかりに首を降る。
「だから、沙奈が、すべて取り仕切るんじゃなくて、食べちまうんだろ?」
「えっ!その様なことは!椿餅は、欲しいですけど……あっ!」
と、沙奈は、思わず口を滑らせた。
やっぱりと、出入り商人達は顔を見合わせると、すぐに、声の主へ、頭を下げた。
「いやいや、頭を下げるなら、もう少し、うちへ納める商品の値を下げてもらえねぇかなぁ」
手入れの行き届いた馬に乗る、公達がくだけた口調で言い放つ。
商人達は、別段驚く事もなく、
「ああ、沙奈ちゃん、斉時《なりとき》様のお出ましだ。家令《しつじ》さんを早くお呼び」
と、そっけなく公達の言葉をあしらうと、すみませんがこちらを、と、差し入れを手渡して、立ち去って行った。
「いやはや、皆、つれないねぇ」
それもそのはず。斉時と呼ばれたこの男、口の軽さは天下一。屋敷の主、守近が、都で一二を争うモテ男ならば、この御仁、都で一二を争うお調子者、なのだった。
沙奈から知らせを受けた家令が出てきたが、これまた迷惑そうな顔をして斉時を出迎えた。
とはいえ、ここは、裏口。本来ならば、正門へ誘《いざな》うはずなのに……。
「斉時様、申し訳有りませんが、本日、主《あるじ》は、物忌《ものいみ》に即《そく》しております」
「ああ、しっかり、門も閉まっていたなぁ。几帳面に物忌の札まで貼ってある。さすが、守近、いや、お前さんか……」
わはははと、斉時は豪快に笑った。
「そうゆう事情ですので、今日のところはおひきとりを」
「あー、それが、家令よ、どうしたことか、この斉時も天一神《てんいちじん》に出会ってしまって、方違《かたちが》えをしなければならんのだ。ところが、なんと!守近が屋敷のこの裏口が、最適な方角だと言うではないか!」
「ならば、この裏口で、一晩明かされますように。天一神も、恐れを成しますでしょう」
天一神とは、方角神の事で、天と地との間を往復し、四方を規則的に巡るとされている。そして、その天一神のいる方角に踏みいると、祟りがあると考えられていた。
その神が、斉時の向かうとする方角にいるらしい。
「いや、ちょ、ちょっと待った。土産はあるぞ!そう、物忌だったな。ほれ、干し雉、干し鮑、椿餅。火を使わなくとも大丈夫な物ばかりだ!」
斉時は、得意げに、預かった品々を家令に渡すと、馬を頼むと言い捨てて、屋敷の中へ踏込んで行った。
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