ザッーザッーと、天からのお漏らしが、アスファルトの道に穴でもあけそうに叩きつける。
「すげぇーな!」
合羽を被って痛いくらいの雨に打たれながら、田口彰は電信柱に薄ら隠れして、二階建ての安アパートを細目で張り込んでいた。周りは家がポツリポツリとある程度で、“閑静な”という言葉が合うかは疑問なところだが、人家そのものが少ない。田口がいる電信柱からは、砂利道を挟んで、泥水を巻き上げるように結構な勢いで川が流れている。人通りは全くなく、街灯は月明りで、と言わんばかりの無灯火地帯だ。
アパートの裏側の田んぼに囲まれた農道で、車が対面できるへこんだ道に車を止め、相棒の刑事、金沢秀俊と橋田菜穂子が、ときおりアパートに目をやりながら、田口の雨ざらしの惨めさとは正反対に、車の中で余裕たっぷりに談笑している。
田口彰は、京都府警金重署生活安全課の一番下っ端のデカだ。この手の汚れ役は、昔から下っ端の役目だ。映画やテレビのアイドル刑事役は、夢の中にも出てこない。
アパートにいるのは、東京の女子高生と恋愛関係から別れ話に発展し、ストーカー行為に及び、家に忍び込んで殺人事件を犯すに至った男だ。
この惨めな張り込みも、何とか自分たちがワッパ(手錠)でも掛けられれば報われるが、事件が起きた警視庁からの張り込み依頼なのだ。
雨の量は半端じゃなくなった。蒸し暑い六月の梅雨入りで、その上、降り続いているせいで、雨に打たれると涼しさは遠のいて、寒気が全身に染み渡る。明日は熱が出そうだ。おまけにこの暗がりと不気味さ、何か化け物でも出そうな雰囲気だ。そう言えば、この辺りは幽霊が出るという噂もある。ますます身震いを感じる。
田口はここで生まれ育った。父親の仕事の関係で、中学一年生の時に名古屋に引っ越し、青春時代を過ごした。京都府警に入って、配属されたのが生まれ育ったこの地だ。金重でもさらに田舎町の玉井町、昔から何もないところだったが、新築の家がポツリポツリと建っている程度で、昔からの古い工場などは取り壊され、跡形もなくなっている。
古アパートにいる輩は、近田宏之という男で、二十四歳、ダルビッシュ投手に似た顔立ちで、スラリとした男前だ。田口は、この輩を写真で見た時、不思議に思った。
〈こんな美男子が、女一人の戯れ言に殺人事件まで起こすか……?〉
モテなくて、顔は決していい方でない田口からすれば、疑問だらけで答えを出せなかった。
〈恋愛をものにするってのは、難しいな〉が、唯一の思いだった。
どんな奴だろうと、女子高生の家に忍び込み、待ち伏せて、ナイフでめった刺しにしたそんな野郎は、処刑台に吊るさなければ気が済まない。彼女は命乞いをしたが、「許さん!」と言い、刺し続けたそうだ。
警視庁はストーカー行為に対して、警告、さらに脅迫容疑で近田を逮捕したが、処分保留で釈放された。その後、ストーカー行為が繰り返されたため、逮捕状となった訳だが、時遅しだった。
近田の出身地は、ここ金重町。そういうことで、逃走されないようにと、田舎警察に任された訳だ。面子とかの前に、刑事としてワッパを掛けたい男だが、依頼してきたのは田口の高嶺の花、警視庁だ。彼らの捜査ぶりも見てみたかった。
ボスの石田警部補に冗談めいて語ると、「おまえ、テレビの見過ぎだ。やることは一緒だよ」と、笑われて流された。要は、ガキ扱いされたのだ。
雨の音が、小太鼓を叩くごとく激しくなってきた。痛さで身を窄め、合羽と頭の間に持参のタオルを挟んで、何とか耐えられそうだが、田口が、威力によって恐れ戦いたのは、川のうねりと増水だ。電信柱から砂利道を挟んで、四メートルあるかないかの川縁の草むらが浮き上がって見え、間から濁った泥水が砂利道に流れ込んできた。恐ろしい言葉が頭を過った。
“決壊”
呑み込まれたら死体も上がってこないかもしれない。“くわばらくわばら”冗談も通じなくなってきた。不安から下腹部が縮こまり、氷をつけられたようなヒンヤリが、下腹部から伝わってきた。
「あいつら心配もしないのか!」
当然、田んぼ道で待機している金沢秀俊と橋田菜穂子のことだ。
金沢は四十前のベテランだが、最近離婚し一人暮らしだ。独りで寂しくなったのをネタに、回りくどく上手に言って、話し込むことに夢中だ。張り込みのアパートだけが気になっているが、田口と雨のことは気にもしていない。
橋田は、金沢の上手な話に乗せられていたが、そろそろ嫌気がさしてきた。同情を誘って、自分に気を引かそうとしていることが見え見えに見えてきた。話をすり替えるのに丁度いい“的”が、田口彰だ。
橋田菜穂子は三十歳、女盛りと言っていい。二十三歳の若さぴちぴちの田口彰を、弟のように可愛がっていた。
「大変な雨ですよ、田口君大丈夫かしら。連絡してみましょう」
話を途切らす咄嗟の裏返しだ。金沢は、迷惑そうな顔をしたが、さすがに心配になってきた。
〈田口に何かあったら、石田班長にどやされる〉
田口の心配より、自分の責任に照らし合わせる。
「連絡してみよう」
金沢は、鼻から息を吹き出し、面倒くさそうに無線機を口元に持ってきた。
「田口、聞こえるか」
一度口元から離して、応答を待った。
「……」
金沢は橋田を見て、また無線機を口元に持っていった。
「田口! 応答しろ」
「おかしいわ!」
橋田は血相を変えた。
金沢はエンジンをかけ、車を発進させた。
この出来事の十分前、田口はビビりっ子のように、ぐじぐじと独り言を呟いていた。ぶちぶちぶちっと、強烈な雨が顔に当たる。何とか無線機をと思うが、マイクを背広に付けていたので、合羽を脱がなきゃならない。防水といえども、生活防水程度だろう。取り出す間に背広も濡れる。何を一番躊躇うかは、マイクが濡れ不具合を起こすことだ。
田口は去年、水溜まりに無線機を落として、修理出しとなった件がある。警部の高橋課長に報告した際、「遊び道具じゃねぇぞ!」と、こっぴどく怒られた。ここでまた修理出しとなりゃ、呆れ顔を見せて、「おまえ金払えよ!」と、怒鳴りつけられる。
“止めとこ”鬼の顔に撤収だ。いざとなりゃここから逃げ出そう。
前が見えないくらい降る雨の音に混じって、ジャリジャリと砂利道を歩く音が微かに聞こえだした。最初は気にならなかったが、ジャリ音の音色が、だんだんザクザクと変化してきた。
たしかに近づいて来ている。田口は、張り込んでいるアパートとは反対側の砂利道を見た。
「えっー」
思わず声が出た。川が氾濫したとかじゃなく、夜遅く十一時は過ぎているだろう、しかもこの嵐の中、なんとこんな時に、氾濫しそうな川の傍の砂利道を人が歩いていた。雨は三十分間に、五十ミリは降っているとの感覚を受ける。
〈マジかよ〉
田口は雨に打たれながら、痛さを堪えて人が歩いて来る方向をしっかり見た。
小さい傘、小さな長靴、買い物袋を持っている。近づいて来た。
「えっー」
さらに驚いた。
「こ、子供じゃねぇか」
田口の開いた口に、雨がたらふく入り込んだ。
ぶうぁーっ、一気に吐き出した。
〈こんな時間にお遣いか?〉
近づいて来て、はっきり見えてきた。絵柄の付いた雨傘で、描かれた絵はハッキリ見えないが、漫画のようだ。長靴は小さくて、赤色に見えた。
「女の子か……」
〈こんな天気に、お遣いさせる親の顔が見てえや〉
こんな天候に張り込みさせられる自分の苛立ちと重なって、揶揄する気持ちが一層強くなった。
近づいて来た子供を、感心するかのように覗いて見ようとした。子供はどいう訳か、田口のいる電信柱の傍に来た。田口は、びしょびしょに濡れた顔で、「お遣いかい?」と、声をかけた。すぐ傍に来て立ち止まった。小学生低学年か? そう思いながらしゃがみ込み、子供の顔を見た。
雨粒が目に入り見えにくかったが、可愛らしい女の子に見えた。瞬きしながら、睫毛から垂れる雫を拭って、「感心だねぇ」と、可愛らしい女の子を気遣った。女の子は目を伏せていたが、田口が言ったことに、伏せていた目をゆっくり上げた。目が合った。
〈わおぉー、なんて可愛いんだ!〉
「可愛いね」と、言った途端ニコッとした。その和やかさに奇譚なものを感じた。
すると、ニコッとした顔が、だんだんと膨らんでくるように見えた。田口はまた、瞬きして顔を拭って顔まで振った。
はぁーぁ、見る見る顔が膨らんできた。
〈いや、違う。口が大きく、いや広がってきたんだ! えっー、えっ!〉
顔も大きく膨らんだ。目もグゥーっと音を立てるように、横に広がってきた!
「なっ、なっ、なに」
声にはならなかった。
「く、口が!」
ヒューっと広がった!
丸く大きくなった顔に、目が耳まで、口も耳まで広がった。そして、ニヤリとした目はキラリと光り、耳まで広がった口が開き、並んだ大きな歯が見えた。
「ウわぁーー」
狂瀾の顔と、声を出した。
唇はぶるぶる、あゎあゎゎゎっと震えまくった。田口は思わず尻餅をついた。
「ば、化け物だー」
叫んだか叫ばないか分からない。狂瀾の驚愕は、這ってでも逃げるしか道はない! 覆り、手と膝がついたまま一気に蹴り上げ逃げようとしたが、砂利に足先を取られ、つんのめって立ち上がれず、勢いよく電信柱に頭をぶつけ倒れた。うつ伏せで頭を抑え込んだ。うぅーっ、うなり声を出しながら、仰向けになった。大粒の雨の痛さも感じない。
〈俺はここで濁流に呑まれて死ぬのか……、最悪の死に方だ〉
呻きと、雨粒が目に……、ぼんやりだが人の気配を僅かに感じた。ジャリジャリ、音も微かに聞こえた。虚ろな目の前に、雨粒を避けてくれるように、あの驚愕な恐ろしい化け物。大きな顔と引き伸びた目、引き裂かれた口。覗き込むように、倒れた田口の顔の前に現れた。
「ひぃーっ!」
引き攣った声を出して、気を失った。
「田口くん」
「田口! 大丈夫か」
金沢と橋田は、応答のない田口が張っていた川沿いの電信柱のところへ急行した。
「気を失ってるわ!」
橋田の束ね髪は、雨に濡れぞんざいに乱れた。顔を振ってしぶきを飛ばし、金沢に金切り声を立てた。
「金沢さん! 救急、救急車を呼んで!」
金沢は、顔についた雨粒を手で拭って、急いで無線をと車のドアを開けたが、すぐに振り返った。
「ここに呼んじゃやばい! 犯人にバレちまう」
「何言ってんの! 頭から血が流れてんのよ! そんなこと言ってる場合じゃないわ!」
金沢は、目をパチパチさせて両手を広げて言った。
「やっぱりまずい! とりあえず車に乗せて、よそで呼んだ方がいい」
「じゃ、抱えて!」
びしょびしょになったスーツを手で払って、田口の脇を抱えて車に乗せた。
「びしょ濡れだ!」
はぁはぁ言って、金沢は眉間に皺を寄せて、いやいやな顔をした。
車を出し川沿いを離れて、本部に連絡して救急車を呼んだ。
「おまえら何やってんだ!」
石田は、静まり返った病院の待合室で怒声を浴びせた。
橋田菜穂子は病院で借りたバスタオルで、石田班長の怒鳴り声をかき消すように、濡れた髪を思いっきり拭った。
金沢はハンカチで顔を拭いながら、青ざめた顔をして、「すいません……」と、平に屈した姿勢を見せた。
「この夜中に非番の連中を呼び出して!」
続く忌々しい石田の説教にうんざりした。
看護師が現れて、「夜中ですよ。病院ですから」と、釘を刺された。若い看護師だったが、事が事だけに威圧感があった。
石田は顰めっ面をしたが、「すいません」と、すぐに謝った。
看護師が去った後、すぐに小声で、飛沫感染でも起こしそうなくらいの弁舌が始まった。
「いいか、この件をどじったら、金重署始まって以来の汚点だぞ。京都府警本部長まで更迭をくらうぞ」
金沢は、下を向いたまま微動だにしない。
橋田は相変わらず、タオルで髪を拭いながら、「それはないでしょう」と、声無くして呟いた。
看護師が現れ、「こちらへ」と、相も変らぬ騒ぎっぷりに呆れた顔をして呼びつけた。
治療室に入り込むと、治療ベッドのカーテンを看護師が閉めた。田口が点滴を受けているのが微かに見えた。
担当医が、「こちらへ」と、診察室に案内した。
「ちょっとショック状態で……、今は落ち着いています。頭を強くぶつけたようで、脳震盪を起こしたようですね」
「そしたら、殴られたとか、車に撥ねられたとかじゃないってことですか」
“そしたら?” 班長なのに、なんて舌足らずな。橋田は、石田の子供じみた喋り方に、“金重署の恥さらしだわ”と思った。事件性じゃなくて、身体の心配が先でしょうが! 橋田は呆れて、石田に軽蔑の視線を向けた。
「命に係わるとか、例えば、精神的にどうかとかはないのでしょうか?」
橋田が、心配する内容に変えて聞いた。
担当医も、橋田の方に向きを変え言い出した。
「命に別状はありませんが……」
うんー、担当医は悩む顔をして言い淀んだ。
ん! 金沢が思わず顔を突き出した。
「どおかあるんですか?」
石田が、担当医の顔を覗き込んだ。
“どおか?” 日本語? 京都府警の恥だわ。橋田は、“どうか”でしょうと、呆れを通り過ぎ、巡査長よりレベル低いわとバカにした。
「いや、ちゃんと張り込みをやっていたと言ってたんですが……。突然、化け物が出たと言うんですよ」
「化け物? 田口が言うんですか」
石田が聞き直した。石田たち三人は、顔をつき合わせた。
「とにかく、会わせてもらえますか?」
「どうぞ」と、治療ベッドに案内された。
田口は、石田たちを見て、「班長!」と言い、半身起き上がろうとした。
「あぁー、無理するな、無理するな。今日はゆっくりとしてろ」
命ずるような言い方をした。
「すいません……」
田口は恐縮した。
「大丈夫?」
橋田が心配して顔色を窺った。
「大丈夫です」
「どうして気を失ったんだ? 覚えているか」
化け物の件を担当医に聞いていたので、敢えて石田は聞いてみた。
田口は、おぉーと小さく叫び、首を振り、「化け物が現れました」と、目を輝かして言った。
不可解な顔している石田たちに、疲れ果てた顔を見せて、「本当です」と、泣きそうな顔に変わった。
金沢は口を開けたまま、人差し指を頭に持って行き、“おかしくなった!”の、意味を印した。
橋田が、人差し指を掴んで下に降ろし、「馬鹿なこと言わないの!」と、田口に見られないようにした。
橋田は担当医に、「どうなんですか?」と、問いかけた。
「たぶん、一時的なショックによる幻想でしょう。休めばなくなるでしょう」
橋田は、“本当かしら”の疑問しか残らなかった。石田班長は、三日間有休を取るように指示し、仕事に戻った。
親に連絡を取り、来てもらうことにしたが、すぐに来られないとのことだった。田口にとって生まれ育ったところで、母方の祖父母が健在で、さらには孫の一大事ということで、祖父母が駆け付けることになった。
田口は浅い眠りについていたが、すぐに目が覚めた。スリッパの音が近づいて来た。静まり返った病院では、駆け足のごとく聞こえる。これからの職場での自分の立場を悩むせいか、夜中の病院の不気味さのせいか、周りが気になって熟睡なんてものはほど遠かった。自分では、眠りを妨げる原因は分かってはいたが、思わないように努めた。
〈あの化け物が、またベッドの傍に現れるのでは……〉
振り払うように、思いを必死で遠ざけた。
看護師が田口の祖父母を連れてきた。
「どうぞ」と、祖父母を招き入れ、看護師はすぐに去った。
「彰、大丈夫か?」
「益雄じいさん、わざわざ来てくれたんかい」
「彰さん、大丈夫かいね? 敦子から聞いた時、心臓が止まるかと思ったわ」
敦子とは田口の母親だ。
「それは悪いことしてしもたね。心配せんでええが、ちょっと脳震盪起こしただけや」
「だけど、心配せん訳にはいかんじゃろうが。彰のじいさんは飛び起きてきたぞ」と、付け加えた。
「ところでおまえ、妙なこと言うとると聞いたが……」
「お父さん、何言っとるの」
ばあちゃんが、じいちゃんの肩を叩いた。ショックを与えるようなこと言わないの! と、言いたげだった。
じいちゃんは、「しもうた!」と言ったが、彰はピンときた。
〈じいちゃんらに聞いたら、なんか分かるかもしれん!〉
とにかく、彰にとって藁にも縋る思いだ。
「じいちゃん、いいんだよ、本当のことだから」
ふんふんと、じいちゃんは頷いて、「何があったんじゃ?」と、彰に聞いてみた。
「実はじいちゃん、仕事で張り込みをやっている時、雨がめちゃくちゃ降りだして、川は溢れんばかりの嵐だった」
まるで、日本昔話を語るかのような言い草をしだした。
「その時、小さな子が傘をさして、張り込みをやってる俺のところへ歩いて近づいて来たんだ」
じいちゃんは、真剣に聞き入った。可愛い孫の話だ。興味津々に彰の顔を見つめて、頷きを何回もしてくれた。
「それで、その子供がどうかしたんか?」
「だんだん近づいて来て、こんな日に感心だなと思って、声をかけようと、立ち止まった子供の顔を覗き込んだんだ……」
じいちゃんは前のめりになった。
看護師が、立ったままいるばあちゃんを気遣って、折り畳みの椅子を持ってきてくれた。
ばあちゃんは、「どうもすいません」と、椅子を開きながら、差し出してくれた看護師に礼を言ってから座り、バッグを膝の上に載せ、両手をバッグの上に置き換えて、彰の話を聞きだした。
じいちゃんは、ばあちゃんが座り込むのを振り返って見て、彰の方を向き、前のめりになって話を聞きだした。
「最初は可愛らしく見えたんだが、だんだんと顔が大きくなって、目と口が広がりだして耳まで広がって、でっかくなってニヤリとしたんだ。ちびりそうになって逃げだそうとしたんだ。それから衝撃を受けて覚えていないんだ……」
じいちゃんは、ふーん、と頷いて壁を見つめ、途方に暮れた。途方もない話を聞いたからではなく、何かを思い出しているように見えた。
ばあちゃんは、「あんた」と、じいちゃんの肩に触れ、何か言いたげな顔をした。おそらく、“ちょっと、おかしくなってるよ”と、伝えたかったのだろう。
じいちゃんは無視した訳ではないが、相手にしなかった。物思いに耽っている様子だ。
突然、「そうだ思い出したぞ、彰! さっきから、何か聞いたことある話だなと考え込んでいたんだが」と、ポンっと握り拳で、片方の掌を叩いた。
「おじいちゃんがな、まだ小さい頃、わしのおじいちゃんから、彰にとっちゃ大大じいちゃんになるかな、そのじいちゃんから、昔のことだから、明治か昭和の初めの頃の話か分からんけど、似た話を聞かされたな。たしか……あの辺りだったと思う。そう、たしか奈良田川だ、そうじゃないか」
「川の名前まで覚えていないけど、川縁だよ」
「あの辺りは、昔は結構栄えていてな、軍事工場があったらしい」
今度は、田口が聞き手になり頷きだした。
「そんでな、その工場の社宅があって、評判になったことがあるらしい。それがな」
田口は、じいちゃんの入れ歯がたまに浮くのが気になったが、一息つくたびに頷いた。
「夜、雨が降ると、傘をさした子供が現れ人々を驚かしたそうだ。その子供は、彰が言うように、丸っこい顔で口が耳まで広がっていた、化け物だそうだ。彰の話で、久しぶりに大大じいちゃんの話を思い出したよ」
「そうなんだ。そんな言い伝えられた話があったんだ」
ふーん、と頷いた。
〈こんな話、こんなことがなかったら、バカバカしいで済ましちゃうんだろうな〉
じいちゃんが、今の自分にとって頼もしい存在になった。
「それで、先の話はどうなったの?」
「で、噂じゃ、当時というか大昔から、狸が盛んに出るという所じゃったと聞いたな。大大じいちゃんは話好きだったから、わしによく、そういう話をしてくれたよ」
ふーんと、なぜか彰は気が少し楽になった。夢じゃなかった、という安心感が漂ったが、すぐに不安感も湧き上がって来た。
「大大じいちゃんは、他にも何か言った?」
嘘でもいいから、不安な気持ちを払いのける、いや、吹き飛ばしてくれるくらいの話を期待して、じいちゃんに聞いてみた。
うん、ぐぅぐぅっと、痰が絡む咳払いをして微笑んだ。
「おー、思い出して来たぞ。それで、その化け物を見た人は、気を失って病院に運ばれたそうじゃ」
「俺と一緒じゃないか」
じいちゃんは、下唇を突き出して大きく頷いた。
「そんなんじゃ」
いつもこんな話し方をするじいちゃんが、かったるく感じていたが、今日はじいちゃんの話っぷりが、表現力抜群の弁舌家に見える。
〈年の功ってのは、こんなことを言うのかな〉と、思った。
「そんで、どうなったん?」
いつの間にか、じいちゃんの世界に入り込まされたように、じいちゃん言葉が伝染してきた。
「それでじゃ、その化け物を見た人は、そのまま入院したちゅう話もあったし、不思議な力を携えて、大金持ちなった人もいるっちゃそうだ。まぁ、どっちも、何処まで本当かは分からんがの」
「ふーん、その入院した人ってのは……」
彰は自分の頭を指して、「おかしくなったってこと?」と、スローテンポにじいちゃんに聞いた。
ばあちゃんは、「単なる昔話だから」と、じいちゃんが言う前に彰を案じてきた。
「はっきりしたことは分からんちゃ。あくまでも昔話じゃからのぅ」
彰はショックで落ち込みそうになったが、ついでに聞いてみた。
「その金持ちの方はどうなったの?」
ふぅー、じいちゃんはため息をついた。
「疲れた?」
気遣って聞いてみた。
「いや違うんじゃ、おまえの質問、わしも大大じいちゃんに訊ねたんじゃ」
「そうなの、血筋か……」
笑いが出た。
「それでじゃ、その金持ちになった男は、金重町一の金持ちになって、京都府の府知事までのし上がったらしい」
「へぇー、凄いね。歴代の知事を調べれば誰か分かるね」
「そこまではしてないがのう」
「化け物は本当にいるってことだね」
「彰が見たんじゃ、間違いなくいるってことじゃ」
〈じいちゃんは、俺の言うことは信じてくれた。というか、じいちゃんが小さい頃、大大じいちゃんから聞いた話と、瓜二つの話を現実的に聞かされちゃ、信じるほかないだろう。ばあちゃんは、そんな言い伝えが本当だろうがなかろうが、どうでもよくて、俺のことだけが心配のようだ。こんな夜中にわざわざ来てくれて、心配してくれる、そんなじいちゃんとばあちゃんだ。ありがたいことだ〉
「ばあちゃんたち、疲れたろ。帰って寝てちょうだい」
彰の、精一杯の気持ちだ。
「ばあさんは先に帰って休め」
「あなたこそ休んでくださいな」
「いいから帰れ!」
「彰を置いて帰れんでしょうが」
「だから、わしが残るって言いよるやろうが」
「分かった分かった、二人とも居ってや」
彰が仲裁に入った。じいちゃんとばあちゃんの口喧嘩は、彰から見ると喧嘩というにはほど遠い、おしどり夫婦の言い合いで、喧嘩にはならない。世の中のあらゆる出来事、国と国、じいちゃんたちのように喧嘩にならないおしどり夫婦なら戦争も起きない……。思わず笑った。
彰はナース室に行って、二人が寝られる簡易ベッドがないか訊ねた。看護師は嫌な顔もせずに、すぐに用意してくれた。彰のベッドの両隣に簡易ベッドを置き、ライトを消した。しばらく静かだったが、じいちゃんが思い出したのか喋りだした。
「彰、起きちょるか」
「あぁ、ばあちゃんは寝たみたいだよ」と、寝るように促した。ちょうど寝息が出そうになった時だったので、チラッとムカついた。
「お金持ちになったという男な、大大大じいちゃんの話だと……」
「大が一つ多くない?」と、じいちゃんをからかった。
じいちゃんは、「はははっ」と笑って、ゲホッゲホッと咽た。
「大丈夫かい?」
彰も、静かな部屋で笑いが込み上げた。
「それでじゃ、寝たら忘れるじゃろうから言っとくけど、大大じいちゃんの話によると、その化け物を見ると夢が現実になるらしいぞ」
「……、それじゃ府知事になった人、お金持ちになる夢を見たんだ」
彰は、眠たいのを大きな息を吹き出して誤魔化した。しかし興味深い話だった。
「そうじゃ、らしいぞ」
「ふーん、俺も現実になるかな」
「はぁー」と、じいちゃんが欠伸をして頷いたのが分かった。
翌朝、医者の診察を受け、退院のお墨付きをもらった。名古屋の親には退院を知らせ、「来なくていいよ」と連絡した。車で、こちらに向かう寸前だったらしいが、ばあちゃんたちに手伝ってもらって、来なくていいとの旨を、何とか説得させた。来たら来たで鬱陶しい。それだけならまだいいが、病院に挨拶、それから金重警察に行き、「ご迷惑をおかけしました」と、彰にとって憂鬱な世界に入り込んでしまうからだ。
とにかく親にとっては、息子の不祥事を詫びるという、子想いの行為なのだろうが、子の彰にとっては御節介の行為だ。こんなことで親に署へ行ってもらったら、“親離れできてない、甘ったれ”と、揶揄されるのは明らかだ。それだけは避けなければ、刑事としての資質が問われる。考えただけで身震いする。
退院して、今日は警察寮には戻らず、じいちゃんたちから、「落ち着くまで家に寝泊まりせいや」と言われ、甘えることにした。親を来させないよう、説得させる口実にもなる。
その日の夜も、じいちゃんと化け物の話をした。
「化け物の狸は、人を脅して楽しんでるんだ」と、愉快そうに語ってくれた。
「ただ、その驚き方の楽しさによって、不思議な力を与えてくれるそうな……」
そんなお伽話のような話をするじいちゃんは、とても楽しそうだった。
でも、じいちゃんがいたおかげで救われた。
〈じいちゃんがいなかったら、誰も信じてはくれないだろうという疑問符だけではなくて、笑い者になって、俺自身も正常でいられるか?自信がない……。落ち着いたら、じいちゃんに何か御礼をしよう〉と、胸にしっかり刻んだ。
次の日、休みを取っていたが、調子も良かったので署の方に顔を出すことにした。石田班長に会うのに躊躇いがあったが、上司という操り糸に引っ張られた。可愛がってくれる橋田には、とりあえず元気な姿は見せたかった。
署には昼前に入った。金重警察署は昨年建て替えられ、コンクリート四階建てで、この田舎町ではキラリと光るアートに見られている。ビルのてっぺんに『POLICE』と描かれた文字は、暗がりになると赤と青と緑で点滅され、ネオンの少ないこの街では、煌びやかさを見せる。署長はこれを見て、唸ったとか?
三階に、田口彰が所属する生活安全課がある。外国映画にある、オープンなワークスペースだ。田口が三階に上がると、すぐに橋田菜穂子がデスクで気が付いた。
「田口くん」
部屋に入ると、すぐに声をかけてくれた。
「ご心配おかけしました」
「よかったわ、どうもなくて」
「はい」と言ったものの、化け物で騒いだ件は耳に入っているだろう。“黙っておくのが賢明”が、頭を過った。
生活安全課は新オフィスになって、一人一つずつデスクを持ち、縦長に配置しているため、両隣には人がいなくて行動しやすい。奥のガラス張りの別個の部屋に、石田班長が居座る。
しかし今日は、橋田菜穂子以外は全部空席だ。顔を見たくないと思いながら、塩でも撒かれるかもと、覚悟して会いに来た石田班長もいなかった。
「みんな出払ってますね」
部屋中を大袈裟に見渡した。
「そうよ、誰もいないのよ。私が留守番よ」
「なんかあったんですか?」
「実はね、田口くんが張ってたあの近田宏之、うち(金重警察署)でワッパを掛けて、しょっ引いたの!」
井戸端会議でもしているような話し方を、橋田はしてきた。
「えっ!」
彰は驚いた。
「たしか、警視庁がストーカー殺人で追っている男じゃなかったっけ……」
橋田は彰の顔色で、窺い知ったように言い出した。
「そうなの、警視庁の事件なんだけど、よくあるやつよ、決め手がないのよ。だから、警視庁が泣きついてきたのよ。逃竄しないように、何とか検挙できないかって」
「へぇー、とんでもない方へ事が進みましたね」
「そうよ、署長は名を売る絶好のチャンスなのよ、分かる?」
彰は、橋田菜穂子に圧倒されるように何回も頷いた。
「それで、署長命令で、恩を売って鼻まで明かしてやれってね」
橋田は話を加速させた。
「要は、検挙して、さらにストーカー殺人まで自供に追い込めって。どう思う、見え見えでしょう」
問われる彰は、答えを返す隙もなかった。
「警視総監と、マスコミが取り上げるほど話題に上ってる事件でしょう。だ、か、ら、警察庁のお偉いさんも注目してる訳」
右手人差し指を突き上げて、捲くし立てた。
「出世の大チャンスって訳。でもね、ウフフ……」
突然、笑って言い出した。
「所詮無理な話よ。警視庁が何回も警告して、一度は検挙した男よ! それを無視して殺しを実行した男よ。うちの取り調べで落ちると思う?」
漸く答えられる雰囲気になった。
「そうですね、無理ですよね」
「そうでしょう。それで、無理やり別件で近田を引っ張って、取り調べ中よ。他の人はガサ入れに行ってるところで、私は留守番よ」
橋田は、よっぽどうっぷんが溜まっていたようだ。少し落ち着いたのか、彰の顔を眺めて、「よかったわ、元気そうで」、そう言ってニコリとした。
「ちょっと待っててね、石田班長を呼んでくるわ」と、さっさっと取調室に向かった。
待って、と言う間もなく、小走りで行ってしまった。会わないで済むなら会わないでと思ったが、橋田の素早さに追いつけなかった。
しばらくして、眉間に皺を寄せ、石田班長が考え込みながら現れた。田口の顔を見て、一瞬微笑んで、「どうだ調子は?」と聞いて来た。
「大丈夫です!」と答えると、険しい顔に変わって言い出した。
「訳の分からんこと言っとったが、どうもないか?」
自分の頭を指して疑わしい顔をした。後ろから来た橋田が、困った顔をして、石田班長に渋い呆れ顔をした。
「あぁー、あれですか」
彰は、鼻息をもらして、「夢でも見たんでしょう」と、軽く躱して橋田を見た。
橋田が、“そうそう”の顔をしてニコリと笑った。
「明日から出られそうか?」
猫の手も借りたいほど忙しいと言いたげに、彰を見た。
「まだ早いでしょう」
橋田が、石田班長に促したが言い返された。
「橋田、知ってるだろ、今の状況。課長から、おまけに署長直々だぞ! 泣きたいくらいだ」と、本当に泣きそうな顔をした。
ふぅー、と橋田はため息をついた。
「いいですよ」
彰は、そう言わざる得ない状況だった。
〈やっぱ来ない方がよかった〉と、一瞬頭を過った。
「そうか、そうしてくれ。とりあえず、橋田に代わって留守番をしてくれ」
「はい、分かりました」
「よっしゃ、それで頼むわ。取り調べ中だからな……」
そう言って、すぐに戻ろうとした。
橋田は手のひらを広げて、呆れた顔をした。
「班長、僕にもホシを見せてください!」
石田は、勢いよくつんのめった。
橋田は口を開いて、「えっ」と、思わず出た。
「何言ってんの、今日は止めときなさい」
橋田が、無理しなくても明日からでと案じてくれたが、「顔だけでも見させてください」と、願い出た。
「おぉー……」
石田班長は一瞬躊躇ったが、目を見開いて首を振った。
「見るだけだぞ」
「はい」
彰は、気前よく返事をした。化け物に会わせてくれた張本人だ、面を拝見してみようという気持ちが、自然と湧いて来た。
橋田は、よした方がと気遣ってくれたが、彰には、化け物とホシの近田が、切ることの出来ない存在だった。橋田にはウィンクして、ありがとうの御礼をした。
「ほんなら、ついて来い」
後ろについて、二人は足並みを揃えて取調室に進んだが、一歩か二歩踏み出すたびに首を捻り、愚痴をこぼす。
「あぁー忙しい、署長が目の色変えてるからな。高橋課長は、落とすまで帰すな! と、好き放題並べやがる」
彰は、自分に言っているのか、単に愚痴を独り言で喋っているのか、まったく分からなかった。とりあえず言葉が出るたびに、「そうですか」、「そうなんですか」と、返事はしておいた。
取調室は二重になっていて、ドラマに出てくるようなでっかいガラス張りの部屋で、中がまるまる見える。勿論、取調室からこちらは見えない。昨年、新築された時に、各捜査課に取り付けられた取調室だ。すぐ隣の部屋は、録音録画できるレコーディング操作室がある。
中に入って、ガラス張りの部屋から見てろと言われたが、直に見たいと申し出た。
「まぁ、いいだろう」
仕方なく、石田班長は許可した。
なぜか、積極的に取り調べの状況を見たかった。日ごろは、取り調べに参加するのは気が進まないが、この男には興味を注がされた。もともと男前で、女性関係で悩ましいことに陥るとは、とても彰には信じられなかった。ストーカーに遭い、殺された女の子は高校生で、将来は女優を目指す品のある美人だ。殺された翌日から、女の子の動画がテレビで流れ、話題をさらったほどだ。
中に入ると、肥田という刑事が尋問をしていた。生活安全課の一番のベテランだ。肥田は、彰を見てニコリと微笑んで、すぐに尋問を始めた。
すぐに目についたのは、近田がニヤニヤして、我々をおちょくるような態度を見せているところだった。ハーフのような顔立ちは、背丈からしてもモデル風に見える。鼻立ちから、ロシアの血が混ざっているように感じた。
次の瞬間、耳を疑うような言葉が飛び込んできた。
「あの子が死んで安心してますよ。生きていたら、俺がムズムズして落ち着きませんから」
肥田はすぐに前のめりになって、問い詰めた。
「だから、お前がやったんだろう!」
ふんっー、吐き捨てるような返事をして、悪念を含んだニヤついた顔をした。
「だから、殺されて清々したんですよ。殺した人間に感謝ですよ! これで誰にも渡さずに済む」
「……お前、あの子のこと好きだったんだろうが」
「もちろん好きでしたよ」
ニヤリとした。
「じゃ、なんでそんなに清々しくなるんだ! 好きな子が殺されたんだろうが!」
「だから言ってるでしょ! 他に行くなら死んでもらった方が安心なんですよ!」
近田は左頬を攣り上げ、ニヤっとした。
「なんだと!」
肥田は、近田を睨みつけた。無理もない、刑事も人間なのだ。こんな身勝手な男を目の前にすると、虫唾が走る。
近田は、悪魔にでも取り憑かれたような、薄気味悪い笑いを見せた。
“正常じゃない”
近田を間近に見て、彰は身震いを覚えた。
「好きだったら殺すか?」
気づいた時には声が出ていた。彰は自分でも驚いて、石田班長を見た。
「……」
口を開けたままの石田さんの顔は滑稽だった。
「あんた誰ですか?」
近田が、薄気味悪い顔で彰を見て聞いて来た。
「ここの刑事だ」
近田を前に臆することは、“まずい”と、直ぐさま感じた。
「好きならそんな酷い仕打ちができるか?」
また口から出た。
まともじゃない男に、まともなことを聞いても、まともなことが返って来る訳がない。分かっているが、彰は自分でも分からないうちに、なぜかまともな質問をしてしまった。
「困るな刑事さん、好きだから死んだ方が安心するんですよ。だから僕は嬉しいんですよ。はははっ!」
彰に、呑み込むような笑いを浴びせた。
「なんか、僕が殺したような言い方しますね」
「殺したんだろう!」
肥田は、近田の舐めたような態度に怒った。
「だから、殺した犯人に感謝感激なんですよ」
テレビ刑事番組なら、ここで近田の胸ぐらを掴んでってところだが、現実の刑事はそうはいかない。
〈こいつは落とせない……〉
石田班長の顔は青白く、悲観的な失望の先を見据えている。
〈きっと、署長の顔でも浮かべてるんだろう〉と、彰は思った。
「殺されたことで安心したんだ。人の死を喜んだんだ」
彰は淡々と口から出た。
〈俺は、なんで思ったことが次から次へと口から出るんだろう? 化け物と関係があるのか〉
ブルブルっと首を振った。
石田班長は、「おまえ、どうかあるのか?」と、彰の突然の首振りに、入院時に見せた化け物騒動に照らし合わせて、肝を冷やした。
ん? 思い出したかのように惚けた顔をした。
「何でもないですよ」
「おまえ、戻って休め」
石田班長は、まだ駄目かなと、胸中穏やかでない仕草をした。
「若い刑事さん」
近田が上目遣いで、血の気のない薄っすらした歯茎を見せながら呼びかけてきた。
「あなたなら分かるでしょう、僕の気持ちが。天は僕を見捨てなかった。ねぇ、分かるでしょう、刑事さん」
気味の悪い笑顔を、彰に浴びせた。
「馬鹿なことを言うな!」
肥田は今にも近田に飛びかかって行きそうだ。
石田はそれを察して、「肥田、俺と代われ」と、肥田の肩に手を添えた。
“一筋縄じゃ行かない”
石田班長はそう思ったのだろう。肥田を落ち着かせるように席を代わった。
「近田よ、おまえが彼女の家に忍び込んで殺害したんだろう」
「さっきから言ってるでしょう、僕がそんな男に見えますか?」
常軌を逸した言動は、刑事さんをおちょくるとかの範疇じゃなく、狂っているとかの範疇でもない。何かに取り憑かれたような面は、宗教に嵌まり込んで、洗脳されているとかの馬鹿さ加減とかでもない。近田の薄気味悪い笑いは、映画、『羊たちの沈黙』で見せられた、恐怖で身震いする感覚を覚える。
「そんなことしなくても、人が殺してくれたんですよ。嬉しくて堪りません!」
このイケメン俳優的な男の、形振り構わず飛び出す囁きに、石田は頭を抱えた。
〈こりゃ、最低最悪な現代社会のクズだ〉
声なき声が、彰の渇ききった心うちに聞こえてきた。
「班長、私と代わってくれませんか」
えっ、石田は驚いて彰の顔を見ていた。無理もない、自分でもびっくりだ。
〈代われよ、よくもそんなこと言えたもんだ〉
「大丈夫か??」
気遣って聞いて来たが、「やらせてください」と、スラリと出た。
「ん、にゃ、やってみろ」
石田班長と肥田は顔を見合わせ、お互いに首を捻った。
“どうなってんのや?”思わず声が聞こえてきそうだ。
「近田さん、あんた好きな人が殺されて喜んでいる」
「あぁ、そうだよ」
「分かるよ、その気持ち」
それを耳にした石田班長と肥田は、顔の血の気が引いたように白い顔をして、見合いをした。
「近田さん、俺は今から帰るけど、明日になったら、また、あんたの話を聞いてあげるよ」
「嬉しいね、若い刑事さん」
彰はひょいと立ち上がり、ニコリとして喋った。
「明日じゃないかな、今晩かな」
彰自身も、〈今晩? どこの口が言ったんだろう。俺はやっぱりおかしいか!〉と、自分に問いかけた。
それより、石田班長と肥田は口が開いたままだ。それを聞いて喜んだのは近田だ。
「いいこと言うね、刑事さん。今晩、俺と一緒に寝てくれるかい。それとも、一晩中話し相手になってくれるのかい?」
ふふっ、不敵な笑顔を見せた。
石田班長と肥田は、このような不気味な笑顔を見せられ翻弄された。“こりゃ駄目だ”の気持ちにさせられ、尋問をはぐらかされた。
「はははっ、明日会うのが楽しみだな」
「もしかしたら、会いたくなくなるかもよ」
「とんでもない! 僕はあなたを愛してますよ。気に入ってんだ」
イケメンという言葉が、ピタリと当て嵌まるこの男。異常者という名前も当て嵌まる。何とも情けない男だ。彰は、それしか思い浮かばなかった。
「明日が楽しみだ!」
彰は笑いを返し、「夜遅く来るかも」と、近田に言った。
「寝てたら起こさないでね。ふふっ、良い夢見てるから……」
「はははっ、そんなことしません。夢の中に入り込んで一緒に楽しみますよ」
「……ははっははっ」
近田は小馬鹿にした笑いで、彰たち三人の刑事を見渡した。
「ハハハ、いいですね、その社会的常識を外した笑い。楽しみにしててください、ハハハ」
彰と近田が、仲良く笑い出した。
石田班長と肥田はまた見合い、石田が口を開いた。
「田口、おまえ、今日はもういいから帰れ」
「はい、そうします」
肥田は悩ましい顔をして、髪の毛を片手で広げて掻き上げた。
“どうなっとるんじゃ?”
彰を見て、目で語った。
「それじゃ近田さん、明日……いや、今晩かな」
「ハイハイ、今晩ですね」
ニヤリと、近田はした。
あとは肥田に頼み、彰は石田と取調室を出た。すぐに石田は、彰のおでこに手を当てた。
「熱ないか?」
「えっ、熱いですかねぇ」
「おまえ、なんであいつを手なずけられるんだ?」
近田を透しガラスで見ながら、顎を指で撫でた。
「自分でも分からないところがあって、ペラペラ出ちゃうんですよ」
「ふ~ん」
石田班長は目を瞑り、頬っぺたを膨らませ、息をゆっくり吹き出しながら額に手を当てた。コンと舌打ちをして、「よし!」と、指を鳴らして言い出した。
「明日からおまえが尋問してみろ」
「はい、分かりました!」
素直に返事が出来た。近田という男に興味が湧いて来た。
彰は尋問が苦手だ。罪を感じ、反省の色の濃い相手なら、罪の重みの猛省を促すことで、彰でも落とすことは可能だ。若いせいもあるが、強かな相手になると推しが足りず、うまく相手に躱される。
しかし、世の中の隙間から生まれて来る昔からの異常者とは違う、現代社会が生む異常者となると常識論は全く通用しない。これからも、異常なくらいのインフォメーションテクノロジーの発展で、新犯罪人類が生まれてくるだろう。人との触れ合いでなく、情をなくしてコンピューターと触れ合うことになる。考えただけで鳥肌が立つ。
石田は、現代社会の常識外れの近田を落とすのは、不可能と考えたのだろう。署長と課長の、“絶対に落とせ”は、この男には通用しそうにない。
「今から警視庁の捜査員が二人来て、尋問することになった」
石田班長は苦々しい顔をしたが、不敵な笑いも見せた。警視庁のエリートでも落とせるような玉じゃない、そう思っているようだ。
「まぁ、警視庁の古株でも、あの男は無理だ」
目線を近田に向けて首をくるくるさせ、ボキッと音をさせた。
「署長も、それで少しは納得してくれればいいが」
口をへの字に曲げ、息を吐いて言った。
「……分かんねーだろうな!」
石田班長が呆れた顔をして言うので、思わず笑いが出た。
「おまえもそう思うだろ」と、同意を求められた。気づいた時には返事をしていた。
「そうですね」
「今日は帰って休め。明日から出勤だ。警視庁の坊やに今日から尋問させるが、証拠らしき物はまだ掴めていない。指紋もDNAも、まだ決定的な物はないらしい。害者の家には何回か訪れているらしいからな。問題は凶器だ。見つかれば確証となるだろうな。手っ取り早いのは自供だ。が、ありゃー一筋縄でいく輩じゃない……。明日はおまえに尋問させる」
「はい、任せてください」
「自信たっぷりだな」
「いえ、自分が言ったように思えません」
「おまえだよ、しっかりしろ!」
石田班長に喝を入れられた。
「必ず落としますよ」
「その意気だ。それじゃ帰れ」
歩きながら思った。
〈今のも俺か? 落としますって、ハッキリ言った……〉
帰り際に捜査官室の横を通ると、橋田が手を振ってくれた。もちろん、柔やかに振り返した。考えながら歩いていると、自然と階段を降りていた。いつもなら、エレベーターを透かさず利用するのだが……。
〈石田さんは警視庁の坊やとか言ってたが、こんな異様な事件で、マスコミのターゲットになっている大捕り物に、若い捜査官が来るとは思えない。そんなことより、明日どういう風に攻めるかな……〉
一人になると、あんな太いこと言ってという後悔の念が頭を過った。
〈しかし、あれ俺が言ったと思えないんだが?〉
帰り道、ちょっと悪い汗を出しとこうと、サウナでも入ることにした。
金重署では、警視庁の生活安全部の刑事二人が、近田に尋問を始めていた。石田班長の坊やたちと言うのは、完全に外れていた。二人ともベテラン風で、五十代の厳つい顔をした刑事と、三十代後半の頭の毛が薄い刑事だった。
「近田、犯行当時おまえが東京にいたことは分かってんだ」
近田はニヤニヤして、どこの刑事だろうとまったく表情は変わらない。
「刑事さん、東京に行ったら犯罪かい。とにかく、なんであれ、彼女が死んでホッとしてるんだ。殺してくれた犯人に感謝だよ」
「それが、おまえさんだろうが!」
「嬉しいね、疑ってくれて。こうしている間に逃げ切ってくれれば、手助けできる。どうぞ続けてください。疑われて光栄だね」
「害者の部屋から、おまえの指紋からDNAまでみな出てるんだ。言い逃れは出来んぞ」
「じゃ逮捕しなよ、それはそれで嬉しいね。あの女を殺した犯人にされるんだ。ハハハッ、誤認逮捕でね。刑事さんたちは、赤っ恥をかくんだ。ふんっ!」
小馬鹿にした顔で、横を向いた。
透し鏡から見ていた石田班長と肥田は、吹き出しながら笑った。
「どうだ肥田、奴っこさんらもお手上げだ」
石田班長の思った通りだとの頷きで、肥田も一緒に相槌をうった。
「さて、署長に報告してくるよ。このままじゃ埒が明かない。後は、うちのガサ入れで何か出て来るか……。明日、近田と気の合いそうな田口の尋問で、何か出て来そうな気がする」
「本当に何か掴めますか? 田口は苦手にしてますよ、取り調べを……。自信ありますか?」
肥田は悲観的に推測した。聞かれた石田は、額に手を当てた。
「ない!」
ハッキリ言った。
「でしょう」
肥田は、“正直に無理と言うべきでしょう”と、顔に書いた。
「報告は明日にしよう……」
「おまえの親は嘆いてるぞ」
近田は知らんぷりしている。
「お母さんは涙を流して、おまえのことを心配している。なぁ、もう親不孝なことはするな。正直にすべてを話すことが、お母さんを楽にさせられるんだ。親を思う心に勝る親心だ。お母さんが、おまえを思う心の方がずっと強いんだ。いいか、おまえのことを本当に心配してくれるのは親しかいないんだぞ!」
古めかしい泣き落としで、ベテランの警視庁刑事二人は責めた。
透しガラスの向こうで、石田班長と肥田は、顔を見合わせ馬鹿にして笑った。
「もう俺たちがやったよ」
そう内々に呟いた。
近田は俯いて、泣きそうな声を出した。
「親には迷惑かけっぱなしで……」
声を震わせた。近田は俯いて、嘆き悲しむ嗚咽を漏らしだした。
警視庁のベテラン刑事は、もう一人の刑事と目を合わせた。一人は落とせる、一人はチョロいもんだと、近田に尻を向けた。
石田は、俺たちの時と違うぞ、と胸を高らかにした。
肥田は、「大丈夫ですよ、あのエリート刑事より、経験豊富です。あの近田、そんな玉じゃありませんよ」と、分析した。
近田は、涙を拭う仕草で、噎びながら語りだした。
「僕は……」
うん、刑事二人は、真剣に頷いた。
「僕は、とんでもない事をしでかした」
うん、うん、二人の刑事は何回も頷き、近田が落ちる言葉を、冷静に焦らずに待った。
「愛する女の子を……、女の子をめった刺しにした犯人なんだ!」
“おっ、来た! 確信に近づいた!”
二人の刑事は、漸く来たか! と、安気に心で微笑んだ。
近田は俯いた姿勢から少しずつ顔を上げ、神妙に語りだした。
「お母さんに申し訳ない……。こんな大それたことの疑いをかけられて……」
ん? 二人の刑事は目を合わせた。
「疑いをかけられて?」
「無理やり犯人にされそうだ」
泣き顔を見せながら、「あんたら、地獄へ墜ちちゃうよ」と、言ってのけた。
「なんだと!」
刑事の一人が、歯をギリギリ鳴らしだした。
すると、近田はニヤニヤして、涙を拭っておちょくって来た。
「そんなに僕を犯人にして、手柄を立てたいの?」
「おまえー!」
若い刑事の方が、さすがに切れた。近田の胸ぐらを掴み、引きずり上げ、顔を近づけた。
「てめえー! 舐めてんのか!」
石田班長と肥田は、「こりゃいかん!」と、急いで取調室に入って、二人を引き離した。
「はははっ、はははっ」
取調室に、近田の笑い声だけが響いた。
田口彰は、寮に帰るのにまだ不安を感じた。一人でいると、またあの化け物が現れそうな雰囲気が寮にはあった。古くて壁には染みが目立つ。慣れてはいたが、あんな経験をすると、その古めいた寮を頭に浮かべるだけで回れ右をしたくなる。それにひきかえ、じいちゃんばあちゃんの家だと、好きなものは食べられ、朝はきっちり起こしてくれて、美味しい朝ごはんも食べられる。要は甘えられる。そんなこんなで、また、お世話になることになった。
「おばあちゃん、今日のご飯は久々の大食いだよ」
「あんた、漬け物に目がないからね」
「何? 目がないって……」
「好きでたまらないってことよ。漬け物があれば、なんぼでもご飯が食える」
「はぁ、そういうこと」
「居るだけ居りなさい。どうせ、じいさんと二人なんだから」
ばあちゃんは、とても優しい。一緒にご飯を食べてたら、ニコニコしてくるのが分かる。もともと食欲旺盛だったが、「ばあちゃんの顔が明るくて」と、かこつけて食が進むと言った。何にしても笑顔が一番だ。
食卓の真向かいにいるじいちゃんに、また化け物に纏わることを聞いてみた。
「署に行って、とんでもない野郎を尋問したんだけど、自分が思ってもないことが口から出て来るんだ。何か化け物と関係あんのかな?」
じいちゃんは漫才が大好きで、DVDを借りてまで見る。今まさにそうだ。
「誰が好きなん?」
前に聞いたことがある。
「ダウンタウンの浜ちゃん」と、言ったことを思い出した。なんでも、やかましいや! とか、ゲストにポンポン言うところが、じいちゃんとピッタリ合ってスカッとするらしい。
そんな開けっ広げな性格だから、取っつきやすくて話しやすい。
「夢見たか?」
ひょんと聞いて来た。さっき聞いた尋問のことは無視されたようだが、まぁいいかと思った。
「夢? いや、見たか覚えはないけど……、見てないと思うよ」
じいちゃんは、漫才DVDを見ながら、ニヤニヤしながらも答えてくれる。
「たぶん、彰の驚いた表情が気に入って、彰に見えない力を与えてくれてるんじゃろ」
「えっー、俺に!」
「あーそうじゃ」
じいちゃんは、DVDを見ながらニヤニヤしてそう言ってきた。“器用”というか、自分には出来ない芸当と感じた。もう八十を越えているが、なかなかしっかり者だ。
「ふ~ん」
彰は口を尖らし、どんなもんかいな? と、不安に駆られた。
「大丈夫じゃ、あれから小さい時に聞いた、じいちゃんの話を思い出したんじゃ。狸での、よく悪さするらしいけど単なる悪戯じゃ。さっき言ったけど、驚いた表情や態度が面白かったら不思議な力を与えてくれると、昔からの言い伝えらしいぞ。わしは結局、その化け物とやらに巡り会わなかったがな。彰は巡り会ったということだのう」
「他にさ、誰か出会した人いるのかな?」
「聞かんなー、わしの周りには居らんの」
「そう……」
彰は気のない返事をした。
「じいさん、あんまり世間離れしたこと言うて、彰を脅してどうするね。彰さん、本気で聞かんことよ」
「うん、分かってるよ」
〈しかし、本気で聞かなきゃ、こっちは現実に出会したんだからな。じいちゃんに頼るしかないんだな。ばあちゃんには悪いが、じいちゃんに頼るしかない……〉
息子たちが使っていた部屋で、せんべい布団を引いてもらい寝ることにした。まだ夜の十時過ぎだが、年寄りは寝るのが早い。釣られた訳じゃないが、二人に合わせた。なんせ居候だ。テレビを見る訳にはいかないので、布団に潜り込んだ。寂しいので、ウォークマンで紛らわせた。
しばらくは寝つきが悪かった。エグザイルの曲を聴きながら、今日の出来事を思い出していた。目を瞑ると、軽快なダンスミュージックに静かに瞼を躍らせた。化け物の顔を思い出した。
〈あいつ、狸か……?〉
狸が化かすという昔からのお伽話、現実に出会した。
悪戯だ! じいちゃんはそう言った。訳が分からん。あの顔が……、裂けるような大きな口、あれは笑ってたな、おちょくられたんだろうな。耳元まで大きく裂けそうな口、目は同じ耳元まで広がる。太く丸い顔はでかい、重たかろうに……。子どもの身体でよく支えられたな。奇怪な顔とスタイル。思い出すだけで身震いする。掛け布団が震えをしっかり守ってくれる。欠伸が出る。これくらいの口の開け方じゃ、あの化け物の足元にも及ばない。くだらない事を考えた。また欠伸をしながら、狸の顔を思い出していたら眠気が襲ってきた。
「近田、どうだ。制裁を受ける気になったか」
「あの若い刑事さんか。僕もね、早く本当のことを知りたいんですよ」
「知りたいか?」
石田班長に任されて、近田の尋問に入った。なんか、昨日から自分であって自分でないような言動。狸に化かされてんのか? と思うことも、俺かいな? と、物事が煮え切らない。しかし、近田に尋問することを任されたことは事実だ。
彰は、〈のらりくらりでやってみるか〉と、腹をくくった。石田班長たちのように、上から目線を気にしなくていい気楽さは、不思議なくらい雲の上にいるようだ。
「近田宏之!」
「名前まで呼んでくれるの? 嬉しいね。田口さんって言ったっけ、気が合うね」
「そうか、そんなに気が合うか。で、俺だけには本当のことを言ってくれるかな」
「もちろんさー」
完全におちょくられてきた。
〈こいつは、お仕置きしないと分かりそうにないな〉
彰は、お仕置きの文字が皮膚から身体中に染み渡った。
「じゃ、本当に彼女を殺めてないんだな」
「そうだよ。田口さん、無実を証明してよ」
彰は、おちょくった物言いにむかむかしてきた。
「そうかいそうかい」
身体中がぐんぐん熱くなってきた。
「どうしたんですか、田口さん?」
舐めた言い方をしてきた。
「えっ、顔が、大、大きく!」
近田宏之が初めて狂者を抜け出した、人間として正道を歩む驚くべき顔で、「な、なんなんだ、あんた!」と、座っている椅子と一緒に後退した。
彰の顔は大きくなり、口も大きく耳元まで広がり、目も広がった。
近田の座った椅子は、後退の勢いでバタンと倒れた。彰の化けた顔は、ニヤリとした。大きな歯は輝き光った! 近田は、倒れた椅子に躓き、よろよろと両手を広げて壁にへばりついた。
「どうしたぁ、近田……、おまえは……無実なんだろう」
長ったらしく、近田をおちょくった言い方で、化け物彰はぐっと近田に近づいた。
「そうだ、僕はやってない! やめろ!」
近田は、それ以上近づくなと、手を広げて遮ろうとした。
「おまえは、あの子を刺し殺したんだな」
「冤罪だ! べ、弁護士を呼べ!」
近田は声を張り上げた。
「人間、同じ目に遭わないと、痛みや苦しみは分からないんだよ。そんなに白を切るなら……刺してやる」
「だ、誰かいないのか! この化け物を止めてくれ!」
「誰も来ないよ。おまえが死んでくれたらスカッとするんだよ。女の子の親もさ、泣いて喜ぶだろう!!」
〈なんて響く声なんだ!〉
近田は、耳元で叫ばれている感じを受けた。
「女の子を二十ヶ所も刺したそうだな! 二十ヶ所刺してやろう!!」
近田は耳を塞いだ。
「塞いだって聞こえるんだよ……地獄の声だからな!!」
薄気味悪く囁かれた。
化け物彰は、張り裂けそうな口を開け、でかい前歯、巾だけでも五センチはありそうな、その一本の歯に手をかけ、薄ら笑いを浮かべて、ゆっくり引き抜きだした。
「うわっー」
近田宏之の定規で図られたような法律と人権。死人に口なし! 生きていれば自由にできる。民主国家が守る悠然なる態度は、化け物の前では“無”なのだ。
抜き出してきた歯は段々と細くなり、長さ三十センチはあった。抜き出した歯茎から、血が滴り落ち始めた。最後に完璧に抜けた、細い歯が出てきた時には、ドロドロとどす黒い血が流れ出ていた。
「うぅうぅうぅー」
何とも情けない声で、泣きっ面を見せてきた。近田は壁にへばり付いた。
「僕はやってない」
「ここまで嘘がつけるか!」
彰は、血がたっぷりの唾を近田に吐き捨てた。
動けない、本当に怖いと動けない。化け物彰の後ろに見える、取調室を出るためのノブが……、近田は、身体が動かず手だけを伸ばした。その腕に化け物の歯が突き刺さった。
「げぇー! 痛えー」
近田宏之は、痛さのあまり泣き出した。
「やめろ!」
振り絞った声は、化け物彰には笑い声に聞こえた。一刺し、長い歯は近田の右手首付近を突き抜けていた。
「助けてくれ、死んでしまう!」
壁にへばり付いた。
「死ぬ、死ぬ」と、踠く。
痛さのあまり、あろうことか、化け物彰の口付近を左手で押し退けようとした。化け物彰は、その手に大きな口でがぶりと食いついた。
「ぎゃーー!」
近田は喚きまくった。
「死ぬ!」と、叫んだ。
「近田、心配すんな、死にはしないさ。この痛さと耐えられない苦しみは、永遠に続くんだ。死なないように、俺が地獄に連れ込んだんだよ!」
「な、なんだって、痛いんだ、助けてくれ」
「助けられないんだよ! 永遠に苦しむんだ」
腕に刺した歯を抜き、今度は胸に刺した。
二刺し目、「ぐわぁー!」という叫び泣きとともに、痛さと苦しみで気を失いそうになった。
「気は失わないよ。ずっと苦しむんだよ!」
化け物彰は、胸に刺した歯をゆっくりと抜き、今度は、近田の首に突き刺した。
「ぐぅぐぅー」と、声にならない呻きを出した。
「痛つっっつ! 痛い! 痛っ!」
近田の顔が引き攣る。
「こうやって、あの子の首を刺したんだよ! これ、三刺し目!」
近田は、気が遠のいて来た。
「近田、近田!」
「うわぁー」
狭いベッドから転げ落ちた。
「助けてくれ!」
いきなり鉄格子を握りしめ、血相を変えて留置場の監視員に叫んだ。
「大丈夫か、おまえ?」
監視員もびっくりの発狂ぶりだ。
「おい、しっかりしろ!」
「……」
しばらく近田は、監視員をポカーンとした顔で見つめた。
「ハ、ハ、ハ、ははははははっ。なんだ、夢か。はははっ」
「悪い夢でも見たか? すっきりした方がいいぞ」
監視員もそれとなく、自供しろよと促した。
「フフッ」
また始まった。不敵な生命線を歩む男の微笑みが。
「申し訳ないでしょう。嘘の自供したら。あの子が可哀想でしょう、地獄で泣いちゃいますよ」
不敵に笑った。
笑いを受けた監視員は、「地獄?」と、思わず聞き返した。
「そう、あの子は地獄に堕ちるんですよ」
監視員は、ドキッとして身震いを感じた。
“こいつは人間じゃない”
腰に付けている警棒を確認して、帽子をいったん脱ぎ、髪を後ろへと整えて被り直した。
「早く寝ろ、また朝から取り調べだ」
「ふふん、楽しみですよ」
「……」
生唾を呑み込むほど、監視員は気味悪さの刺激を受けた。後ろを振り返らず戻った。後ろから、せせら笑う顔を感じた。
近田はまた眠りに入った。
「げぇ、なんでおまえがいるんだ」
「おまえとはなんだ!」
近田は、また、取調室の壁にへばり付いていた。
「化け物彰様と呼べ! まだ三刺ししか刺してないぞ!」
化け物彰は、大きな歯を抜きだした。
「わぁ、またか!」
「そうだよ、四刺し目はおまえの目だ!」
「ぐわぁー!」
近田の左目を刺した。
「うわ、うわっー痛い!」
近田はブルブル震えた。
「あの子の目を刺したんだよ! おまえはどうだ? どんな痛みだ!」
近田は痙攣を起こしだした。痛みは耐えられない。気が遠のいた! “死にたくない……”
近田は、「死ぬ!」と、苦しそうに気を失いかけた。
「おっと、気は失わないよ! ここは地獄だからね!」
「痛、痛、痛っーー」
まるで拷問にかけられたように、息絶えそうだ。
「おっと、また言わせるか!? ここでは痛み、苦しみはずっと続くんだよ! それが地獄だよ!」
大きな口を開け、化け物彰は、「くわっはははっ」と笑った。
近田は息荒く、「頼むからやめてくれ!」と、命からがら切望した。
「そうか! あの子も懇願しただろう、でも、おまえは刺した。喜んでな! だから俺も喜んで刺すよ! さぁ、五刺し目行くよ!」
「止めてくれ!」
「止めないよ。起きたらまた、ふてぶてしく取り調べを受けろ! そうしたら、おまえが目を閉じて寝ると、懲らしめに来られる! いいか、二十回刺した後、今度は釜茹での刑だ! 熱いぞ。その後は、針の筵に座らせて石段石を乗せていく……。楽しみだ! おまえが地獄に来るとホッとするんだよ。嘘をつけ! しらばっくれろ! 刑事をからかってやれ! ははっ、ハハハ、楽しいね!」
「止めてくれーー!」
近田の叫び声は、山彦のように響いた。
うっ!、彰は、掛け布団が跳ね上がるくらいの呻き声を上げ、目を覚ました。
〈無呼吸か……〉
ふっと時計を見ると、夜中の三時をまわっている。
〈ふうっ、まだ早えや〉
首筋にひんやりした汗をかいていたので、手で拭った。
〈待てよ、今、俺、近田を尋問してたな? えっー、あいつを痛めつけてたな!〉
うっ、身震いした。
〈あいつをナイフで、いや、でっかい歯で……。ぎょー、近田は俺を見て化け物って言ってたな……。まさか、俺が化け物に変身?〉
渇いた口の中、唾液を搾り出してゴクリと呑み込んだ。
〈くわばらくわばら、夢だ夢だ!〉
彰は、自分に言い聞かせた。はぁー、疲れをとるどころか、電信柱で打ったところが疼きだした。
〈なんてこった、とにかく寝るぞ〉
強く目を瞑った。
次の日の朝、ばあちゃんが作ってくれた朝ごはんを食べている時に、じいちゃんが散歩から帰って来た。いつもは、ばあちゃんと二人でするそうだが、彰の朝食の準備があるとかで、今日は一人で散歩したそうだ。
「彰、飯はうまいか」
そう言いながら、彰が座っている卓袱台の真正面に座った。
ばあちゃんが熱いお茶を運んできて、「じいちゃん、はい、お茶」と言って、卓袱台に置いた。
「彰も早起きして、散歩せんか。飯がうまいぞ」
じいちゃんの言うことは、もっともだと思ったが、「寝てた方がいいよ」と、自然と言葉が出た。
「それより、この暑い日にお茶なの?」
どうでもいいことを聞いた。
「おじいちゃんは、若い時からずっとお茶を飲み続けとるからのぅ」
「ふ~ん」と、気のない返事をした。
じいちゃんとの会話は、今、この歳になって楽しい。小さい頃は、一緒に遊んでくれてそれなりに楽しかったが、やっぱり欲しい物を買ってくれることの方が最優先だった。だが、今は違う! 今回は、特にその辺を感じている。化け物騒動も、結構リアルな雰囲気で受け答えしてくれるし、人生相談も笑い話を交えて、自分の恥さらしの部分も隠さず、堂々とさらけ出す。自分も歳をとって、孫でもできたら、こんなじいちゃんに成ろうと思ったほどだ。
「ところで、じいちゃん」
彰は味噌汁を啜りながら、「うめえー」と、ばあちゃんに言って、またじいちゃんに言い出した。
「昨日、夢見たよ」
ふうぅと、お茶を啜った。
「ほう、何の夢や」
また、じいちゃんはお茶を啜って、口の中でグチュグチュさせて飲み込んだ。
「それがさ、化け物になった夢だよ」
「化け物って、彰が見た狸か?」
「そう、狸かどうかは分かんないけど?」
彰は一応、付け加えた。
「ほう、そりゃ大したもんじゃ」
何が大したもんか分からなかったが、とりあえず聞いてみた。
「何が大したもんなの?」
「聞いた話だと、夢に出てきた人は、皆出世しているそうだからのぅ」
彰は、パクパクと食べていた箸を止め、「その出世している人のことは、じいちゃんは知らないんだろ」と、尋ねた。
「わしが小さい時に聞いた話で、それも、じいちゃんに聞いた話となると……百年も前の出来事ぞ。わしの時代には、聞いたことはない」
「ふ~ん、要するに知らないってことか」
彰は独り言のように呟いた。大好きな漬物をパクリと食べた。
「じいさん、あんまり訳の分からんこと言わんのよ」
ばあちゃんが、じいちゃんにご飯と味噌汁を運んできたついでに、チクリと忠告した。
じいちゃんはそれなりに、「分かった」と言い、言い返すことはない。円満の秘訣かな、と思ったりする。
それでも箸を持って、戴きますを言った後、懲りずに言い出す。
「彰、おまえがその化け物に出会わしたから思い出したんじゃ。お互い事実を語っとるんじゃからのぅ。わしのは何十年も前の話じゃが、彰は実際に現代で出会わしちょる。昔話も満更じゃないぞ。安心せ、悪い話は聞いちょらん」
ご飯をむしゃむしゃ食べながら、「そうやね」と、相槌をうった。
するとじいちゃんは、彰に近づいて、ばあちゃんに聞こえないように言いだした。
「狸は、悪戯で驚かせて、驚き方を気に入ったらご褒美をくれる、前にも言ったよな。だから、夢に出て来るということは、彰を気に入ってくれとると言うことじゃ」
そう言って離れて、ご飯に箸を持っていきニコリと彰を見た。彰も、和やかな頷きを見せた。そして最後の一口を口に入れて、ご馳走様を言った。
「さぁ、行くか!」
じいちゃんの話を聞いて、一気に不安感は吹き飛んだ。
署には昨日、挨拶に行っていたので、憂鬱さはなく部署に入れた。少し早めに出勤したつもりだが、徹夜明けの三人の刑事と、橋田が朝一番に出勤していた。
「おはよう、田口くん」
「おはようございます」
「大丈夫?」
頭の傷はまだ癒えてなく、額にでかでかと貼り付けている絆創膏を、和やかに優しく撫でてくれた。
「早かったな」
明けで、欠伸をしながら阿部刑事が微笑んできた。
「橋田さんのお気に入りだからな」
「何言ってんのよ阿部さん、セクハラで訴えるわよ」
「おー怖えー」
朝礼が終わるのを待つ、阿部たち三人の刑事は笑い、彰の快気祝いを演じた。
石田班長たちが続々と出勤してきた。誰もが、「彰出てきたか」、「大丈夫か?」と、声をかけてきた。最後に高橋課長が現れ、彰をチラッと見て、最前列に出てきて朝礼が始まった。
お決まりの訓話と、現在の金重署の検挙率の提示だ。県内、数多くある署の中で、検挙率はワーストクラスとのお達しだ。気合を入れられた。しかし、全国レベルの事件が東京で起き、その容疑者を、この金重署に留置している。警視庁が手を拱いている。確固たる証拠が掴めていない。よくあるやつだ! 犯人に間違いないが、決め手がない。
容疑者は、現代の平和で守られ、呪いをかけられたような、自分中心の自画自賛する現代病で、人間として実のない、血で血を洗うような男だ。今の状況では、逮捕状請求も難しい状態だ。世間も苛立っている。マスコミでは、警視庁の手ぬるい捜査に批判が出る始末だ。
ここで、高橋課長はニヤリとした。警視総監が署長に電話をしてきて、泣きついたそうだ。何とか自供に追い込んでくれ! 金重署の名を全国に轟かせる絶好のチャンスだ、頼むぞ!
なんと、いつもの朝礼より十分も長かった。ダレる、阿部なんかは、後ろから見て欠伸を我慢しているのが分かった。
朝礼が終わると、石田班長のもとに集まり、本日のミーティングだ。
「簡単に言うよな……」
石田班長のタメ口から始まった。
「あの天邪鬼が落ちる訳がない……。だが、とりあえずは課長が取り調べるそうだ。ふん、見ものだな」
「でも府警№1の落とし屋でしょう」
金沢刑事が、噂なのか真実なのか知りたがった。
「どうかな? 相手が、落としやすい連中が多かったからな。五年間、一緒の班だったが、殆ど俺たちが落とした。人の褌で相撲を取っただけだ」
皆、満更ではない顔をした。
「噂をすれば影が差すよ」
橋田が、皆に目の玉だけ動かし合図した。その時見せる橋田の顔が、彰は好きだった。目配せする時のスリリングさ、若い彰には格好良く見えた。
「さて、会ってみるか」
高橋課長の顔はやる気に満ちている。
「警視庁の坊やどもはまだか」
「もう見えられると思いますが」
「もう諦めたか」
「そういう訳じゃないと思いますが……」
橋田が丁重に答えたが、横から、「昨日、けちょんけちょんにやられましたからね」と、石田班長が横槍を入れてきた。
「そうか、来る前に落としてやるか」
「そうですね」
石田班長のヨイショと、ハハハ、と高笑いする高橋課長のトークを聞いていると、テレビドラマのダメ上司を見ているようだ。
「取調室に近田を連れて来ているか?」
「はい、いつでも出来ますよ」
石田班長は歯切れよく答えた。
「よっしゃ、行くか!」
自信満々だが、彰は、〈この自信たっぷりの様は、どっから湧き出て来るんだろう?〉と、奇怪な出来事のように感じた。
高橋課長は、近田が待つ取調室に石田班長と入って行った。彰は、透しガラスから、お手並み拝見といきたいところだったが、署長がお見えになるとのことだったので、「止めとこう」の一言で皆、納得した。
「貴様! 舐めてんのか!」
高橋課長は、近田の胸ぐらを掴んで、今にも殴りかかりそうだ。
「ははは!」
近田の不敵な笑いだ。
「どうぞ、殴ってください。課長さん、無実の僕を殴って、人生そしてあなたの家族も地獄に堕ちればスカッとするよ」
「この野郎!」
高橋課長の湯気が出るような興奮を、必死で石田班長が宥めた。
「課長!」
本当に殴りそうな勢いを、石田班長は羽交い締めで抑えるのが精一杯だった。ここで媚びを売っておこう程度の軽い気持ちで止めに入ったが、半端じゃなかった。
呪われてる! と思えるくらい、顔つきが違った。署長が見ていることは知っているはずだ。近田はやっぱりおかしい! まともな男で、精神も異常ではないが、突然変異した新種な生き物に見える。こんな野郎が、今から増えそうだ。
署長を含めた皆の思いは一緒だった。
「こんな奴は初めてだ。警視庁の坊やでも落とすのは無理だろう。どうしたもんか、総監に泣きつかれたからな……。泣きっ面に蜂だな」
「僕に任せてください」
ええー、声こそ出さなかったが、署長も課長も班長も振り返った。
「田口!」
「焦れったくて、来てしまいました」
驚異の目で見られた。彰は橋田たちと談笑して、気にはなっていたが、引っ張られるようにここに来た。
「……」
一瞬の沈黙から、石田班長が彰を持ち出した。
「署長、田口に任せてみましょう!」
〈大丈夫か? 若造に……〉
顔を見ただけで、言いたいことは分かった。
「結構、気が合ってるんですよ」
石田班長の上申に、署長は頭を掻きながら考え込んだが、打つ手なしかの表情で、いいだろうと妥協した。
「よし、田口やれ!」
彰はニヤリとして、「やらせてもらいます」と、取調室のドアを開けた。
近田は、彰の顔を見て怪奇な顔をした。嘘発見器で、動揺の針さえ動かさない冷血さをさらけ出す男だが、彰を前にして、不敵な笑いさえ忘れた。
「近田さん、期待に応えてやって参りましたよ!」
彰の不敵な笑いは、近田を雁字搦めにするほどの不気味さとして伝わって来た。
「おまえ、自供するなら、今ここでした方が苦しまなくて済むぞ!」
「何言ってるんだ?」
署長は石田に聞こえるか確認した。
「ちょっと聞こえませんね。口をパクパクしてるんで」
「近田の顔が青くなっているな」
石田班長の返事を最後まで聞かずに、署長が腕組みをして独り言のように呟いた。
「どうした近田さん、何とか言ったらどうだ!」
彰は、自然と出る近田を呑み込むような物言いに、ひとかけらの驚きもなかった。頭の中は、金縛りにあったように、ぶれることはない。俺であって俺じゃない、そのことだけが頭を過った。
「あんた、俺に催眠術をかけてるんだろう」
近田が最初に発した、彰を揶揄する言葉だ。
「はっはっはっ」
彰は近田をバカにして笑った。
「まだそんなこと言ってんの?! それじゃ、すぐ始めようか! おまえさんの処刑を!」
「な、なんだって……や、やめろ!」
近田の跼天蹐地な姿に、署長たちは驚いた。
「おい、あの近田が怖がってるぞ」
署長は、「どういうことだ?」と、高橋、石田を覗き込んだ。
取調室では、首を傾げた彰の顔が化け物の顔に……、太い歯を抜き、「さて、六刺し目かな! 今度は片方の目だ!」と、近田に詰め寄った。近田は取調室の壁に蹲った。
「わっ、分かった、しゃ、しゃべる、すべてしゃべる、止めてくれ!」
「ふっふふ、この出来事を叫び泣きしても、誰も信用しないぞ! いつまでも知らばっくれてくれ! 俺はその方が楽しいけどな!」
近田の鼓膜まで響く、不気味な彰の声。
「言う、言うよ、だから止めてくれ!」
「おい、何を言ったんだ? 田口は?」
声を揃えた、署長と高橋は驚きだ。
「あいつ、素直に自供したら楽になるぞって、言っただけですよ」
石田班長は、呆れた声を出した。
「さて、そろそろ釜茹でを楽しみたいね! 火傷で死にそうになるよ! でも、死なない、気絶もしない、地獄だからね!」
「わぁーー、助けてくれ! す、す、すぐに話す! 刑務所でもなんでも入れてくれ!」
「ハハハ、はははっはははっー!」
彰の、いや、化け物彰の笑い声は、近田にだけ山彦のように響いた。
「おい! やったぞ」
署長がしたり顔を見せ、高橋課長と石田班長に微笑んだ。
「やりやがった、田口の野郎!! 昨日の俺の見立ては正しかった」
石田が勝手な自賛をしている間に、取調室から彰が現れた。
「あのー、自供するそうですけど……」
いつもの自信なさを表して、署長たちに報告した。
「でかしたぞ、田口くん!」
署長は、本部長の席が目に浮かんだ。
「いやいや、大したもんだ田口!」
高橋課長は、めったに部下を褒めることはない。「給料泥棒が!」のパワハラ言葉しか記憶にない男だが、近田に対してよっぽど血が上っていたのだろう。
彰は、三人の喜んでいる姿をよそに、頭を巡らした。
〈あの化け物、いや狸か? よっぽど嬉しかったんだろうな、俺の驚いた姿。昔話も満更でもないな〉
「痛ぇ!」
ぶつけたおでこがズキンときた。
手で押さえて、「良かったね、狸さん」と、微笑んで呟いた。
完
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