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「是枝部長」
呼ばれて顔を上げると、二課の課長が立っていた。手には分厚いファイル。
彼は五十代半ばのバツイチで、昔はバリバリの営業マンだったらしいが、離婚と担当営業先の倒産が重なって以来、すっかり大人しくなってしまったという。
「どうしました?」
「ご相談がありまして」
「はい」
「社内の消耗品に掛かる経費について、来月の全体会議で報告することになっているんですが」
「はい」
四半期に一度、全支社の部長以上を集めた全体会議がある。とは言っても、実際に全部長以上の役職者が集まれるはずもなく、大体いつも半数ほどがこの札幌本社に集まる。
毎回、会議終了時に次回会議の議題が決められ、それに沿った報告書なり資料なりを作成し、提出する。
来月の会議では、社内の経費削減が議題の一つになっている。その為に、総務部で作成している備品や事務用品の発注書のデータと、各部署での使用状況を取りまとめ、経費削減案を作成することになっている。
「……未入力の伝票がありまして」
「はい?」
「詳しい経緯はわかりませんが、郵送で届いた請求書と領収書がファイリングしていただけで、データ化されていませんでした」
「え? そんなこと、あります?」
「はい。それで、領収書のデータを入力しなければならないのですが、内訳の仕分けがされていない領収書なので、納品書から仕分けしながらの入力になります」
「昨年度の決算報告書はどうしたんですか?」
「決算報告書は仕分けの必要がないので、領収書の金額を合算したそうです」
そんなんありか!?
いや、あるか。
総務部長は定年間際のアナログ人間で、パソコンも必要最低限の操作しか出来ないって聞いたしなぁ……。
今でこそ、勤怠記録や経費精算、出張申請なんかは完全電子化しているが、つい数年前までは手書きも認められていた。そのせいか、まだまだ完全電子化、データ化には至っていない。
「そこでご相談なのですが、この入力作業を柳田さんにお願いできないでしょうか」
「柳田さん? 松原さんは無理ですか?」
「かなり時間がかかるでしょうし、なにより、柳田さんは総務部所属ですので、物品の仕分けは簡単かと思いまして」
総務部とは言っても社食と清掃だけど、と思った。
課長は大事そうに領収書が綴られたファイルを抱えている。
「総務にはお願いしましたか? 本来は総務の――」
「――それが、基山さんが随分と迷惑をかけているようで、逆に柳田さんを返して欲しいと泣きつかれました」
基山が総務に行って、まだ三日だ。
作業着……だろうな。
「わかりました。預かります」
言うや早いや、課長は持っていたファイルを俺に押し付けるように差し出すと、お役御免と言わんばかりに後退った。
「ありがとうございます」
そそくさと自分のデスクに戻る。
柳田さんが来るまで、あと三十分。
俺は分厚いファイルを前に、フンッと気合を入れた。
翌週、月曜日。
総務部長に呼び出された。
理由は当然、基山。
早くなんとかして引き取ってくれと、泣き疲れた。
朝の清掃業務に来てはいるが、作業着を着たくないという我儘を貫き、折衷案として『清掃業務に相応しい、華美ではない動きやすい服装』を許可したという。その結果、基山は黒にピンクのロゴが入ったスウェットで現れた。六十代前半のベテラン清掃員の女性が目を丸くしたのは言うまでもない。が、ピンクのロゴが華美かどうかは別として、黒のスウェットは確かに動きやすい服装だ。
で、ちゃんと清掃業務に励めばそれで良かった。
が、そうはいくはずもない。
雑巾を絞ったことも、トイレ掃除をしたこともないお嬢様育ちの基山が出来ることなどなく、結局、基山がやったのはモップ掛けのみ。モップは足でレバーを押すと水切りが出来るから、手を使わなくていいのだ。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
俺が謝るべき案件なのかと疑問はあったが、そこは大人の対応で頭を下げた。
はぁ、どうすっかなぁ……。
作業着が嫌でさっさと辞めてくれると思ったが、甘かったようだ。
俺はガシガシと頭を掻いた。
癖のある髪が、跳ねた。
跳ねを撫でつける。
溝口さんの調査が終わって、俺のハラスメントが事実無根とわかれば、基山は本社にはいられなくなる。
それを知った上で俺を訴えたかは知らないが。
めんどくせぇ……。
「――ったく、めんどくせぇな」
心の声が漏れたのかとハッとし、顔を上げた。
エレベーター横で壁に寄りかかり、腕を組んでいたのは、溝口部長。
「お前、顔に出し過ぎ」
「え?」
「めんどくせぇのは俺だっつーの」
壁を離れ、俺の正面に立つ。
「あ、調査委員長のことですよね。お忙しいのにご迷惑を――」
「――念のために聞いておくけど、お前を訴えた女に触ったことはないな?」
「え?」
溝口部長は内ポケットから折りたたんだ紙を取り出すと、広げた。そして、それを見ながら言った。
「仕事を頼む時に肩に手を置く、髪型や服装を褒める時に髪や衣服に触れる、指導時に身体を密着させる、マウスを持つ手に自身の手を重ねる……、身体的な特徴、カッコ痩せた、太った、胸が大きい、足が細い等カッコ閉じ、について言葉、もしくは身振り手振り等で表現した」
読みながら、部長の眉間の皺が深くなり、目つきも鋭くなっていく。もちろん、口調は面倒臭そうな棒読みだ。
「年齢、結婚、恋人の有無等について、直接的、又は間接的に回答を強要した。本人の許可なく、名前カッコ姓名の名カッコ閉じで呼んだことがある。本人に向け、名前ではなく『おい』『お前』等の本人の人格を否定していると認識される恐れのある――って! なんだよこれ! 名前ど忘れして『あ、おい、ちょっと』とか言っちまうことあるだろ!? それもハラスメントかよ!?? 悪かったな、物覚えが悪くて!」
溝口部長は紙を丸めてポケットに押し込んだ。
俺は、苦笑いしかできない。
「だーっ! 面倒臭せぇ!! よしっ! 本人に聞くか」
いや、聞いたって素直に認めるわけがないでしょう。
「是枝!」
「はい」
「とにかく、お前はその女には触ってねーな?」
『その女』は、アウトだと思った。が、今は置いておこう。
「はい」
「わかった。じゃ、後は任せろ」
「……はい」
何をするつもりだろうと考えた一瞬、返事が遅れた。
溝口部長はそれに気付いたようだが、何も言わなかった。
逆に、俺が言った。
「よろしくお願いします」
信頼する、と言えるほど部長のことは知らない。
谷が全幅の信頼を寄せているから、大丈夫だろうとは思う。
部長の背中を見送り、俺はデスクに戻った。
とはいえ、こんなに早く状況が変わるとは思っていなかった。
溝口部長と話した翌日。
基山が俺への訴えを取り下げた上、退職願を提出した。
「お前のお気に入りに手伝ってもらったんだよ」と、事情を聞きに行った俺に、溝口部長は言った。
「お気に入り?」
「ああ。柳田椿」
「なんで柳田さんが――っ、それよりも! 彼女に何を手伝わせたんですか?」
溝口部長が柳田さんを、俺のお気に入りと表現した理由が気になったが、まずは基山の件を聞くのが先だと思った。
中村部長から基山の退職を聞いて飛び出してきたが、打ち合わせの時間が迫っていた。
「基山にお前のことを聞いて貰ったんだよ。あの子、いいわぁ。頭の回転が速くて、話が分かる。基山が専務の口利きで入社したのは知ってるか?」
「コネ入社としか知りませんでした」
「専務の友達の娘なんだと。就活に失敗して泣きつかれて、仕方なく引き受けたらしい。で、その専務と、人事部長と総務部長、俺がすぐそばにいると知らずに、ペラペラ喋ったよ。お前にフラれた上にみんなの前で叱られた腹いせだ、とか、受付か秘書がやりたかったのに専務が気が利かないから地味な事務に回された、とか。専務がキレちゃってさぁ、大変だったよ」
温厚な専務がキレるとは、基山がどんな言い方をしたのか知りたいような知りたくないような。
「とにかく、基山が辞めて全部お終い! いやぁ、良かったな?」と、溝口部長が俺の方を叩いた。
「……はぁ」
「なんだよ。面倒事が片付いて良かっただろ?」
「そうですけど! けど、柳田さんを使うとか――」
「――すげー協力的だったぞ? 世話になってるお前の役に立つならなんでもやるってさ」
柳田さんが……?
「基山がお前のこと、運が良くて部長になれたからって調子に乗ってる、って言った時も、すげー怒ってたし」
「怒って……?」
「ああ。『実力がなければ運を生かすことも出来ない。実際にやりがいのある部署で、優秀な上司の元で働く幸運に恵まれたにもかかわらず、あなたはそれを無駄にした。是枝部長が若くして責任ある立場にいられるのは、部長の努力や人柄があってこそであって、運はおまけのようなものだ』とさ。あそこまで言われちゃなぁ。惚れるよなぁ」
俺は緩む口元を手で押さえ、顔を伏せた。
だらしない表情《かお》をしている自覚はある。
嬉しすぎてニヤけるのを抑えきれない。
「いいなぁ。あんな風に絶対的な信頼? 尊敬? されてみてぇわ」
俺の反応を楽しむように、無駄にイントネーションに強弱をつけた声に、俺はますます顔を上げづらい。
「いるじゃないですか。溝口部長を信頼して尊敬してる部下が」
横から別の声がして、チラッと目を向ける。
谷だ。
「嘘くせぇ」と、溝口部長が唇を歪ませて言う。
「年下の女性の部下に、信頼されたい、尊敬されたい、憧れられたいってボヤいてたって、奥さんに言いつけますよ」
「信頼して尊敬する上司を脅迫か!?」
「まさか。信頼して尊敬する上司に愛のメッセージのお届けです。奥さんから電話があって、携帯に折り返して欲しいそうです」
「それを早く言えよ! じゃな、是枝」
溝口部長はスーツのポケットからスマホを取り出しながら、足早に遠ざかって行った。
「よかったな、是枝」と、谷が俺の肩を叩く。
「ん? ああ」
「信頼と尊敬の次は愛情を持ってもらえるように頑張れよ」
「はっ!?」
「惚れてるだろ?」
「……」
違う、とは言えなかった。本能的に。
好意を持っている、のは認めざるを得ない。
「とりあえず、協力してもらったお礼ってことで、食事に誘え」
「ああ」
幾度となく遠慮されてきたが、今度こそは。
「なんとなくだけど、あの子には少し強引でストレートに攻めないと、わかってもらえなそうだな」
「ああ」
今までの誘いも社交辞令とか気遣いだと思われていた気もするからな。
「結婚を前提に付き合って欲しい、くらい言わないと伝わらないかもな」
「ああ」
そこまで言えばさすがに――。
ん?
結婚!?
顔を上げると、谷のしたり顔。
「何でもそつなくこなすお前が手こずるとか、激レアだな」
「お前が思ってるようなもんじゃ――」
「――ま、とにかく! 彼女を総務に連れ戻されないように頑張るんだな」
そうだ。
基山が退職した今、柳田さんが経営戦略企画部《うち》に居続ける理由はない。
俺は挨拶もそこそこに、人事部に走った。