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午後三時。
柳田さんは五分前には着席し、総務部の未入力伝票を打ち込んでいた。
基山のことどころか、俺には挨拶をしただけで会話はない。
『是枝部長が若くして責任ある立場にいられるのは、部長の努力や人柄があってこそ』
彼女の声で聞きたかった。
柳田さんは初対面の時から、随分と俺を評価してくれていた。
なにせ、拝ませてくれと言うくらいだ。
『どんなに運が良くても、それを生かせるかは努力次第だと思います』
あの時もそう言っていた。
惚れるだろ、そりゃ……。
俺はデスクに肘を立て、掌を額に当てて項垂れた。
「大丈夫ですか」
隣の席から声をかけられ、肘を下ろす。
柳田さんが、手をキーボードから数ミリだけ浮かせて、俺を見ていた。
「体調不良でしょうか」
眼鏡の奥の碧い瞳が俺を映している。
その瞳をじっと見ると、眼球が僅かに動いた。
「いや、大丈夫。ありがとう」
口角を上げて答えると、彼女の顔はディスプレイに向かった。
残業時間まで待つか。
柳田さんは当然のように残業をしていた。
午後三時からでは仕事が終わらないのが大きな理由だが、それだけではない。
柳田さんは、総務では社食業務終了時に退勤し、清掃業務開始時に再び出勤扱いになっていた。総勤務時間のうち、八時間を超えた時間は残業手当が加算され、更に午後十時以降は深夜手当も加算されていた。
借金返済のためにも就業規則で定められている時間外勤務ギリギリまで働きたいと、始業前清掃を引き受けることもあったらしい。
そもそも、彼女が俺の誘いを断った時も、給料について話していた。
だから、経営戦略企画部《うち》を手伝うことで給料が減っては、彼女にメリットがなくなってしまう。
実際に仕事は山ほどあるし、どうせ俺は残業しない日はない。
二人きりの残業が日常となりつつあった。
「今日はもう、帰らないか」
終業時刻を一時間ほど過ぎた頃、俺は言った。
「飯でも食いながら今後のことを――」
「――すみません、気が付かなくて! おにぎり、今日は――」
「――いや、そうじゃなくて! あ、うん。おにぎりは嬉しいんだけど、今日は俺にご馳走させて欲しくて。基山のこと、溝口部長に聞いたよ。面倒なことに巻き込んでしまって、申し訳――」
「――滅相もありません! 私は――」
「――ストップ!」
柳田さんは、緊張したり興奮したりすると、ガチガチの敬語を早口でまくし立てる。
その上、多分、相手の言葉を額面上でしか受け取っていない。
しっかりしていそうで、うっかりと言うか突っ走るタイプなのは危なっかしい。
ともかく、このままじゃ俺の言いたいことの半分どころか十分の一も伝わらない気がした。
俺の制止に、柳田さんは声帯を休めた。
「聞いて欲しい。俺は、柳田さんと一緒に食事がしたい。職場ではなく、プライベートで話がしたい。理由がなければ受け入れてくれないだろうと、お礼だと言い続けてきたけれど、お礼半分、下心半分でした」
『あの子は少し強引でストレートに攻めないと、わかってもらえなそうだな』
谷の言った通りだ。
俺の言葉に、柳田さんは素早く瞬きをするだけで、遠慮や謙遜の言葉はない。
相当、驚いているようだ。
頭ん中じゃ、色恋以外の理由に結び付けようと必死っぽいけど。
「俺、人と飯を食うことに慣れていなくて、食事自体適当で。だけど、柳田さんからおにぎりを貰って、一緒に食べた時、すごく美味いって、しみじみ思った。ここで、仕事しながらだけど、きみと飯を食うのが楽しみになったんだ」
碧い瞳を見つめると、フッと逸らされた。
唇を震わせ、眼球が左右に揺れる。
「俺と一緒に飯に行くのは嫌かな。俺の立場とか抜きで、正直に言って欲しい」
柳田さんの瞳が、俺を写す。
頬や耳が赤くなっているのは、見間違いじゃないだろう。
もうひと押しだ!
俺は少しだけ彼女との距離を縮めた。
「俺は、もっときみのことが――」
「――身に余るお言葉、ありがとうございます!」
ブンッと頭を下げられ、俺は思わず身を引いた。危なく顔面に頭突きを食らうところだった。
「尊敬する是枝部長にそこまで言っていただけるなんて、感無量です」
「いや、そんな――」
「――お食事のお誘いも、とても光栄です。ですが、大変申し訳ないのですが、今は何かと立て込んでおりまして、気持ちに余裕がないといいますか、退勤が許されるのであれば、立ち寄りたい場所がありまして――」
「――ストップ!」
話しながらどんどん腰を折っていく彼女のつむじに向かって、言った。
彼女のペースを乱すのは、一筋縄ではいかないようだ。
「はいかいいえで、答えてください」と、抑揚のない口調で言った。
「え?」と、柳田さんが顔を上げる。
「俺に食事に誘われるのは迷惑ですか」
「ま、まさかっ! そんな――」
「――はいかいいえで答えてください。俺と食事に行くのは嫌ですか」
「……いいえ」
「経営戦略企画部の仕事は嫌ですか」
「いいえ!」
「日を改めたら一緒に食事に行ってくれますか」
「……はい」
俺は肩の力を抜き、ふっと息を吐いた。
「ありがとう。じゃあ、食事は来週にでも改めて誘うよ。それから、俺はきみにこのまま経営戦略企画部《うち》で働いて欲しいから、人事と総務と相談して決めたい」
「はい」
想像とは大きくズレたが、とにかく柳田さんの気持ちは聞けた。
今日は、これで良しとしよう。
「ん。じゃ、今日は帰ろうか。行きたい場所があるんでしょ?」
俺も仕事をする気分ではなくなってしまったから、帰ろうとパソコンをシャットダウンする。
「ありがとうございます。ウィークリーマンションの契約に行こうと思いまして。明日の予定でしたが、今日中に契約できれば、土日で荷物を運べるので――」
「――ウィークリーマンション?」
「はい。アパートの取り壊しが決まりまして」
そうなるだろうとは思っていたが、こんなに早く決まるとは思わなかった。
「そんなにすぐに出なきゃいけないの? 次のアパートを探す時間くらい――」
「――私以外の住人の方たちは、割と早い段階で諦めて退去したんです。老朽化もそうですけど、私一人の為に修繕は出来ないと――」
「――一人!? アパートに残ってるの、柳田さん一人なの!?」
「はい。大家さんは一カ月以内にと言ってくれたのですが、さすがにあのアパートに一人は、あまり居心地が良くなく――」
「――当たり前だろ!」
ガタンッと勢いよく立ち上がる。
「あのアパートに一人だなんて、何かあったらどうするんだ!」
フロアに声が響く。
カタンッと物音がしてその方向を向くと、作業着の男性が立っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「廊下と給湯室の掃除をしたら――」
「――いえ。帰るところなので、ここの掃除もお願いします」
そう言うと、俺は柳田さんのパソコンもシャットダウンし、ジャケットと鞄を持った。
「帰ろう、柳田さん」
「あ、はい」と彼女も立ちあがる。
「やなちゃん、お疲れ」
「お疲れ様です。お先に失礼します」
柳田さんは男性に頭を下げ、俺の後に続いてその場を後にした。
考えるより、行動していた。
俺は戸惑う彼女の先を歩く。
社屋を出て、いつか彼女を追って歩いた道を進む。
「あの、是枝部長! ウィークリーマンションの管理事務所はそっちでは――」
「――住む場所、俺が紹介するよ」
「え?」
「きみはアパートに帰って、持てるだけの荷物をまとめるんだ」
「え? え?」
「いいから、言う通りにして」
「ですが――」
「――上司命令! 残りの物は明日取りに来るから、とりあえず一泊分の荷物でもいい」
脇目も振らずに大股で歩き続け、柳田さんはその後を小走りで続いた。
歩きながらも柳田さんは俺を説得しようと色々話していたが、俺はほとんどをスルーして歩き続けた。
およそひと月振りに訪れた柳田さんのアパートは、部屋の明かりが一切ないせいで不気味な佇まいだった。自販機の照明までチカチカと点滅していて、肝試しにはぴったりの廃墟と化している。
「ここで待ってるから、早く荷物をまとめてきて」
何を言っても取り合わない俺に諦めたのか、彼女は何も言わずに部屋に上がって行った。
そうして、わずか十分ほどでボストンバック二個を抱えて戻って来た彼女を、俺は自分のマンションへと連れ帰った。
「今日からここで暮らしてくれ」
柳田さんの碧い瞳がより一層大きく開かれていた。
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