高校二年の春。藤本はるとは、今日も派手に転んだ。
「いってて…」
階段から落ちた拍子に、抱えていた大量のプリントが舞い上がり、ちょうど通りかかった先生の顔に張り付く。
「藤本!またお前か!廊下を走るなと何度言えばわかる!」
「す、すみません…」
高校に入学して以来、はるとの日常はこんな調子だ。朝は寝坊し、昼休みは購買の焼きそばパンを買い逃し、放課後は部活の用具を忘れて叱られる。全ては、あの**小学生時代の「呪い」**のせいだと、はるとは確信していた。
昼休み。はるとは購買で買い逃したパンの代わりに、自販機でジュースを買おうとした。すると、自販機の前に、小学生時代のクラスメイト、結城るなと金沢かりんの二人が立っているのが見えた。
「あ、るな!かりん!久しぶり!」
はるとが明るく声をかけると、二人の反応は対照的だった。
「は、はると!ひさしぶ…っ」
るなが笑顔を返そうとした瞬間、手に持っていたスマホが滑り落ち、水たまりにチャポンと音を立てて沈んだ。
「あああああ!私のスマホがぁ!今日買ったばかりなのに…!」
るなは絶叫し、涙目になった。
「…ほら、るな」
かりんは冷たい目でスマホを見下ろし、そしてはるとに視線を移した。
「あんたに近づくからそうなるのよ、疫病神」
「え…」
「私はあんたとは話さない。巻き込まれたくないから」
かりんはそう言い放ち、るなの腕を引っ張ってその場を立ち去った。
はるとは、その背中を見送りながら、ズンと胸が痛くなった。呪いは、自分だけでなく、大切な友人たちにも不幸を振りまく。それが、この呪いの最も厄介なところだった。
「…くそっ」
はるとは誰もいない廊下で悔しそうに拳を握った。
「また、アイツの仕業か…!」
はるとの足元に、青い影が揺らめいた。誰にも見えないはずのその影が、はるとには、半透明で輪郭のぼやけた一人の少女に見える。
青い子(呪いの正体):「…仕方が、ないでしょう。私は、あなたを不幸にするために、ここにいるんだから」
青い子はそう囁いたが、その声は、どこか悲しげだった。
「ふざけるな!俺を呪って、お前は何が楽しいんだ!」
青い子:「楽しくなんかないわ。でも…呪わないと、私は、あなたのそばにいられない」
彼女がそう言った瞬間、はるとの頭上から、古びた換気扇のカバーが落ちてきた。ガシャン!と大きな音を立てて床に散らばった鉄の破片。あと一歩、動くのが遅ければ、大怪我をしていたかもしれない。
はるとは青い子を睨んだ。
「…今の、わざとだろう?」
青い子:「……ええ、そうよ。あなたを…遠ざけたいから」
その日の放課後、はるとは屋上へ向かった。青い子に邪魔されない、誰もいない場所で話をするためだ。
「なぁ、青い子。いい加減、この呪いを解く方法を教えてくれ」
屋上の端で、はるとは青い影に向かって問いかけた。青い子は、欄干に寄りかかるようにして、寂しげに空を見つめている。
青い子:「解き方なんて、ないわ。私があなたを呪うのをやめるか、あなたが私を心から愛するか、どちらかしかない」
「はぁ?愛する?冗談だろ」
はるとは思わず笑ってしまった。姿も見えない、自分を不幸にする存在を愛せなんて、無理な話だ。
青い子:「…そうね。無理だわ」
青い子はそう言って、ふっと視線を落とした。
「ところで、るなとかりんのこと、どうにかしてくれよ。二人が俺のせいで不幸になるのは、もう嫌だ」
青い子:「あれは、あなたが私から離れるための、自動防御装置みたいなものよ。あなたが誰かと親密になろうとすると、その人に不幸が訪れる。そうすれば、誰もあなたに近づかないでしょう?」
「つまり、俺が一生孤独でいるしかないってことか!」
「そうよ!」
青い子の声が、初めて強く響いた。彼女は、悲鳴のような声で続けた。
青い子:「孤独でいれば、あなたはこれ以上、誰にも傷つけられない。…私が、あなたを傷つけるだけで済む」
その時、屋上のドアがガラッと開いた。立っていたのは、金沢かりんだった。
「あんた!こんなところにいたのね!」
かりんははるとを見つけると、険しい顔で近づいてきた。
「…さっきはごめん。るなが、スマホのことでかなり落ち込んでて。八つ当たりみたいな言い方しちゃった」
かりんは、口調こそ冷たいものの、珍しく謝罪の言葉を口にした。
「いや、いいよ。実際俺のせいで…」
「よくないわよ!ほら、るなが、あんたにこれ渡せって。今日買ったらしい、新しいメロンパン」
かりんが差し出したのは、袋に入った真新しいメロンパンだった。
「…ありがとう」
はるとがメロンパンを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。
ドシンッ!
屋上の換気塔から、大きな鳩の巣が落下し、かりんの頭に直撃した。
「きゃあああ!」
かりんはその場に崩れ落ち、頭は泥と枯れ枝まみれになった。
「か、かりん!」
はるとは慌てて駆け寄った。かりんは目を丸くして、混乱と怒りが入り混じった表情で立ち上がった。
「…また、あんたのせいよ!私の、髪が…っ!今日の夜、大事なパーティーがあるのに!もう、絶交よ!一生、私に近づかないで!」
かりんは涙目になりながら、はるとを突き飛ばして屋上を飛び出していった。
残されたはるとは、メロンパンと、鳩の巣の残骸を交互に見つめた。そして、隣にいる青い子に向かって、怒鳴った。
「…おい!今の、やりすぎだろ!」
青い子の姿は、いつもより青く、濃くなっていた。彼女は静かに言った。
青い子:「…彼女が、あなたに優しくしようとしたからよ。あなたが傷つくくらいなら、周りのみんなが不幸になればいい。それが、この呪いの本質」
「ふざけるな!」
はるとが叫ぶと、青い子は一瞬で、まるで青い光の粒子のように砕け散った。そして、代わりに、彼の背中に、そっと触れるような温かい何かを感じた。
「…るな」
屋上のドアの影から、結城るなが顔を覗かせた。その手には、泥だらけになったかりんのメロンパンを拾ったのだろう、小さな袋が握られていた。
「…ごめんね、はると。かりんは、はるとのことが、本当は心配なの。でも、近づくとああなっちゃうから…」
るなの目には、涙が溜まっていた。
「るなまで…」
「私は、大丈夫だよ。スマホくらい、また買えばいいもん。…でも、はるとが一人でいるの、見てるの辛いよ」
るなは意を決したように、はるとのそばまで歩み寄った。呪いのことを知っているはずなのに、彼女は自分の不幸を恐れず、はるとに近づいたのだ。
そして、るなはそっと手を伸ばし、はるとの手を握った。
「小学生の時、はるとがみんなから避けられ始めた時、私、何もできなくて。だから…もう、離れないよ」
るなが、はるとの手に触れた瞬間。
ズシャアアアアア!
屋上につながる水道管が突然破裂し、二人に勢いよく冷たい水が噴き出した。二人とも、ずぶ濡れになった。
「…うそ!」るなは驚いて手を離した。
「やっぱり…」はるとも、呪いの力を改めて思い知らされた。
しかし、水浸しになった二人の間に、再び青い子の声が響いた。
青い子:「…ねぇ、はると。見て。私が、呪いの正体よ。あなたと、るな…かりん…みんなを不幸にしている、青い子よ」
るなには見えないはずの青い影が、水道管の破れた穴のそばで、はっきりとその姿を現していた。青い髪、青い瞳をした、小学生の頃の、見知らぬクラスメイトの姿で。
「…え?」はるとは、その青い少女の顔に見覚えがなかった。
「誰…?」るなは、そこに誰もいないことを不審に思っている。
青い子は、はるとだけに聞こえる声で、切なげに微笑んだ。
青い子:「あなたが、私を忘れたから…私は、呪いになったのよ」
(つづく)
いかがでしたでしょうか?「青い子」の正体が、はるとに忘れられたクラスメイトであり、それが「呪い」という形で彼のそばにいようとしている、という展開にしてみました。
この後、青い子(呪い)の過去の真実、るなとの友情と恋、かりんとの関係修復など、どのように進めていくか、ぜひご意見をお聞かせください!
すいませんが3人が青い子の夢の呪です
了解いたしました。設定を修正し、「青い子」の夢の呪いという要素を組み込んで物語を続けます。
つまり、藤本はると、結城るな、金沢かりんの3人が受けている不幸は、すべて「青い子」が見る夢の内容に起因する、という解釈で進めます。
ずぶ濡れになったはるととるなは、放課後の屋上で震えていた。
「…もう、さすがに風邪ひくぞ。着替えに戻ろう」
はるとがそう言うと、青い子の声が響いた。
青い子:「…いかないで」
青い影は、依然として水道管のそばに立っている。るなには見えないため、彼女はただ水道管を不審そうに見つめている。
「お前、『呪い』の正体が小学生の時のクラスメイトだって言ったな。でも、俺には心当たりがない」はるとは青い子を真っ直ぐ見つめた。
青い子:「あなたは…私を見ようともしなかったもの。だから、呪いになるしかなかった」
「呪いになる?」
青い子:「…私は、あなたのそばにいたい。でも、普通にいたら、あなたはまた私を忘れてしまう。だから、私は、あなたに忘れられない**『特別な存在』**になろうとした」
青い子は、まるで告白するように言葉を紡いだ。
青い子:「私の正体は、あなたのクラスにいた、青いリボンの女の子よ。…そして、この呪いは**『夢の呪い』**。私が夜に見る夢が、あなたの現実を歪める」
「夢…?」
「え、はると、誰と話してるの?」るなが戸惑った声を出した。
「ああ、ごめん、るな」はるとはるなに顔を向け、改めて青い子と向き直った。
青い子:「例えば、さっきのかりん。私が**『かりんちゃんが、ちょっとくらい恥ずかしい目に遭えばいいのに』と夢で思えば、鳩の巣が落ちる。るな。私が『るなちゃんがはるとくんと仲良くするのを見たくない』**と夢で嫉妬すれば、スマホは水没し、水道管は破裂する」
はるとは愕然とした。つまり、この呪いは、青い子の無意識の願望や嫉妬が具現化したものだということになる。
「つまり、お前が幸せな夢を見れば、俺たちも幸せになれるのか?」
青い子:「…ええ。でも、私は、あなたのせいで、幸せな夢なんて見られないわ」
その時、るなが突然、青い子の立っている方向に歩み寄った。
「…ねぇ、はると。もしかして、はるとのそばに、誰かいるの?」
「るな…」
「なんとなく…ここに来てから、ずっと空気が重いんだ。なんか、すごく…悲しい気持ちがする」
るなは、見えないはずの青い子の存在を、感情として感じ取っていた。
青い子:「…近づかないで。あなたは、私に嫉妬されているのよ。これ以上近づいたら、次に何が起きるか…」
青い子の言葉が響いた瞬間、屋上のドアが勢いよく開いた。
そこにいたのは、さっきまで泥まみれだった金沢かりん。しかし、彼女は今、完璧に着飾っていた。
「藤本はると!るな!こんな所で何してるのよ!」かりんは怒りに満ちた顔で叫んだ。
「かりん!?なんで着替えて…」
「ふざけないで!あんたたちのせいで、私のパーティーは中止になったわ!水道管が破裂したせいで、学校全体が緊急点検よ!今日、ここが使えなくなったのは、全部あんたたちのせいだ!」
「え…?」
青い子の呪いは、はるとたちだけでなく、学校全体に影響を及ぼし始めていた。
かりんは、はるとを指さし、強い口調で言った。
「あんたのせいで、るなも私から離れていく!るながあんたの味方をするたびに、あんたは呪いで私たちを傷つけるんでしょ!」
「違う!呪いは俺のせいじゃなくて…!」
「うるさい!るな!あんた、本当に目を覚ましなさいよ!」
かりんはるなに詰め寄った。その時、青い子が叫んだ。
青い子:「やめて!かりんちゃん、るなちゃんから離れて!るなちゃんを、取らないで!」
青い子の絶叫と同時に、かりんの足元のコンクリートに、ヒビが走り始めた。
「…っ!」
はるとは気づいた。青い子の嫉妬が強まると、呪いの力は、物理的な破壊をも引き起こす。
「やめろ、青い子!るなもかりんも、巻き込むな!」
はるとは青い子に向かって叫んだ。そして、るなとかりんの間に、強引に割って入った。
「二人とも、この場所から離れろ!今すぐ!」
「はると…」
「藤本、あんた何なのよ!」
二人の困惑する声を聞きながら、はるとは青い子に必死に語りかけた。
「俺は…お前の呪いを解くために、お前のことを知りたい!だから、教えてくれ!どうして俺を呪うんだ!?」
はるとの真剣な問いかけに、青い子は顔を伏せた。
青い子:「…どうしてって。だって、私は…」
青い子は涙声になり、絞り出すように言った。
青い子:「…私が、死んだのは、あなたのせいじゃない。でも、私が死んだ日、あなたは…私のことなんて、少しも覚えていなかったから…」
青い子の言葉と同時に、屋上の床のヒビは、さらに深く、大きくなっていった。はるとは、全身に冷たい悪寒を感じた。
高校二年の春。藤本はるとの日常は、常に**「あと一歩で失敗」**に彩られていた。
「いってぇ…」
自転車で登校中、あと数メートルで学校という場所で、突然タイヤがパンクした。原因は、なぜか路上に転がっていた一本の釘。
はるとは自転車を押し、深いため息をついた。すべては、あの小学生の時にかかった「呪い」のせいだ。
その日、クラスの移動教室に向かう途中、はるとは廊下で二人の女子生徒とすれ違った。
「…あ、はると!」
明るい声で呼んだのは、結城るな。小学生の頃から変わらない、元気で前向きなクラスの人気者だ。彼女に話しかけられると、なぜか心が軽くなる。
「おう、るな。元気そうだな」
はるとが笑顔を返した瞬間、るなが抱えていた水槽の入った段ボール箱が、突然底が抜けた。
「きゃっ!」
水と砂利と、小さなメダカたちが廊下にぶちまけられる。
「るな!大丈夫か!?」
はるとが駆け寄ろうとすると、るなの隣にいた金沢かりんが、鋭く彼を牽制した。
「来ないで、藤本」
かりんは、小学生の頃はるなと仲良しだったが、今ははるとに対して極度に冷たい。成績優秀でクールな彼女の視線は、まるで殺意でも宿しているかのようだ。
「るなは大丈夫よ。あんたさえ、近づかなければね」
「…なんで、そんなこと言うんだよ、かりん」
「見てわからない?あんたに近づくと、不幸になるからよ。小学生の頃からずっとそうじゃない。あの時だって…」
かりんはそこまで言って口をつぐんだが、その視線は「お前のせいだ」と雄弁に語っていた。
はるとは反論できなかった。実際、るなもかりんも、自分と親しくしようとする度に小さな不幸に見舞われる。全ては、自分について回る**「呪い」**のせいだと知っているからだ。
(青い子…また、お前の仕業か)
はるとの足元の影が、一瞬だけ、青い光を帯びて揺らめいた。誰にも見えないはずのその青い影が、はるとには、半透明な少女の姿に見える。それが、この呪いの正体。
青い子(呪いの正体):「…仕方が、ないでしょう。これは、あなたが私を忘れそうになるたびに、発動する呪いなんだから」
青い子の声は、はるとにしか聞こえない。その声は、どこか寂しげで、拗ねているようにも聞こえる。
その日の放課後、はるとは学校近くの廃墟となっている古い神社に来ていた。ここなら、誰もいないし、呪いの影響も最小限だ。
「なぁ、青い子。いい加減、この呪いを解く方法を教えてくれ。俺だけならまだしも、るなやかりんまで不幸になるのはもう嫌だ」
はるとが廃社の前でそう言うと、青い影が社の屋根の上から見下ろすように姿を現した。青いセーラー服に、どこか時代を感じさせる長い青い髪。顔立ちは小学生の頃の面影を残しているが、高校生のはるとよりも幼く、ぼやけて見える。
青い子:「解き方なんて、簡単よ。私を心から愛して、呪いを上書きする。それだけ」
「無理に決まってるだろ!お前、姿も見せないし、俺のこと呪うんだぞ!」
青い子:「ふふ。でもね、はるとくん。呪いをかけているのは、私じゃないの」
「どういう意味だよ?」
青い子:「この呪いの正体は…私の『夢』。私が夜寝ているときに見る夢が、あなたの現実を少しずつ歪めているのよ」
青い子は説明した。彼女が夢の中で**「はるとくんが、るなちゃんと笑っているのを見たくない」と嫉妬すれば、現実のるなに不幸が訪れる。彼女が「かりんちゃんが、私よりはるとくんに優しいのは許せない」**と怒れば、かりんに不幸が降りかかる。
「さっきのるなの水槽だって、私が夢の中で**『メダカを解放してあげたかった』**って思ったからよ」
「はぁ!?そんな理不尽な話があるか!」
「理不尽でいいの。だって、これは…私があなたに忘れられたことへの報復だもの」
はるとは愕然とした。呪いの源が、青い子の「感情」だとしたら、彼女を幸せな気分にさせなければ、この不幸の連鎖は止まらない。
その時、神社の鳥居の向こうから、人影が現れた。
「こんなところにいたのね、藤本」
声の主は、金沢かりんだった。彼女は、手に何やら紙の束を持っている。
「かりん?どうしてここに?」
「あんたのせいで、また問題が起きたのよ。るなったら、メダカを逃がしたことが先生にバレて、反省文を書かされているわ」
かりんは冷たい目で言い放った。
「あんたが、るなに話しかけたから、私の夢にまで影響が出たじゃない!」
はるとは驚いた。「私の夢」?
「かりん、お前…何を言ってるんだ?」
かりんは、はるとの顔を強く睨みつけ、持っていた紙の束を突き出した。
「これ!るなが書いた反省文のコピーよ。るなったら、メダカを逃がした理由に**『青い夢を見たから』**って書いていたのよ!」
るなが反省文に書いた一文。
「…目が覚めたら、体が勝手に動いていました。夢の中で、誰かが『メダカを逃がしてあげたい』と泣いている、青い夢を見たからだと思います」
そして、かりんは続けた。
「あんたに言っておくわ。私は…あんたが呪われていること、そして**『青い子』**のことも、全部知っている。だって…」
かりんは、はるとと青い子の両方を、射抜くような鋭い視線で見た。
「私たち、小学生の頃、青い子の夢を共有していたからよ」
【前回までのあらすじ】
藤本はるとを苦しめる「呪い」の正体は、はるとにしか見えない「青い子」。その呪いは、青い子が夜に見る夢の内容が現実を歪めるという**『夢の呪い』だった。そして、金沢かりんは、るなが書いた反省文(メダカを逃がした理由に「青い夢を見た」**と記されていた)をはるとに見せつけ、驚くべき真実を告げる。「私たち、小学生の頃、青い子の夢を共有していたからよ」
神社の前で、はるとはかりんの言葉に凍り付いた。
「…夢を、共有?」
「そうよ。正確には、青い子が強い感情で夢を見た時だけ、私たち三人の意識にその夢が流れ込んできたの」
かりんは深いため息をついた。
「小学生の時、あんたが青い子を突き放した日があったでしょ。あの夜、私たちは青い子が泣き叫ぶ夢を見た。次の日から、あんたに近づくと不幸が起き始めた。私たちは気づいたの。この不幸は、青い子の嫉妬や悲しみが原因だって」
「だから、お前は俺を避けて…」
「当然でしょ!あんたを避けることが、るなを守る唯一の方法だった。るなはああ見えて、情に厚い。あんたを放っておけない。だから、私が疫病神役になって、あんたを遠ざける必要があったの」
かりんは、自分だけが秘密を背負っていたことに耐えていた。それは、親友のるなを不幸から守るためだった。
その時、青い子が社殿の屋根から舞い降り、かりんの前に降り立った。
青い子:「…かりんちゃん。あなたは、私に気づいてたのね」
かりん:「気づくに決まってるでしょ。あんたのせいで、私の恋だって何度も壊されたんだから」
かりんは青い子を睨んだ。かりんが好意を持った男子は、ことごとく不幸に見舞われ、彼女から離れていった。
「もういい加減にして!お願いだから、はるとくんを呪うのをやめてよ!」
青い子:「無理よ。私がこの呪いを解いたら、私はまた…はるとくんから忘れられてしまう」
青い子は、涙ぐむ。
「呪いは、私があなたと繋がっていられる唯一の方法なのよ」
その声が響いた瞬間、鳥居の向こうから、るなが息を切らして駆けてきた。
「はるとー!かりんー!」
「るな!来るな!」はるととかりんが同時に叫んだ。
るなは立ち止まった。しかし、彼女の目に映ったのは、真剣な顔をしたはるとと、怒っているかりんだけだ。
「何よ、二人とも水臭い!こんなところでこそこそ!…あ、もしかして、デート?」
るなは、明るく冗談を言おうとした。
その瞬間、青い子の嫉妬が頂点に達した。
青い子:「ダメ!るなちゃんが、はるとくんを笑わせないで!」
社殿の屋根が、ギシギシと音を立て、今にも崩れ落ちそうになった。
「やばい!」
はるとはるなの腕を掴み、かりんと共に、無我夢中で神社から逃げ出した。直後、凄まじい音と共に、社殿の屋根が崩れ落ちた。
三人は息を切らして、神社の前の土手まで逃げた。
「はぁ…はぁ…。もう、本当に何だったのよ、今の…」かりんは腰を抜かしている。
るなは、はるとに抱きかかえられた格好のままだ。
「ねぇ、はると。今、本当に危なかったよ。…でも、私、わかった。はるとが誰と話してたのか」
「るな…?」
「私には、青い子は見えない。でも、その子がはるとを好きだってこと、そしてすごく悲しいってことは、私にもわかるよ」
るなは、青い子が嫉妬を覚えるたびに、その悲しい感情を共有していたのだ。
はるとは決心した。青い子の呪いを解く唯一の方法、「愛する」という言葉の真意を知るために。
はるとは立ち上がり、見えない青い子に向かって、大声で問いかけた。
「青い子!お前が言った**『愛して呪いを上書きする』**って、本当に俺がお前を好きになるってことなのか?」
青い子は、静かに現れた。
青い子:「違うわ、はるとくん」
「え?」
青い子:「私が欲しいのは、恋の愛じゃない。私が本当に欲しかったのは、あなたが私という存在を、たった一人でいいから、覚えていてくれること」
青い子は、小学生の頃の記憶を語り始めた。
「私は、教室の隅にいた、誰にも気づかれない、静かな女の子だった。ある日、私が作った絵を、あなたが**『青が綺麗だね』**って褒めてくれた。それが、私とあなたが話した、最初で最後の言葉」
「…青が、綺麗…?」
「そう。でも次の日、あなたはもう私の名前も顔も覚えていなかった。誰からも忘れ去られた私が、唯一の希望だったあなたにも忘れられた時…私の存在は、悲しみと嫉妬の感情だけになった。それが、この呪いの正体よ」
青い子の言う「愛」とは、存在を認めること、記憶すること。
「呪いを解く方法は一つよ。あなたが、私を忘れないと心から誓ってくれること。あなたが私の存在を、あなたの未来に連れて行ってくれること」
その時、るなとかりんが、同時に、はるとの手を握った。
「はると!私も、青い子を忘れないよ!名前は知らないけど、私たちが青い子の**『夢』**を共有していたこと、その子の悲しみがどれだけ深かったか、私は忘れない!」(るな)
「私もよ。あんたに近づくと不幸になるのは嫌だけど…あんたを苦しめていたのが、孤独な女の子の悲しい夢だったなんて。私も、彼女の存在を、この胸に刻むわ」(かりん)
はるとは、二人の温かい手に力を込めた。
「青い子。俺は、お前を忘れない。俺たちの小学生の時の教室に、青いリボンの、青がとても綺麗な絵を描いた女の子がいたこと。そして、お前が俺の不運な日々を通して、俺のそばにいてくれたことを」
はるとは青い子に向かって、静かに、そして力強く誓った。
「俺は、お前を連れていく。俺が生きるこの先の未来に、お前の存在を記憶として、永遠に連れて行く!」
はるとの、るなの、かりんの、三人の「忘れない」という強い意志と、温かい感情が、青い子に向かって流れ込んだ。
青い子は、初めて穏やかに微笑んだ。
青い子:「…ありがとう、はるとくん。もう、大丈夫。…これで、私は…一人じゃない」
青い子は、まるで夜明けの霧のように、静かに、そして美しく、消えていった。
次の日。藤本はるとは、いつも通り朝、目が覚めた。窓の外は快晴。
「よし!」
はるとは自転車に乗り、学校へ向かう。釘は落ちていなかった。
学校で、るなとかりんに会った。るなは明るく笑い、かりんはいつものようにクールだが、視線に敵意はなかった。
「はると、おはよう!遅刻しなかったね!」(るな)
「別に。たまたまよ。でも…あんたが変な不幸を振りまかなくなったのは、良かったわ」(かりん)
そして、昼休み。はるとは購買で、久々に焼きそばパンを買うことができた。
そのパンをかじりながら、ふと、はるとは空を見上げた。青い、どこまでも澄んだ空。
(青い子…)
はるとの頭の中に、青いリボンの、誰にも気づかれなかった女の子の笑顔が、はっきりと焼き付いていた。
呪いは解けた。しかし、はるとの心の中には、「忘れない」と誓った青い子の存在が、温かい記憶として残っていた。
そして、はると、るな、かりんの三人の間には、呪いが生み出した複雑で特別な、**四角関係ならぬ「三角関係」**が残った。
「ねぇ、はると。今度、三人でどこか行こうよ!」(るな)
「フン。仕方ないわね。運が悪くなるのはごめんだから、あんたがちゃんと計画を立てなさい」(かりん)
はるとは笑って答えた。彼の未来には、もう不幸はない。あるのは、かけがえのない二人の友人、そして心に刻まれた、美しく優しい青い夢の記憶だけだった。
高校二年の春。藤本はるとの日常は、常に予測不能な不幸に満ちていた。
「…頼む、今日のテスト範囲だけは当たってくれ」
はるとが休み時間に参考書を広げた瞬間、突然、天井の照明がバチッと音を立ててショートし、はるとの参考書だけが、ちょうどテスト範囲のページに焦げ跡を残して炎上した。
「ぎゃあああ!俺の参考書が!」
教室はパニック。はるとの足元で、青い影が揺らめく。
青い子(呪いの正体):「フフフ。無駄よ、はるとくん。あなたが勉強してる間、私はあなたのそばにいられないもの。…勉強なんてしなくていいのよ」
青い子は、はるとにしか聞こえない声で、拗ねたように言った。
その騒ぎの中、隣の席の結城るなが、はるとの顔色を心配して駆け寄った。
「はると、大丈夫!?指、火傷してない!?」
るなが手を伸ばした瞬間、彼女の背後に置いてあった給食用の牛乳パックが**パンッ!**と破裂し、るなの顔面にヨーグルトのような白い液体がべったりと付着した。
「きゃっ!牛乳じゃなくて、ヨーグルト…?」るなは混乱し、顔を拭う。
「るな!牛乳パックが破裂したのか!?」
「だから、言ったでしょ」
声の主は、金沢かりん。彼女は教卓のそばで、冷たい目で事態を見ていた。
「藤本。あんたに近づくと、不幸のレベルが上がるわ。しかも、るなの不幸はいつもドジで可愛いレベル。だけど…」
かりんは、はるとを睨んだ。
「私の不幸は、いつも社会的制裁レベルなのよ」
そう言った瞬間、かりんの背後にある教卓の黒板が、突然、中央から大きなヒビが入り、かりんの完璧な制服に、チョークの粉が降り注いだ。
「…っ!」かりんは怒りと恥ずかしさで顔を紅潮させた。
「やめろよ、青い子!」はるとは心の中で叫んだ。
青い子:「だって、かりんちゃんが、はるとくんに私のことを話そうとするんだもの。…私の秘密を教えたらダメよ」
青い子の呪いは、はるとをめぐる二人のヒロインへの**「嫉妬」と、「独占欲」**で成り立っていた。
放課後、はるとは誰もいない視聴覚室に、るなとかりんを呼び出した。
「二人とも、真剣に聞いてくれ。俺の周りの不幸は、全部呪いのせいだ」
はるとは、青い子のこと、そしてその呪いが**「青い子が夜に見る夢」**の内容が現実を歪めることで起きていることを説明した。
「馬鹿げてるわ。夢ですって?」かりんは信じられないといった様子だ。
「馬鹿げてるけど、本当だよ。…そして、かりんの言う通り、俺に近づくと不幸のレベルが違うのも、青い子の嫉妬の度合いが違うからだ」
青い子:「そうよ。るなちゃんは、はるとくんが放っておけない**『お荷物』**になればいいなって夢で思ってるの。だから、ドジで可愛い不幸で済む」
青い子の声が響いた瞬間、るなが座っていた椅子の脚が、突然ガムテープでグルグル巻きにされ始めた。
「きゃっ!わ、椅子がグルグルに!」るなは椅子に座ったまま、困惑する。
青い子:「でも、かりんちゃんは違う。かりんちゃんは、はるとくんを私の存在から遠ざけようとするから。だから、夢の中で**『もっと恥ずかしい目に遭えばいい』**って強く願っちゃうの」
かりんはその言葉に怒り、はるとに詰め寄った。
「私の不幸が恥ずかしいって言うの!?あんたのせいで、学年主任の前で階段から転び、スカートが破れたのはどう説明するのよ!」
かりんがはるとに詰め寄った瞬間、天井から大きなダクトの蓋が外れ、ホコリまみれの巨大なマイクが、かりんの頭上スレスレで止まった。
「ひっ!」かりんは恐怖で体が硬直する。
「やめろ、青い子!」はるとは叫んだ。
るなが、グルグル巻きの椅子から身を乗り出し、恐怖におびえるかりんの背中を、そっと撫でた。
「大丈夫だよ、かりん。…ねぇ、はると。私たち、この呪いのこと、小学生の時、知ってた気がする」
るなは、はるとの顔を見つめた。
「あの頃、はるとが青いリボンの子の名前を忘れた次の日から、私たち、夜に悲しい夢を見るようになったでしょ?その夢を見ると、次の日、はるとの周りで不幸が起きるって、三人で内緒にしてたんだよ」
るなとかりんは、青い子の悲しみの感情を、夢を通して共有していたのだ。呪いの正体は、はるとだけではなく、三人共通のトラウマだった。
「青い子!もう終わりにしよう!」はるとは叫んだ。「るなもかりんも、お前が誰かわからないけど、お前の悲しみは知っている。俺たちが、お前の**『存在』**を証明する!」
はるとは、るなとかりんの手を握りしめた。
「呪いは、俺がお前を忘れたことから始まった。だから、俺たちが三人で、お前を永遠に忘れないと誓う!俺たちの心の中に、青が綺麗な絵を描いた、大切なクラスメイトとして、お前を未来に連れて行く!」
青い子:「…はるとくん…るなちゃん…かりんちゃん…」
三人の**「忘れない」という強い愛の誓い**が、青い子の悲しみを上書きした。
青い子は、優しく、寂しげに微笑み、青い光の粒子となって、静かに消えていった。
呪いは解けた。椅子はグルグル巻きのままだが、マイクは落ちてこない。
その後、三人は平和な高校生活を送った。はるとの運は、普通の高校生並みに戻り、るなとかりんにも、もう不幸は訪れない。
卒業間近。三人は、いつものように屋上で談笑していた。
「ねぇ、はると。結局、私とかりん、どっちか選ばなかったね」(るな)
「フン。誰か一人を選ぶと、もう一人が不幸になるって、あんたの体が覚えてるのよ」(かりん)
かりんは、冷たい言葉とは裏腹に、はるとの隣にぴったりと寄り添った。
はるとは、二人の手をそっと握りしめた。
「ああ、そうだな。俺は、誰か一人を選んで、もう一人を呪うような悲しい夢を見たくない。俺たちの関係は、**呪いを乗り越えた『運命共同体』**だ」
るなは、はるとに抱きつきながら、笑顔で言った。
「私たちもだよ、はると。誰か一人を選ぶ必要なんてない。三人でいるのが、一番幸せなんだから!」
かりんも、諦めたように微笑んだ。
「まったく、厄介な関係になったものだわ。でも、仕方ない。次の不幸が来るまで、この関係を続けるしかないわね」
はると、るな、かりんの三人の間には、呪いという名の試練が作り出した、誰にも理解できない、特別な「選ばない愛」の形が完成したのだった。
高校卒業から十年後。
藤本はると、結城るな、金沢かりんの三人は、東京郊外に建つ一軒家で、共に暮らしていた。
彼らの関係は、あの呪いが解けた高校時代から変わっていない。誰か一人を選ぶことなく、三人が最も平和でいられる**「選ばない愛」の共同生活**だ。
はるとはIT企業に勤める平凡なサラリーマン。るなは幼稚園の先生。かりんは大学の研究職に就き、三者三様の道を歩んでいたが、帰る家は一つだった。
ある土曜日の夜。リビングで、かりんがリモコンを片手に、はるとに向かって冷たく言い放った。
「藤本。あんた、いい加減に決断しなさいよ」
「決断って…何がだよ、かりん。リモコンはそっちが持ってるだろ」
「リモコンじゃないわ!これよ!」
かりんが突きつけたのは、区役所から届いた一通の封筒。中には、**「婚姻届」**が入っていた。
「私たち、もう三十路よ。世間体もある。あんたが誰か一人を選ぶのが怖いなら、もう**『選ばない』という決断**をするしかないわ」
るなは、隣で笑顔でサラダを取り分けながら、かりんに同調した。
「そうだよ、はると。るなもかりんも、はるとのことが大好きなのは変わらない。でも、私たちは**『誰か一人を失う』呪い**を乗り越えたんだから。もう、誰かが不幸になることを恐れる必要はないよ」
るなは、はるとの腕に抱きつきながら続けた。
「ね?はると。私たち、三人で家族になろう?」
はるとは顔を真っ赤にした。十年間、誰にも理解されない関係を続けてきたが、「結婚」という現実的な問題に直面するとは想像もしていなかった。
「三人で…家族って…世間が、法が許すのか…?」
「フン。法律なんて、所詮、誰かの決めたルールよ」かりんは冷たく笑った。
「私たちは、呪いという、世間の誰にも理解されない**『運命』**によって結ばれたの。私たちのルールは、私たちで決めるわ」
かりんは、婚姻届をリビングのテーブルに広げ、ペンを突きつけた。
「いい?藤本。私たち三人が、誰の夢も感情も暴走させずに、平和に暮らせる唯一の方法。それは、この関係を『公式』なものにすることよ」
「るなは、この婚姻届の証人欄にサインする。そして、あんたは私と、『形式上』の夫婦になる。その後、**『事実婚』として、るなとあんたの関係も続ける。これで、誰もが『特別な関係』**として認めざるを得なくなるわ」
かりんの提案は、冷静で論理的、そして恐ろしく大胆だった。
るなは、笑顔で証人欄に迷いなくサインした。そして、はるとを優しい目で見つめた。
「はると。私たちは、もう、誰の悲しい夢も見たくない。この形が、私たちが三人でずっと笑って過ごせる、**呪いを完全に断ち切るための『愛の儀式』**なんだよ」
はるとは、二人の揺るぎない覚悟と、彼への深い愛を感じた。そして、この大胆な提案こそが、かつて彼らを結びつけた呪いの、最もラブコメ的なハッピーエンドなのかもしれないと思った。
はるとは、深く息を吸い込み、ペンを握った。
「…わかったよ、かりん。るな。俺は、もう誰一人、不幸にしたくない。そして、二人とも、永遠に失いたくない」
はるとは、婚姻届の「夫」の欄に、大きく署名した。
こうして、藤本はると、結城るな、金沢かりんの三人は、「一妻一夫+事実婚」という、世間からは理解されがたいが、彼らにとっては呪いを完全に昇華させた「選ばない愛」の、完璧な結婚という結末を迎えるのだった。
(完)
おまけタナトスの誘惑
8月15日。もうとっくに日は沈んだというのに、辺りには蒸し暑い空気が漂っている。
マンションの階段を駆け上がる僕の体からは、汗が止めどなく噴き出していた。
「さよなら」
たった4文字の彼女からのLINE。
それが何を意味しているのか、僕にはすぐに分かった。
御盆の時期にも関わらず職場で仕事をしていた僕は、帰り支度をしたあと急いで自宅のあるマンションに向かった。
そして、マンションの屋上、フェンスの外側に、虚ろな目をした彼女が立っているのを見つけた。
飛び降り自殺を図ろうとする彼女の姿を見たのは、実はこれでもう4回目だ。
世の中には2種類の人間がいるという。
生に対する欲動──「エロス」に支配される人間と、
死に対する欲動──「タナトス」に支配される人間。
この世界の人間のほとんどは前者だが、彼女は紛れもなく後者だった。
彼女が「タナトス」に支配される人間だということは、彼女と付き合い始める前から知っていた。
それもそのはず、僕たちが出会ったのは、今のようにマンションの屋上で自殺を試みている彼女を、僕が助けたのがきっかけだった。
最近同じマンションに引っ越してきたという女の子。つぶらな瞳にぽってりとした唇と、可愛らしい顔立ちをしているが、どこか儚げな表情をしている彼女は、一瞬で僕の心を奪った。きっと一目惚れのようなものだったと思う。
その時から彼女とはいろいろな話をするようになり、すぐに仲良くなった。
ブラック会社に勤めながら独りきりで寂しく暮らしていた僕にとって、彼女はまるで天から舞い降りた天使のようだった。
ひとつ疑問に思うことがあった。
彼女は自殺を図ろうとする時、決まって僕に連絡を入れる。そして、僕が来るまでその場で待っている。
誰にも知らせずひとりで死んだほうが確実なのではないかと思うが、
もしかしたら彼女は、出会った時のように僕に自殺を止めてほしい、助けてほしいと心のどこかでそう思っているのではないかと、勝手に解釈していた。
だから、僕は今回もこうやってマンションの階段を駆け上がる。
「はぁっ、はぁっ…」
マンションの屋上にたどり着く。
フェンスの向こうに立つ、彼女の背中を見つけた。
「待って…!!」
フェンスを飛び越え、彼女の手を取る。
彼女の手は、蒸し暑い空気に反して冷たかった。
「はなして」
鈴の音に似た、儚くて可愛らしい声。僕は彼女の声も好きだった。
「なんで、そうやって、君は…!」
「はやく、死にたいの」
「どうして…!」
「死神さんが呼んでるから」
彼女には、「死神」が見える。「タナトス」に支配される人間に稀に見られる症状なのだという。
そして「死神」は、「タナトス」に支配されている人間にしか見ることができない。
「死神なんていないよ」
「なんで分かってくれないの…!」
僕が死神を否定すると、彼女は決まって泣き叫ぶ。
死神は、それを見る者にとって1番魅力的に感じる姿をしているらしい。いわば、理想の人の姿をしているのだ。
彼女は死神を見つめている時(僕には虚空を見つめているようにしか見えないが)、まるで恋をしている女の子のような表情をした。まるでそれに惚れているような。
僕は彼女のその表情が嫌いだった。
「死神なんて見てないで、僕のことを見て」
「嫌…!」
彼女が僕の手を振り払おうとしたので、思わず力強く握ってしまった。
「痛い…!」
「!ごめん…」
でも、君が悪いんじゃないか。僕の手を振り払おうとするから。僕のことを見てくれないから。
「死神さんはこんなことしないよ…!」
僕の心にどす黒いものが押し寄せてくる。
「なんで…」
なんで、こんなにも僕は君のことを愛しているのに、君は僕だけを見てはくれないのだろう。
死神に嫉妬をするなんて、馬鹿げていると心のどこかでは思っていたが、もうそんなことはどうでもよかった。
「もう嫌なの」
僕も嫌だよ。
「もう疲れたのよ」
僕も疲れたよ。
「はやく死にたいの」
「僕も死にたいよ!!」
その時、彼女が顔を上げた。
ニッコリと笑っていた。
彼女の笑顔を見た途端、急に心のどす黒いものが消える感覚がした。
あれ、これってもしかして。
「やっと…気づいてくれた?」
「ああ…やっとわかったよ」
「ほんと…?よかったぁ」
ああ、そうか。
君が自殺を図ろうとする度に僕のことを呼んだのは、僕に助けてもらいたかったからじゃない。
君は、僕を連れて行きたかったんだ。
僕にとっての「死神さん」は、彼女だった。
涼しい風が吹き抜ける。いつの間にか蒸し暑さなど感じなくなっていた。
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ、行こうか」
手を繋いだ君と僕。
この世界が僕らにもたらす焦燥から逃れるように
夜空に向かって駆け出した。
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