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清水を乗せたタクシーが交差点を曲がって行き見えなくなってから、私は太田に訊ねた。
「本当は今日、出張先に泊まる予定だったんですよね?」
「そのつもりだったけど、どうしても笹本の顔を見たくなってしまって。だから、接待が終わり次第戻ってきたんだよ」
そのセリフに嬉しいと思いながら、わざわざそこまでしなくてもいいのにと、彼の疲れが心配になる。
「とんぼ返りだなんて、大丈夫ですか?ゆっくりしてくればよかったのに」
太田は私の髪を弄びながら答えた。
「笹本の顔を見たら、疲れなんて一瞬で吹っ飛んだよ。――それよりも、今の人とは以前からの知り合いだって言ってたよな」
「えぇ、よく行くお店で友達になったんですよ」
「ふぅん、そうなんだ……」
拗ねたように言って、太田は私の背中に腕を回す。次の瞬間、私の唇をいきなり塞いだ。
「ん……っ」
外にいるのに、と私は突然のキスに驚き、彼の腕の中から抜け出そうともがいた。
私の抵抗にそれ以上キスをし続けることは諦めたらしく、太田は苦笑しながらのろのろと顔を離した。
「ごめん……。笹本は俺の彼女なのに、俺の知らない男と一緒にいたんだと思ったら、急に悔しくなって、心配でたまらなくなった」
私は彼の腕からそっと離れ、まだ拗ねた様子のその顔を見上げて言った。
「別に二人きりでいたわけじゃないし、知り合い同士、一緒のタクシーに乗ることなんて普通にあることですよね?それに、あの人はただの友達ですよ」
「そうかもしれないけど」
太田の手が私の頬に触れる。
「今日、飲みに行くっていう話を聞いた時は、男も一緒だなんて言ってなかったよな」
「彼とはお店で偶然会っただけです。女友達と一緒だったのは嘘じゃありませんよ」
「プライベートで、俺以外の男と一緒にいたりしてほしくないんだけど」
私は眉根を寄せて、彼から視線を外した。
「そんなこと言われても……。だって男友達もいるわけだし……」
これまでの私だったら、困りつつも彼の言葉を嬉しく感じたと思う。けれど、タクシーを降りる前に見た、彼からの電話の着信とメッセージの履歴。その件数の多さに、どきりとしたことを思い出す。加えて、清水の「束縛気味に見えてしまって」という言葉が頭の中で回り出す。しかし、それらの違和感は気のせいだとすぐさま打ち消しにかかった。
私を心配しているからだ。私を愛しているからだ。予定を変更してまでわざわざ出張先から戻ってきたのだって、私の顔を見たくなったからだと、彼はそう言ったじゃないか――。
悶々としていると、太田の静かな声が降ってきた。
「今夜はこのまま泊まってもいい?」
「え……」
困惑しながら見上げた太田の目は、熱をはらんでいた。これが、梨都子が言う「流れ」というものなのだろうかとにわかに緊張し、胸がどきどきし始める。
太田の手が私の唇に触れた。
「だめ?」
つうと撫でられて、私は身動きが取れなくなった。
「いい?」
私の意思を確かめるような言い方だったが、見つめながら囁く太田の声には、どこか有無を言わせぬような強い響きがあった。その声音と熱っぽい瞳に飲み込まれてしまい、気づけば私は首を縦に振っていた。
部屋に着き、玄関に入ってドアのロックを下ろした途端に、私は太田に抱きすくめられ口づけられた。こんなにも性急な彼を見るのは初めてで戸惑った。
太田の唇が離れた時、ようやく息継ぎができるとほっとしたのもつかの間、彼は私を抱きかかえるようにしながら寝室のベッドに移動した。
いつもであればキスで終わるはずだった。けれど今夜の太田からはそれ以上を求めるオスの匂いが感じられて、私は狼狽えた。
「待って、ねぇ、太田さん……」
けれど私の声は聞き流され、ベッドの上に押し倒された。
「今夜はどうしてお前を抱きたい」
「本当に、待って。前にも言ったと思うけど、私……」
ブラウスの裾から手を入れて私の肌に触れながら、太田は囁いた。
「初めてなんだよな。大丈夫、怖くないよ」
太田は私の体をまたいでブラウスをまくり上げた。ブラをぐいっとずらし、現れた胸の突端を口に含んで甘噛みするように軽く歯を立てる。
「あっ……」
生暖かい感触と、歯と舌に与えられる刺激にぞくりとした。
太田は私の反応に満足したのか、熱に浮かされたような目をして私の体を暴いていった。私の体中に柔らかく、けれど時折強く口づけてはその合間に低く囁く。
「俺以外の男は見ないでくれよ」
彼の手に全身を撫でられて洩れそうになる息を堪えていると、耳元で太田が訊ねた。
「気持ちいい?」
即答できなかった。体の奥深い場所がもどかしくうずいてはいたが、気持ちがいいと思えなかった。それよりも、過去の出来事が頭に浮かんで、この先にあることを考えたら怖いと思った。
どう答えるのがいいのか迷っているうちに、頭が冷静になってくる。
私の反応の鈍さに、太田の顔が苛立つように僅かに歪んだような気がした。
「笹本に触れていいのは俺だけだってこと、忘れないでくれよ」
太田はそう言うと、私の両手首を捕らえて頭の上で押さえつけた。そのまま私の息も声も漏らすまいとするほど強く口づけながら、彼は私の脚の間に手を滑り込ませる。
「っ……」
彼の手が触れた瞬間、太田から逃げたくなった。これ以上は嫌だと思い、彼の手を止めたくて抑えられた手首を抜き取ろうとした。しかしその動きはあっけなく阻まれてしまう。
太田はキスをやめて囁く。
「大丈夫だよ。そのまま力を抜いて。気持ちよくしてあげるから」
彼は私の花芯に触れる手を止めず、淫らがましい音をわざとのように立てている。
「痛い……待って……」
優しいとは思えないようなその指の動きを苦痛に感じ、私は彼に訴えた。しかし弱々しい声だったせいで聞こえなかったのか、あるいは故意に聞き流したのか、彼はその手を緩めない。
「お願い、もう……」
やめて……と言うつもりだった言葉は、声にならなかった。太田の手に脚を左右へ押し広げられた。抵抗したかったが、彼の激しすぎる愛撫に力が抜けたようになっていたために、私は彼の手を押し戻すことができなかった。
「んっ……」
初めての痛みに唇を噛んで声を抑えようとする私の中を、太田は何度も激しく貫いた。その間私は声をかみ殺し続け、この時間が早く終わってほしいと思いながら、縋るようにシーツを握りしめていた。
事が終わり、私は彼に背中を向けながらぐったりと体を横たえていた。体のあちこちに鈍い痛みが残っている。
初めてだったのに……。
黙り込んだまま自分の方を見ない私に不安になったのか、太田は許しを請うように囁く。
「優しくできなくてごめん」
彼は私の体に腕を回し、肩先にそっと唇を触れた。
「笹本が俺以外の男に行ってしまうんじゃないかって、不安になってしまった。その気持ちでいっぱいになってしまって、手加減できなかったんだよ」
「そんなこと……」
清水のことを言っているのだと思った。彼との関係を説明したのに、実は納得しておらず、だから狂おしいような激しさで私を抱いたのかと思うと複雑な心境になった。やきもちを妬いてくれるのは嬉しい。けれどまたこんなことがあったら、と脳裏に不安がよぎる。今夜のように嫉妬心を露わにして、私を抱くことがあるのではないかと思うと恐ろしくなる。
「……今度からは、優しくする。だから許してくれ。今夜はごめんな。愛してるんだ。信じて」
太田はそう言って私をぎゅっと抱き締めた。
本当はこれが、今まで私が見てきた優しい彼の姿だったはず。今後もまた肌を重ね合わせることがあったとしても、今夜のような抱き方をすることはもうないに違いない。彼は今、そう言って謝ってくれたじゃないか。きっとこれは今夜だけのことなのだ。嫉妬深くなるほど彼は私を愛してくれているんだ。
私は自分にそう言い聞かせ、揺れる心をなだめた。
その後も何度か太田と体を重ねることがあったが、彼はあの夜のように激しく私を抱くことはなかった。
それなのに、優しく抱かれていてもどこか私の頭の片隅は冷めていて、気づけばいつも、この行為の終わりを待っていた。彼のことは好きなはずのにどうして、と理由を考えた。そうしてたどり着くのは、初めて彼に抱かれた夜のことだった。その記憶は簡単には消えてくれない。そのために、太田に対して心も体も許せなくなっているのではないかと思った。
そんな中、心から一度締め出したはずの違和感が再び顔を出した。
梨都子や清水と会ったのを皮切りに、私はまた友人たちと約束を取り付けるようになっていたが、その予定を告げると太田は不機嫌になった。最終的に渋々と頷きはするが、集まる顔ぶれや場所、帰宅予定時間、そしてその場に男性はいるのかどうかなどを確かめるように執拗に聞いてくる。そして都合がつく限り、私の送迎をすると言い出すのだ。
また、太田は密に早く連絡を取りたいタイプのようだった。何かの理由で電話やメッセージにすぐに応えられない時には、私が応じるまで何度も連絡をよこす。携帯の履歴に彼の名前がずらりと並んでいるのを見た時には、付き合い始めたばかりの頃にも同じようなことがあったと思い出し、背筋にひやりとしたものを感じて胸がざわついた。
それでもまだ私は、それらは太田の私への愛ゆえだと理解し、飲み込もうとしていた。自分の中に生まれていた疑念を抑え込み、胸の奥に押し込めていた。けれどあの日それは確信に変わり、その出来事をきっかけに、付き合ってまだ数か月にしかならないのに、早くも太田と別れたいと思うようになっていた。
その日、私は大学時代からの友人たちと会う約束をしていた。
そのことを告げた時、案の定太田の機嫌が悪くなった。この頃になると、同性異性に関わらず、私が友人たちと会うことを嫌がるような言動が以前よりも増えていて、彼と付き合うことに窮屈さを感じるようになっていた。
『自分の約束だから自分で行く』
そう言う私に、太田は心配だから送り迎えをすると言ってきかなかった。結局折れた私は今、ムスッと苦い顔をして運転する太田の車の助手席に、いたたまれない気持ちで乗っている。
太田は店の前の大通り沿いに車をつけた。
「ごめんなさい、ありがとう。行ってきます」
礼を言いながらシートベルトを外していたら、太田が身を乗り出してきた。私の肩を自分の方へ引き寄せて、いきなり首筋に歯を立て強く吸う。
「っつ……」
「シルシ。……行っといで。時間になったら迎えに来るから」
太田は私から離れると、そう言って微笑んだ。
「い、行ってきます……」
私は動揺しながら彼の車を降りて、店に向かった。
ちょうどその時、店の前に数人の男女の姿を見つけた。よく見ると、友人たちだった。その中にいた一人の男性が私に気づいて声をかけてよこした。
「もしかして笹本?」
「えっ、木田くん?すごく久しぶりだね」
彼とはゼミが一緒だった。割と仲良くしていたが、これまで特に会うことはなく顔を見るのは三年ぶりくらいだ。
「笹本、なんか綺麗になったよなぁ」
「からかわないでよ」
木田のリップサービスだと分かっていたから、私は軽く流した。
「いやいや、ほんとに。俺と付き合わない?」
「またまた。昔から冗談ばっかり言ってたけど、変わらないね」
笑いながらそんな軽口を交わしていたら、店から出てきた客とぶつかりそうになった。すんでの所で木田が私の腕を引いてくれたおかげで回避できたが、弾みで彼の胸に体ごとぶつかってしまう。
「ご、ごめんっ!ありがとう」
「おぅ、大丈夫か。しかしこれは役得だな。笹本の彼氏に知られたらやばそうだ」
木田の冗談に、私は俄かにはっとして振り返った。そこにまだ太田の車がウインカーを出して止まっていた。それを見た途端、心臓が痛くなりそうだと思うくらいに強く、鼓動がどくんと鳴った。
まずい――。
飲み会はほぼ時間通りに終わった。誘われた二次会は断り、私は迎えに来ていた太田の車に乗る。車中はしんとしていて、空気が張り詰めていた。
太田の不機嫌の原因は木田だろうとすぐに察して、私はおずおずと口を開いた。
「今夜一緒に飲んだ中にいた男の人は、大学のゼミで一緒だった人たちで、何もないですから」
けれど太田はちらと私を横目で見たきり、何も言わない。そのまま無言で車を走らせて、誰もいない河川敷のひっそりとした広場に車を止めた。
「どうしてこんな場所に……」
怪訝に思ってつぶやく私に、太田はやはり何も答えない。黙ったまま自分と私のシートベルトを外し、車のライトを落とした。
「太田さん?」
おどおどと訊ねる私に太田は短く言った。
「お仕置きする」
「え?」
訊き返したと同時に太田の腕が私の体の上を越えたかと思ったら、助手席のシートがガタンと倒れた。
驚いている私の両手をつかんで上に持ち上げると、太田はひものような物で縛った。
「何するの、やめてっ」
「出張用のネクタイ、こないだクリーニングに出したやつ、車に置きっ放しにしてたんだ」
両手をはずそうとするが、ヘッドレストが邪魔になって動かせない。
「俺以外の男に色目を使ったバツだよ」
「色目って……。そんなことしてない」
しかし太田は私の言葉を無視する。
「だめ。俺だけ見てって言っただろ?もう忘れたのか?」
太田はそう言うと、私のブラウスの裾をまくり上げた。
「やめて……」
「やめないよ。これは笹本に分からせるために必要なことだから」
そう言って、太田は露わにした私の胸元に舌を這わせる。
「いやっ……」
太田は身じろぎする私の背を抱いた。
彼に抗い、私は脚を閉じようと力を入れる。
けれど彼はスカートの裾からもう一方の手を潜らせて、ショーツの中で指を滑らせた。
自分の意に反して声がもれる。
「あっ……」
「笹本がよそ見なんかするからいけないんだぜ」
「よそ見なんかしていない」
私は声を振り絞って反論した。けれど私の言葉は、太田の耳に届いていないようだった。
彼は私の体の柔らかい部分を、次々と執拗に強く吸っていった。ひとしきりキスマークを付けて満足したのか、ショーツの中に入れた指をさらに深い所で動かす。
「こんなに濡れてる」
太田の言葉に私は唇を噛んで声を押し殺し、恥ずかしさに顔を背けた。
彼はくすっと笑うと、私の耳に囁いた。
「今日はこれで勘弁してあげる。だけどこの疼きを鎮めてあげられるのは、俺だけだってこと、体で思い知って」
太田は優しい手つきで私の両手の拘束を解いた。私を抱き起こし、倒したシートを元に戻す。乱れた私の着衣を丁寧に直し、シートベルトをかけた。
「帰ろうか」
いつも以上に優しいその声に、私は怯えた。
これまで感じてきた違和感を「彼の愛ゆえ」と言い聞かせて自分を騙し、直視することを避け続けていた。けれどこの時改めて怖いと思う。そして確信した。こんなやり方は愛ではなく暴力だ。私のあれこれを把握しようとするのは、心配ではなく束縛だ。
別れたい――。
そのことを早く太田に伝えたいと思いつつも、きっかけをつかめないでいた頃だった。再会はないと思っていた学生時代の元恋人が、私の目の前に現われたのだ。