◆◆◆◆
「終わりましたね」
城咲の声で我に返るまで、健彦は動かなくなった凌空の遺体を抱いて泣いていた。
「さあ立って。あなたにはまだやることがあるはずです」
有無を言わさないその声に、健彦は小さく頷いた。
そして力と体温を失った凌空の身体を、晴子の脇に優しく寝かせると、ゆっくりと立ち上がった。
凌空の返り血が付いたのだろうか。
健彦のスーツは汚れていた。
しかしもう誰の目も気にすることもない。
すでに会社は2ヶ月前に退社していた。
城咲が市川家のリビングに忍び込んだ、あの日に―――。
健彦に準備させた合鍵ですでに自由に市川家に出入りしていた城咲は、慣れた様子で靴を脱ぐと、先導して市川家に入っていった。
************
あの日―――。
会議で必要な資料を家に忘れてしまった健彦は、昼休みに自宅に戻った。
駐車場に妻の車はなかった。
カギを開けようとしてふと異変に気が付いた。
施錠されていない。
紫音や凌空が帰っているのかと思いつつドアを開けた。
靴を脱ぎ、廊下を抜け、リビングに入ったところで何かに躓いた。
それはがむしゃらに壊された南京錠だった。
「―――っ!」
リビングに入ると、
聞いたことのない低い男の悲痛な叫び声がした。
真ん中のドアが開いている。
健彦は恐る恐る、その部屋をのぞき込んだ。
そこにはやせ細った体を抱きしめながら、悲鳴を上げる男が座り込んでいた。
「――誰だ……?」
疑問が唇をついて出ると、男は叫ぶのをやめて、ゆっくりと振り返った。
その顔は一生忘れることはできない。
人間が悪魔になった。
健彦はその瞬間の、
唯一の目撃者だった。
************
城咲に続き、リビングに入った。
晴子が掃除機をかけてくれたのだろうか。
部屋の中は健彦が出る前より綺麗に片付いていた。
城咲は迷わずにあの部屋の前に立った。
ダイヤル式の南京錠を外す。
彼が壊してからの2ヶ月間、誰もこれが新しいものに付け替えていることに気づかなかった。
それだけ皆、この部屋に関心がなかったし、この部屋の中にいる彼女に関わろうとしなかった。
城咲はカギを開けると、ドアを大きく開け放った。
酸っぱい糞尿の臭い。
黴びた布団の臭い。
3ヶ月分の手付かずの食料と水。
そんなものが残っているだけで、
「約束です」
城咲は備え付けのクローゼットに縛り付けられたネクタイを指さした。
それは、2ヶ月前、この惨状を目にした城咲が、泣きながら結んだものだった。
************
城咲は健彦に馬乗りに乗って首を絞めた。
その目から涙が流れ、城咲の高い鼻を伝って、自分の顔に何粒も落ちた。
首を絞められながら、健彦は懺悔をした。
それは、いつか誰かに言うことになるだろうと、ずっと準備していた言葉だった。
全ては自分が悪い。
自分たちが悪い。
だから、相応の罰を、
自分に、
家族に、
与えてくれ―――。
ーーーーーーー
ーーーー
ーー
「話は分かりました」
城咲は健彦の首から手を離すと、今までの激情が嘘のように冷静に立ち上がった。
顎に手を当て何かを考えていた城咲は、やがて動き出すと自分の首からネクタイをシュルシュルと解き、それをクローゼットに結び付けた。
そうしながら、自分は幼い頃、このマンションに住んでいた城咲律樹だと名乗った。
大人になってからこの街に帰り、初恋だった亜希子に挨拶をしようとしたところ、市川家の異変に気付いたと、
ホームセンターの花屋としてマンションを出入りしながら、慎重に情報を集めたと語った。
そして今日やっと、施錠していなかったチャンスをつかみ、侵入したのだと告白した。
「あなたにはこれから、僕に全面的に協力してもらいます」
彼はそう言うと、健彦を振り返った。
「そして、全てが終わった暁には、自分の命は、あんた自身がここで終わらせて下さい」
城咲は泣きはらした目で健彦を睨み上げた。
「いいですね」
彼が隣に越してきたのは、その1週間後だった。
************
あの日と同じようにスーツを着て、こちらを振り返った城咲を見つめる。
彼が、彼だけが、
亜希子を愛してくれた。
彼には、
何一つとして悪くない彼女を傷つけた自分たちを、
殺す権利があった。
誰が何と言おうと、
その権利を、
健彦は認めていた。