テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
祭りから数週間後、王宮誓約局の朝は相変わらず忙しかった。だが以前と決定的に違うことが一つある。記録を書く前に、本人の意思を確かめる聞き取りが正式に入るようになったのだ。
紙の正確さだけではなく、言葉を口にする人の顔を見る。黙った時には待つ。言い直したいなら言い直させる。シグリドが骨子を作り、ピエルジュゼッペが古い規定を掘り起こし、誓約局の書記たちは最初こそ戸惑ったが、次第にその意味を理解し始めた。整いすぎた正解より、少し不格好でも本人の言葉を残す。それが新しい決まりになっていく。
アーダも変わった。端の揃い方や綴りの正しさを疎かにはしない。けれど紙の向こうにいる人の声を、以前よりちゃんと聞くようになった。相手がためらえば、その沈黙にも理由があると考える。正確であることと、心を救うことは、似ていても同じではないと知ったからだ。
ヴォロジャもまた変わった。困りごとがあれば今までどおり手を貸す。だが、誰にでも同じ顔をするのではなくなった。アーダが重い帳面を抱えていれば先に受け取り、昼を抜こうとすれば黙って皿を寄せ、疲れた顔を見れば言葉少なに窓を開ける。そのひとつひとつが、もう誰にでも向けられるものではないとわかる。
脇の人々も、それぞれの持ち場で前へ進んでいた。パスコのにんにく蜜菓子は「厄払いに効くのに妙にうまい」と評判になり、ついに祭りの正式菓子候補にまでなった。ミッシーはその箱を抱えて今日も誓約局と港を走り回っている。ナサンは物流の流れを見直し、控えの抜けた荷をその場しのぎで通さない仕組みを作った。ブランウェンは断崖礼拝堂の補修を進め、崖道は以前よりずっと安全になった。アンフリーデの悲壮感あふれる恋愛肖像画は、なぜか「見ると愛が長持ちする」と噂され、王都の珍品扱いで人気を呼んでいる。アリツはそれを笑いながら眺め、「今回は譲る」と大げさにため息をついた。
ある日の仕事終わり、ヴォロジャがアーダを港の高台へ連れ出した。白鴎婚礼祭の喧噪はとうに去り、海は穏やかだった。夕方の光のなかで、かもめの群れが白く旋回している。最初に鎖の騒ぎが起きた頃とは、同じ景色なのに色合いが違って見えた。
「ここへ来たかった」
ヴォロジャが言う。
「最初に鎖が鳴った日から、ずっと落ち着かない場所だったが、今は違う」
アーダは笑った。
「私はまだ、あの日のにんにくの匂いを思い出します」
「俺はお前が長卓ごと倒れたところを覚えている」
「忘れてください」
「無理だ」
そう言って少し笑う彼の顔を見ていると、あの回廊で傷ついた夜さえ、遠い波音みたいに思えた。痛みが消えたわけではない。ただ、それを越えてここまで来たのだとわかる。
アーダの掌には、あの日残った小さな銀環があった。指輪ではない。けれど指先で触れるたび、鎖だった頃よりずっとやさしい重みを返してくる。
ヴォロジャは海の方を見たまま、今度は逃げなかった。
「好きだ」
短い言葉だった。だが、もう十分だった。
「もう誤魔化さない。誰にでも、じゃない。お前に手を差し出したい」
アーダは返事の前に、少しだけ笑ってしまった。嬉しくて、照れくさくて、胸の奥がまたふわふわしたからだ。
「私もです」
それだけで充分だった。かもめがひときわ高く鳴き、海風が二人のあいだを抜ける。災いだと思っていた鎖は、振り返れば、本当の行き先を示す道標だったのかもしれない。
二人は並んで立ち、王都の屋根の向こうへ沈んでいく夕日を見送った。もう石門を叩く不穏な音はしない。代わりに、未来の扉が静かに開いていく気配だけがあった。