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第3話 夏域の温泉
夏域へ向かう移動車の窓に、光を受けた湖が広がった。
湖面は風に押され、細かな波を幾重にも重ねていた。遠くには低い丘が連なり、その斜面を緑の木々が覆っている。
春域を出たときには柔らかかった空気が、境界を越えた途端に変わった。
湿った熱が窓越しにも伝わってくる。
美咲が座席から身を乗り出した。
「湖、大きい。向こう岸が見えないよ」
「四季星で三番目に広い湖です」
前方の席に立ったリセラが答えた。
「本日の宿は湖畔にあります。到着後は休憩を挟み、冷感温泉へご案内します」
「冷感温泉って、本当に冷たいの?」
陽菜が首を傾げる。
「入浴する方の体温や疲労に合わせて調整されます。冷たすぎると感じることはありません」
直人は窓の外からリセラへ目を移した。
「一人ずつ温度が違うんですか」
「はい。同じ浴槽に入っていても、肌に触れる湯の温度は異なります」
「どうやって?」
「湖底から採取される微細な生物と、温度調整装置を組み合わせています」
陽菜の目が輝いた。
「生き物が温度を変えるの?」
「正確には、身体の熱を受け取って移動させます」
「触ってみたい」
「肉眼では見えないほど小さいため、観察施設で拡大映像をご覧いただけます」
陽菜は勢いよくうなずいた。
隣に座っていた蓮が、窓を少しだけ開けた。
風が車内へ流れ込む。
湖の匂いに、草と土の匂いが混じっていた。
「地球と似てる」
小さな声だった。
悠斗が振り向く。
「湖が?」
蓮は窓の外を見たまま答えた。
「夏の匂いが」
それだけ言うと、また黙った。
美咲が微笑み、開いた窓へ顔を近づけた。
「本当だ。ちょっと懐かしい」
ノトが胸元の端末へ指を滑らせた。
その動きは一瞬だった。
悠斗は何気なく視線を向けたが、端末の表示はすぐに消えた。
数字のようなものが並んでいた気がした。
移動車は湖沿いの道を進み、やがて木々の間へ入った。
日差しが葉に遮られ、車内の温度が少し下がる。
道の先に、旅館が現れた。
横に長い建物で、湖へ向かって幾つもの部屋が並んでいる。屋根は深い茶色で、壁は淡いベージュだった。
入口には水が流れる細い溝があり、その中を小さな花びらが漂っていた。
車を降りると、熱を含んだ風が五人を包んだ。
直後、入口の床から涼しい風が立ち上がる。
「うわ、気持ちいい」
美咲が足を止めた。
風は足元から膝へ、腰へとゆっくり昇ってくる。
汗が引いていく。
悠斗も思わず息を吐いた。
リセラが五人の反応を見渡す。
ノトはまた端末へ触れていた。
旅館の中へ入ると、外の熱が嘘のように遠ざかった。
床は冷えすぎておらず、裸足で歩くと足裏に柔らかな涼しさが伝わる。壁際には細い水路が続き、透明な水の中を丸い葉が流れていた。
「館内の温度は、皆さんの体調に合わせて変化します」
リセラが説明する。
「現在は少し移動疲れが見られるため、通常より低く設定されています」
直人が眉を寄せた。
「移動疲れが見えるんですか」
「座席が呼吸や筋肉の緊張を測定していました」
「春域の椅子と同じ仕組み?」
「近いものです」
案内された部屋は、湖に面した大きな窓を持っていた。
畳に似た柔らかな床材が敷かれ、中央には低い机が置かれている。窓際には五つの椅子が横一列に並んでいた。
陽菜が真っ先に窓へ駆け寄った。
「見て。船が浮いてる」
湖には細長い船が何隻も進んでいた。
帆の代わりに、大きな葉のような板を立てている。風を受けるたび、板の表面に緑の光が走った。
「観光船です。夕方に乗る予定になっています」
「予定がいっぱいだ」
美咲が机の上に置かれた案内板を手に取った。
板には一日の流れが表示されている。
休憩。
冷感温泉。
湖上散策。
夕食。
花火観覧。
予定の横には、小さな丸印が幾つも並んでいた。
そのうち幾つかはすでに色が変わっている。
悠斗が案内板を覗き込んだ。
「この丸は何ですか」
リセラは一拍置いて答えた。
「体験の調整状況です」
「まだ体験していないのに?」
「皆さんの好みを予測し、先に準備しています」
直人が案内板を手に取った。
丸印の隣に、細かな数字が表示されている。
彼が指を近づけると、表示は消えた。
「今の数字は?」
「施設側の管理情報です」
リセラの声は穏やかだった。
直人は案内板を机へ戻した。
「客に見せられないものなら、最初から表示しなければいい」
ノトが小さく頭を下げる。
「表示設定の確認不足です。申し訳ありません」
美咲が直人の肩を軽く叩いた。
「まあまあ。せっかく来たんだし、温泉に行こうよ」
直人は答えなかった。
窓の外では、湖を渡る風が木々を揺らしていた。
冷感温泉は、旅館から歩いて数分の場所にあった。
森を抜けた先に、岩で囲まれた大きな浴場が広がっている。
屋根はなく、頭上には夏の光が降り注いでいた。それでも浴場の周囲には薄い霧が漂い、肌へ触れる風は涼しかった。
五人は専用の入浴着へ着替え、同じ浴場へ入った。
足先が湯へ触れた瞬間、美咲が声を上げる。
「冷たい。でも、すぐ慣れる」
悠斗もゆっくり足を沈めた。
最初は湖水のようにひやりとした。
次の瞬間、冷たさが肌の表面だけを滑り、身体の奥には柔らかな温かさが残った。
胸まで浸かる。
肩の力が抜けた。
息を吐くたび、身体の内側にたまっていた熱が湯へ溶けていく。
「不思議だな」
悠斗は腕を持ち上げた。
水滴が肌を伝い、その跡だけが涼しい。
陽菜は浴槽の中を歩き回っていた。
「こっちは少し温かい。あ、蓮の近くだともっと冷たい」
「俺が熱いからじゃないか」
蓮が岩に背を預ける。
「筋肉量の違いかも」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
美咲が笑い、湯を軽く跳ねさせた。
飛沫が陽菜の肩に当たる。
陽菜もすぐにやり返した。
湯の中に小さな波が広がる。
直人は浴槽の端に座り、岩の隙間を見ていた。
「何を見てる?」
悠斗が近づく。
直人は声を落とした。
「さっきから、あれが動いてる」
岩の間に、小さな透明板が埋め込まれていた。
表面には細い線が走り、五人が動くたびに光の点が移動している。
「温度を調整する装置じゃないか」
「それだけなら、人数と位置が分かれば十分だ」
直人は目を細めた。
透明板には五つの印が表示されていた。
印の横で数字が変化している。
悠斗が身体を岩へ預けると、数字が大きく上がった。
姿勢を戻すと、少し下がる。
もう一度肩の力を抜く。
また上がる。
「俺の動きに反応してる」
直人がうなずいた。
「たぶん、全員分ある」
二人が岩の隙間を見ていると、ノトが浴場の外から近づいてきた。
「何か問題がありましたか」
悠斗は透明板を指した。
「これは何を測っているんですか」
ノトの丸い瞳が板へ向く。
「体温、心拍、筋肉の緊張です」
「それだけ?」
「安全な入浴のために必要な情報です」
直人が立ち上がった。
「数字が急に増えたのはなぜですか」
「身体の熱が短時間で移動したためです」
「俺たちの位置を示す印の横に出る必要がある?」
ノトの指が胸元の端末へ伸びた。
「表示が見えにくいよう調整します」
「見えなくする話じゃない」
直人の声が少し強くなる。
浴場の奥で、美咲と陽菜の笑い声が止まった。
蓮も岩から背を離した。
リセラが歩いてくる。
「高瀬さん。測定に不安がありますか」
「不安というより、説明が足りないと思っています」
「地球の方にはなじみのない仕組みです。すべてを一度に説明すると、かえって負担になると判断しました」
「聞いたことには答えてください」
リセラは直人を見つめた。
水色の瞳がわずかに細くなる。
「安全管理のための数値です」
「それ以外には使わない?」
「旅行を快適にする目的で使います」
答えは似ていたが、同じではなかった。
直人は口を閉じた。
リセラが手を差し出すと、岩の隙間にあった透明板の表示が消えた。
霧だけが残った。
「入浴時間はあと二十分です。身体が冷えすぎないよう、ご注意ください」
リセラとノトが離れていく。
美咲がそっと近づいた。
「直人、大丈夫?」
「俺は大丈夫」
「ちょっと怒ってた」
「怒ってない」
「怒ってる人は、だいたいそう言うよ」
美咲が湯の中で膝を抱えた。
直人は困ったように顔をそらす。
蓮が短く息を吐いた。
「気になるのは分かる」
直人が蓮を見る。
「春域でも、眠った時間や呼吸を記録されてた。説明はあったけど、細かすぎる」
陽菜も口元へ手を当てた。
「昨日、私が寝たあとも、係の人が椅子のそばにいたって美咲が言ってた」
「起こさないように見守ってたんじゃない?」
美咲が言いながら、自分でも確信が持てない顔をした。
悠斗は湯の表面を見つめた。
細かな波の下で、自分の指先が揺れている。
「今は旅行を楽しもう」
直人が悠斗へ視線を向けた。
「気にするなってこと?」
「違う。気になることは覚えておく。でも、全部を疑っていたら何も見えなくなる」
少しの間、誰も話さなかった。
やがて陽菜が、両手で湯をすくった。
「この温泉が気持ちいいのは本当だよ」
両手の間から水がこぼれる。
「記録されてても、気持ちいいものは気持ちいい」
美咲が笑った。
「それはそう」
蓮も岩へ背を戻した。
「あと二十分しかない」
直人は肩を下げ、浴槽へ座り直した。
「分かった。でも数字は覚えてる」
「どのくらいだった?」
悠斗が聞く。
「君が力を抜いたとき、七十二から百三十八に上がった」
「何の単位だろう」
「分からない」
美咲が悠斗の肩を見る。
「もう一回力を抜いてみたら?」
「表示は消されたよ」
「じゃあ、気持ちだけ」
「難しい注文だな」
五人の間に笑いが戻った。
浴場の外では、ノトが端末へ指を走らせていた。
一度消えた数字が、別の画面に並んでいく。
悠斗、百四十一。
美咲、百五十九。
直人、四十八。
陽菜、百七十二。
蓮、百二十六。
その横に、短い文字が表示された。
安心反応。
温泉を出た五人は、湖上散策へ向かった。
観光船は岸へ静かに着いていた。
船体は木に似た素材で作られ、屋根には大きな葉の板が広がっている。座席は向かい合わせに並び、中央には冷たい飲み物が用意されていた。
船が岸を離れる。
水を切る音は小さく、揺れもほとんどない。
美咲は果実の飲み物を一口飲み、目を丸くした。
「甘いのに、あとから少し酸っぱい」
「夏域で採れるミルナの実です」
リセラが答える。
「暑い時期には、身体が必要とする成分が増えます」
陽菜が容器を光へかざした。
液体の中に細かな粒が漂っている。
「これも生き物?」
「それは果肉です」
「あ、普通なんだ」
悠斗が笑う。
船は湖の中央へ進んだ。
岸の旅館が少しずつ小さくなる。
周囲には湖と丘しか見えなくなった。
風が頬をなでる。
春域の花の香りとは違う、湿った草と水の匂い。
蓮は座席の背へ身体を預け、目を閉じた。
美咲が小声で言う。
「また記録されるかも」
蓮は目を閉じたまま答えた。
「好きにさせればいい」
「気にならない?」
「気にしたら休めない」
「強いね」
「疲れてるだけ」
船の後方で、ノトが端末を操作している。
直人は視線だけを向けた。
端末の端に数字が見えたが、距離があり読めない。
船は湖上に設けられた小さな浮島へ近づいた。
浮島には木が一本だけ生えている。
枝から細長い実が垂れ、風に揺れるたび澄んだ音を鳴らした。
「音の実です」
リセラが言った。
「熟すと表面が硬くなり、風を受けて音を鳴らします」
陽菜が身を乗り出す。
「楽器みたい」
「夏域では、夜の合図にも使われます」
船が木の近くを通る。
幾つもの実が同時に鳴った。
高い音。
低い音。
短い音。
風が枝を渡るたび、湖の上に旋律が生まれる。
美咲は飲み物の容器を膝に置き、耳を澄ませた。
蓮も目を開ける。
直人でさえ、端末から視線を外した。
音は同じ形を繰り返さなかった。
風が作り、湖が受け取り、遠くへ運んでいく。
悠斗は胸の奥がゆるむのを感じた。
何も考えず、ただ聞いていた。
船が浮島を離れても、音は背後から追いかけてきた。
そのとき、座席の下で小さな音がした。
直人が足元を見る。
薄い板がわずかに光っている。
五つの線が並び、どれもゆっくり上昇していた。
直人は誰にも言わず、板へ足を重ねた。
光が隠れる。
向かいに座る悠斗と目が合った。
直人はわずかに顎を引いた。
悠斗も小さくうなずいた。
旅館へ戻ると、夕食の準備が整っていた。
湖を眺められる広間に、五人分の料理が並んでいる。
冷やした麺。
焼いた川魚。
薄く切った果実。
香草を浮かべた汁物。
地球の料理に似ているものもあれば、初めて見るものもあった。
美咲は細長い葉で包まれた料理を開いた。
中から湯気が立ち上がる。
「これ、何?」
「湖底で育つ根菜を蒸したものです」
リセラが答える。
「甘みがあります」
美咲が一口食べる。
すぐに頬が緩んだ。
「おいしい」
ノトの指が端末へ触れる。
直人が箸を止めた。
悠斗は黙って料理を口へ運んだ。
陽菜は気づいていないのか、次々と皿を覗き込んでいる。
「この魚、骨がない」
「骨を柔らかくする葉と一緒に焼いています」
「全部食べられる?」
「はい」
陽菜は頭から魚をかじった。
美咲が驚いて目を見開く。
「本当に全部いった」
「食べられるって言ったから」
「そうだけど、勢いがすごい」
蓮も魚へ箸を伸ばす。
「うまい」
短い言葉に、料理を運んでいた係員が顔を明るくした。
直後、係員の手首につけた輪が光った。
数字が一つ増える。
直人は見逃さなかった。
「今、何が増えたんですか」
係員の動きが止まる。
「何のことでしょう」
「手首の表示です」
係員は輪を袖で隠した。
リセラが間へ入る。
「業務の達成度です」
「蓮がおいしいと言った直後に増えました」
「料理への満足が確認されたためです」
蓮が箸を置いた。
「言わない方がよかった?」
係員が慌てて首を振る。
「いいえ。とてもありがたい言葉です」
「ありがたいから数値が増える?」
「接客が適切だったという評価です」
直人は係員の手首を見た。
「誰が評価してるんですか」
「施設の管理機構です」
「本人が自分で記録してるように見えた」
リセラの声が少し低くなる。
「食事中です。質問は後ほどお答えします」
直人は箸を机へ置いた。
「後ほどって、いつですか」
悠斗が直人の腕へ手を伸ばした。
「今は食べよう」
「またそれか」
「違和感を持つのは自由だ。でも係の人を追い詰めても答えは出ない」
直人の唇が動き、言葉を飲み込む。
係員は頭を下げ、広間を出ていった。
入口の向こうで、ノトと短く話している。
二人とも端末を見ていた。
美咲が汁物を一口飲んだ。
「冷めるともったいないよ」
陽菜が魚を食べ終え、静かに箸を置く。
「直人が気にするのも分かる」
広間が静かになった。
窓の外では、湖の向こうへ夕日が沈みかけていた。
水面に長い赤の帯が伸びている。
蓮が焼いた根菜を口へ入れた。
「うまいものは、うまい」
美咲が小さく笑う。
「今日、そればっかり」
「他に言い方がない」
悠斗も箸を動かした。
「聞くなら、五人で整理してからにしよう」
直人はしばらく料理を見ていたが、やがて箸を持ち直した。
「分かった」
リセラは五人のやり取りを見つめていた。
その瞳の奥に、ほんのわずかな迷いが浮かんだ。
だが次の瞬間には、いつもの穏やかな表情へ戻っていた。
夜。
旅館の裏手にある観覧庭へ、五人は浴衣に似た館内着で向かった。
湖から吹く風は涼しく、昼の熱はほとんど残っていなかった。
道沿いには光る植物が並んでいる。
丸い葉の縁が黄緑に輝き、足元を柔らかく照らしていた。
陽菜がしゃがみ込む。
「触っていい?」
「優しくなら」
リセラが答える。
陽菜が葉へ指を置く。
触れた場所から光の輪が広がった。
美咲も隣の葉に触れる。
二つの光が重なり、道の上に波のような模様を作った。
蓮が少し遅れて葉へ手を伸ばす。
三つ目の光が加わる。
「悠斗も」
美咲に呼ばれ、悠斗も触れた。
最後に直人がためらいながら指を置く。
五つの光がつながった。
道沿いの植物が一斉に輝く。
観覧庭まで続く線が、五人を導くように伸びていった。
「きれい」
陽菜の声が風へ混じる。
悠斗は道の先を見た。
湖畔には低い椅子が五つ並び、その後ろにリセラとノトの席がある。
椅子の間隔まで整えられていた。
五人が座ると、背もたれが身体へ合わせてゆっくり動いた。
冷たい風が足元から流れる。
美咲が深く息を吐く。
「今日はずっと気持ちいい」
蓮が湖を見つめる。
「地球に帰ったら、夏が暑く感じそうだ」
「まだ三週間くらいあるよ」
陽菜が言った。
「春域が一週間で、夏域が始まったばかりだから」
「長いようで短いかも」
美咲が膝の上で手を組む。
「一か月も一緒にいたら、帰る頃には家族みたいになってたりして」
直人が横を見る。
「それは言いすぎ」
「じゃあ親戚」
「距離が微妙になった」
悠斗が笑った。
蓮の口元も少しだけ上がる。
その瞬間、後ろで端末の音が鳴った。
直人が振り向く。
ノトが急いで表示を消す。
「今の音は?」
「花火開始の合図です」
ノトが答えた直後、湖の中央から一本の光が昇った。
遅れて、大きな音が夜を揺らす。
花が開くように、赤と紫の光が広がった。
湖面にも同じ形が映る。
陽菜が立ち上がりかけ、椅子に引き戻された。
「すごい」
二発目が昇る。
黄緑の光が輪になり、その内側を小さな水色の粒が走った。
三発目。
幾つもの細い光が上から下へ流れ、湖へ届く前に消える。
美咲は両手を胸元で重ねた。
「地球の花火と似てるけど、消え方が違う」
「煙が少ない」
悠斗が言う。
「湖の生き物へ影響を与えない材料で作られています」
リセラの説明も、今だけは遠く聞こえた。
花火は次々と夜へ昇った。
丸く広がるもの。
鳥の羽のように開くもの。
水面を走るもの。
音が鳴るたび、胸の内側まで震える。
蓮は椅子へ深く腰を下ろし、目を細めていた。
「昔、家族と見た」
誰に向けたわけでもない声だった。
美咲がそっと聞く。
「花火?」
「小さい頃。河原で」
「覚えてるんだ」
「ずっと忘れてた」
花火の光が蓮の横顔を照らす。
彼はまばたきをせず、湖を見ていた。
次の花火が開いた瞬間、蓮の頬を何かが伝った。
蓮はすぐに手の甲で拭う。
誰も何も言わなかった。
陽菜が少しだけ椅子を寄せる。
美咲も反対側から近づいた。
悠斗は前を向いたまま、蓮の肩へ軽く手を置いた。
直人も何も尋ねなかった。
五人は並んで花火を見た。
その後ろで、ノトの端末に数字が跳ね上がった。
蓮、三百八十六。
集団共感、二百十一。
安心維持、良好。
ノトの指が震える。
記録を送信しようとしたとき、リセラがその手首をつかんだ。
ノトが驚いて顔を上げる。
リセラは五人の背を見ていた。
「少し待って」
「ですが、即時送信の決まりです」
「花火が終わってからでいい」
「遅延として残ります」
「私の判断として記録して」
ノトは迷った末、端末を伏せた。
リセラは手を離した。
花火の音が再び響く。
今度は湖全体が光に包まれた。
水面から細い光が幾つも立ち上がり、頭上の花火とつながる。
上下から伸びた光が中央で重なり、大きな樹の形になった。
枝の先に小さな花が咲く。
陽菜が息をのむ。
「春域みたい」
美咲の瞳に光が揺れる。
「四つの季節がつながってるんだ」
悠斗は花火を見上げた。
旅行へ来る前、五人は互いの名前さえ知らなかった。
それが今は、誰かが涙を流したとき、理由を尋ねず隣へ寄れる。
四季星人の目的が何であっても、この時間まで偽物になるわけではない。
そう思いたかった。
最後の花火が開く。
大きな光が夜を覆い、ゆっくりと消えていく。
湖にはしばらく揺れる光だけが残った。
部屋へ戻った五人は、窓際に集まっていた。
寝具はすでに用意されている。
冷たい茶と、小さな果実も置かれていた。
美咲が床へ座り、足を伸ばす。
「楽しかった」
陽菜も隣へ座る。
「温泉、もう一回入りたい」
「明日の朝にも予約されています」
悠斗が案内板を見ながら答えた。
「朝の湖も見たいな」
蓮は窓のそばに立ち、外を見ていた。
花火は終わったが、湖畔の植物が黄緑に輝いている。
直人は部屋の扉を閉め、鍵をかけた。
「少し話したい」
美咲が振り向く。
「記録のこと?」
直人はうなずいた。
机の上へ、小さな板を置く。
船の座席下にあったものと似ていた。
悠斗が目を見開く。
「どこで見つけた」
「船を降りるとき、座席の隙間から外れてた」
「持ってきたの?」
陽菜が板へ顔を近づける。
「勝手に持ってくるのはまずいよ」
「明日返す。その前に見たい」
直人が板の端へ触れる。
何も起きない。
別の場所を押すと、薄い光が表面へ広がった。
五つの線が現れる。
それぞれの横に名前が表示された。
朝倉悠斗。
藤原美咲。
高瀬直人。
結城陽菜。
真田蓮。
美咲の表情から笑みが消えた。
「名前まで入ってる」
陽菜が指を伸ばす。
「この数字、温泉でも見た」
悠斗は画面を見つめた。
線の横には、時間ごとの変化が記録されている。
旅館へ到着したとき。
冷感温泉へ入ったとき。
船で音の実を聞いたとき。
夕食を食べたとき。
花火を見たとき。
蓮の数字だけ、花火の途中で大きく上がっていた。
蓮が板を見下ろす。
「俺が泣いたときか」
誰も答えなかった。
直人が画面を横へ動かす。
文字が現れる。
安心。
緊張。
警戒。
感動。
共感。
休息。
「感情を記録してる」
陽菜が呟いた。
美咲は自分の腕を抱いた。
「安全管理じゃない」
悠斗が直人を見る。
「他に何がある?」
「今のところはこれだけ」
直人がさらに画面を動かす。
端に細かな記号が並んでいる。
その中に、見慣れない印があった。
五人の名前の横に、それぞれ違う数値がついている。
悠斗、二千八百。
美咲、三千百。
直人、千九百。
陽菜、三千四百。
蓮、五千七百。
「何の数字だろう」
陽菜が聞く。
「分からない」
直人は蓮の数値へ触れた。
画面に短い文字が出た。
反応価値。
蓮の眉が動く。
美咲が息を止める。
「価値って、何」
直人は答えず、表示を閉じた。
部屋の外を誰かが通った。
五人の身体が同時に固まる。
足音は扉の前で止まった。
控えめな音が響く。
「皆さん、起きていますか」
リセラの声だった。
直人は板を寝具の下へ滑り込ませた。
悠斗が扉へ向かう。
「起きています」
「夜の飲み物をお持ちしました」
机の上にはすでに茶がある。
悠斗は鍵へ手をかけたまま、動きを止めた。
直人が首を横に振る。
「もう用意されています」
悠斗が扉越しに答える。
「ありがとうございます。今ある分で十分です」
短い沈黙。
「分かりました。何か必要になりましたら、呼び出し板へ触れてください」
足音が遠ざかる。
誰もすぐには動かなかった。
美咲が小声で言う。
「板がなくなったことに気づいたのかな」
「たぶん」
直人が寝具の下を見た。
陽菜は窓の方へ近づき、外を確認する。
湖畔の道に、ノトが立っていた。
胸元の端末を見ながら、旅館の窓を一つずつ見上げている。
陽菜はすぐに身を引いた。
「外にもいる」
蓮が部屋の明かりを少し落とした。
五人は机を囲む。
楽しかった一日の終わりに、冷たいものが混じっていた。
それは温泉の涼しさとは違う。
肌ではなく、胸の奥へ触れる冷たさだった。
悠斗は声を抑えた。
「今日はこれ以上触らない方がいい」
直人は不満そうだったが、うなずいた。
「朝になったら返す?」
美咲が聞く。
「落ちていたことにして返す」
「中を見たことは?」
「言わない」
陽菜が寝具の下へ視線を向ける。
「でも、向こうは見たことまで分かるかもしれない」
誰も否定できなかった。
蓮が窓の外を見る。
「明日から、見る側を見よう」
悠斗が蓮を見る。
蓮の声は静かだった。
「俺たちばかり見られてる。次は、向こうが何をしてるか見る」
直人が初めて少し笑った。
「それなら賛成」
美咲が膝を抱える。
「旅行、楽しめるかな」
陽菜が隣へ寄る。
「楽しみながら見るしかないよ」
悠斗は五人の顔を順に見た。
春域では、ただ招待された客だった。
夏域では、見られている客になった。
それでも旅は続く。
湖の向こうで、最後の光が静かに消えた。
廊下の奥。
リセラは壁際に立ち、端末へ表示された警告を見ていた。
湖上記録板、通信停止。
位置情報、客室内。
ノトが隣で唇を噛む。
「回収しますか」
「今入れば、疑いが深くなる」
「ですが、記録内容を見られます」
「もう見ているかもしれない」
リセラは五人の部屋の扉へ目を向けた。
扉の向こうから声は聞こえない。
ノトが端末を操作する。
「本部へ報告します」
リセラは止めなかった。
画面には、五人の今日の数値が並んでいた。
安心反応。
感動反応。
集団結合。
記憶刺激。
その下に、本部から届いた短い指示が表示される。
警戒値の高い一名を優先観察。
対象、高瀬直人。
リセラの指先がわずかに震えた。
ノトは気づかない。
「明日の冷感温泉は予定通りでよいでしょうか」
リセラは端末を閉じた。
「予定通りにします」
「観察項目は増やしますか」
廊下の窓から、湖が見えた。
花火の名残はもうない。
静かな水面だけが広がっている。
「増やさなくていい」
「本部の指示と異なります」
「夏域の責任者は私です」
ノトは何も言わず、頭を下げた。
リセラは五人の部屋へ背を向ける。
歩き出した足は、いつもより少しだけ重かった。
その夜。
五人の記録には、新しい項目が追加された。
疑念。
数値は、ゆっくりと上昇を始めていた。
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うわ、夏域の温泉エピ、めちゃくちゃ良かった……! まず温度が人によって変わる冷感温泉、発想が好きすぎる。「気持ちいいのに記録されてる」ってジレンマがずっとあって、観光の楽しさと監視の違和感が絶妙に混ざってた。特に直人が端末の数字に食い下がるシーンは、読んでてこっちまで息止める。蓮が花火で涙したとき、誰も何も言わずにそっと寄り添う空気感、泣ける。そしてリセラが最後に「待って」って止めるの、何か事情ありそうで続きが気になるわ。5人の絆がじわじわ育ってるのも熱い。
151
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松下一成
77
ruruha
1,713
柘榴とAI

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