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その子は、入ってくるなり笑った。唇だけが笑っていた。
「ここ、先生に言われて来たんです。たぶん、私じゃなくて……“あの人”の方が病んでると思うんですけどね」
膝の上で手を組んだまま、彼女は一度も遥を見なかった。
「“あの人”って誰」
遥が訊ねると、彼女の指先が震えた。
「お父さん、かな……。でも、なんか、家にいるときは“お父さん”じゃない感じで……なんか、“人”って感じじゃなくて……」
言葉が途切れるたびに、沈黙が室内を満たす。遥はその沈黙を壊さずに待った。すると彼女は、まるで壊れたラジオのようにぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「“大人だから触っていい”って思ってるのかな……。最初は頭撫でるくらいだったのに。最近、寝てると布団に入ってきて、背中とか……あ、いや、別に“そういうの”じゃないですから。ほんとに。勘違いですよ、たぶん」
「お前が“勘違い”だって思わなきゃいけない理由、何」
遥の声は、少しだけ低くなっていたかもしれない。
彼女は笑った。声を出さずに。
「ねえ、変な話していいですか? 私、触られてるとき――自分の身体を外から見てるような気がするんです。『ああ、ここに私がいるな』って。でも、ぜんぜん痛くないし、嫌でもない気がするんですよ。“感じない”って、楽ですよね」
その言葉を、遥は否定しなかった。
代わりに、小さく言った。
「“感じない”ようにしてるから、壊れずにいられるんだよ。だから、お前は生きてる」
「……なんでそんなこと、わかるんですか?」
「俺も、“人間”のフリしてたから」
そのとき初めて、彼女は遥の目を見た。笑っていなかった。
数秒の沈黙が、ただの無言ではなくなっていた。
冷たい夜の底に、何かが沈んでゆくような気配だけが、相談室に漂っていた。
「……さ」
遥が、声を落とした。
少女の伏せられた睫毛の先を見つめたまま、目を逸らさず、しかし追いつめることもせずに。
「誰にも話してないんだろ、それ」
少女は頷かなかった。否定もしなかった。
ただ、机の下に置かれた手の指先が小刻みに震えていた。
「無理に話せなんて、言わない」
「……でも」
遥は、言葉を選んでいた。慎重に。
崩れかけた橋を、相手を傷つけずに渡るように。
「もし、誰かに――“助けて”って言いたかったことがあるなら……ここに置いていけよ。それだけで、いい」
少女は、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「……助けて、なんて、言えると思ってた」
小さな声だった。でも確かに、震えとともに耳に届いた。
「でも、私が“黙ってたから”、あの子が代わりに……」
言葉が、喉の奥で詰まった。
遥は、その続きを問わなかった。
言わなくても、わかることがある。
その沈黙がすべてを語ることも、ある。
「誰も、信じてくれなかった。先生も。親も」
少女の声は静かだったが、その奥には焼け焦げたような悔しさが見え隠れしていた。
「“あなたにも隙があった”って言われた。……変わらなきゃって思ったけど、変われなかった。……変わらないのは、私が“弱い”からだって」
「違う」
遥の声は、はっきりとしたものだった。
迷いもなく、遮るように。
「違うよ、それは。変われないことが悪いんじゃない。変わらなきゃいけない状況にされた時点で、もう十分壊されてる」
少女の目に、ふっと揺らめきが射した。
それが涙かどうかはわからない。
「……君が弱いんじゃない。誰かが君の弱さを“標的”にした。それだけだ」
やっと、少女の指が、机の端を掴んだ。
細いその手は、まだ震えていたが、少しだけ力が入っていた。
「ここに来たこと、誰にも言わない」
「……何も背負わせない。ただ、今日ここで話していったことだけは……ちゃんと受け取る」
少女は静かに席を立った。
そして、扉の前で一度だけ振り返った。
「……ありがとう。……言っていい言葉か、わからないけど」
遥は、ほんのわずかに目を細めた。
「別にいいよ。誰が言っても。……ちゃんと届いた」
ドアが静かに閉まったあと、また沈黙が部屋を包んだ。
でもそれは、先ほどまでとは少し違う――
ほんのわずかに、息ができるような、静かな夜の空気だった。