「あらまあ、ひどく、はれてるわ」
「おお、タマ、頭が、2つになっとるぞ?!」
「もう……髭モジャ様、その、たとえ、すごく、わかりにくいです……」
はあーと、大きく息をつくタマは、床から起き上がる気配がない。
「……なあ……髭モジャよ」
少し良いかと、崇高《むねたか》が、手招く。
「どうした、崇高よ」
「どうもこうも、髭モジャ、お前は、何ともないのか!」
犬が喋っておるだろううがっ!さっきまで、死んでいただろうがっ!と、崇高は、声を荒げた。
「いや、まあ、崇高よ、主の気持ちも、よーわかるがのぉー」
と、髭モジャは、落ち着いているが、それが、また、崇高を逆撫で、動揺させたようで、何故か、髭モジャに、掴みかかってきた。
「もう、おじさんたち、静かにしてよー、タマ、生きてるし、だから、喋るんでしょ?それより、こんな目に合わせた仇をとってやろうとか、そーゆーの、ないんですかっー、もう、タマだから、いいだろうって、そうなんでしょ?そうだよ、絶対、タマのことなんか、ただの、犬扱いなんだよー」
いや、犬じゃろうが?タマは?と、不思議そうに、愚痴るタマへ向かって、髭モジャが、また、愚痴る。
「もう、わかりました!」
常春《つねはる》が、耐え難いとばかりに叫んだ。
「タマ、お前も、見切ったならば、一所に来れば良い!」
えっ、と、兄の背におぶさっている紗奈《さな》と、床に伸びて愚痴っているタマが、同時に声を立てた。
「紗奈、お前の犬嫌いは知っているが、タマも、タマなりに、ひどい目にあっている」
見てごらんと言う、常春の視線をたどると、タマが蹴り飛ばされてぶつかった柱には、大きなヒビが入っていた。
「ありゃー、ほんに、こりゃー、ひどい。普通の子犬なら死んでいるぞ!」
と、髭モジャが、驚き、その襟元を付かんでいる崇高は、だから、子犬の死骸があると思うたのだろうが!と、髭モジャを、揺さぶっている。
「うそ、タマ、大丈夫なの?!お前も、一緒に来なさい!こんな目に、何回合えばいいのよっ!」
紗奈も叫ぶが、はっと、息を飲む。
「うん、わかっている。紗奈……」
「兄様……」
胸の内を、代弁するかのような、常春の呟きに、紗奈は、そのまま、押し黙ってしまった。
「……気にすることはないわ」
橘が、そっと、二人に声をかけた。
「私達が、守満《もりみつ》様と、守恵子《もりえこ》様をお守りするから、安心なさい」
「橘様……」
言い含む、紗奈の背を押すかの様に、橘は続けた。
「これでも、昔は、中堅どころの女房で、御屋敷の揉め事も、もちろん、色々な、殿方のご希望も受けてきたのよ、紗奈、いえ、上野様、あなたより、上手ですよ?」
ふふふと、笑う橘の声に、髭モジャの、悲痛な叫びが被さってくる。
「うわー!そ、それは、言わぬと!女房殿!昔のあれこれは、言わぬとおーー!!」
悲壮な顔つきの、髭モジャは、そのまま、崇高の胸ぐらへ飛び込むと、おんおん、泣き出した。
「あー、髭モジャ殿も、橘様の過去には、弱いか……」
「うん、兄様、まだ、子供だったから、わかってなかったけど、橘様って、昔は、お客様にお相手、良く望まれてたわよねー」
なかなか、大変な仕事ぶりだった。と、兄と妹は、過去を振り返る。
「なるほどなあ、御屋敷に仕える女房職というのも、大変なのじゃなあ」
なんとなく、事を察した崇高は、崩れこんで来た、髭モジャを支えつつ、フムフムと頷いた。
「……紗奈、私達は、早急に……暗くなってもいけない」
常春が、言う。
決意は、変わらない様だ。
「でも、兄様、里へ帰るのは、良いとしても、今日というか、今宵、を、どうするおつもりですか?」
「うん、大学寮の同僚のところへ、とりあえず」
「あー、ですが、それでは、私が……」
紗奈が、口ごもる。自分まで、押し掛けるのは、どうだろうかと。
「じゃ、晴康様の御屋敷へ行けばいいじゃないですか?タマ、近道知ってますよ」
「晴康……の、屋敷?!」
「っていうか、近道って?!」
常春と、紗奈は、それぞれに驚いた。
確かに、その手があった、と、言われれば、そうなのだが。
「……紗奈、そうしようか」
「あー、タマ、いいのかしら、勝手に……」
「大丈夫ですよ、晴康様もお帰りになりたいでしょうから」
ん?と、紗奈は、タマの言うことに首を傾げるが、常春は、胸元をそっと触り、そうだな、と、言った。
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