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「ごめんなさいね、いまちょっといい? さっき建設会社のひとがきて、家を見ていったんだけどリフォームして直すのも難しいみたいで……。急だけどここを取り壊して売却しようと思ってるわ。申し訳ないけど、よろしくお願いします」
大家はペコリと頭を下げた。
「大家さんはどうされるのですか?」
「ここを売れば、きっとまとまったお金になるだろうから、それを元手に札幌に帰るつもり」
「札幌?」
未央と亮介の声が重なる。
「私ね、札幌出身なの。主人と住んでいたこの家に愛着があって、ずっと住んできたけど、こうなってしまったでしょう。いい機会だし、戻って余生を楽しむわ。兄妹もむこうにいるし、のんびり過ごすつもりよ」
「大家さん……」
「あわてなくていいんだけど、今月中に、お引越し考えてくれればありがたいわ。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
大家はそう頭を下げると、去っていった。
未央は亮介の家の縁側から、外へ出た。
焦げ臭いにおいがまだ残っている。
高台から見える景色は、薄暮の時間で幻想的だった。
「未央?」
心配して後を追いかけてきた亮介が、顔をのぞきこむ。未央は目に涙をためていた。
「私、この家が大好きだったんだ。静岡に住んでた頃の家によく似てたから」
「……そっか」
「この高台の景色も大好き。もう、見られなくなるんだね……」
泣き出した未央を亮介はぎゅっと抱きしめる。
落ち着いた頃には日も暮れて、ふたりで亮介のマンションへ帰った。
──それからしばらくは大忙しだった。家財道具はほとんどダメになったので、それをまとめて捨てたり、亮介の家のベッドを少し大きめのベッドに買い替えたり、住所変更の手続きなど、仕事の合間に全てこなすのはかなり大変だった。
やっと落ち着いて亮介のマンションで過ごせるようになったのは10月の中頃。
亮介との生活は心地よく、家事もお互い声をかけながら分担した。むしろ亮介の方が率先してやってくれるので感謝しかなく、それ以上に毎日一緒にいられるのが楽しくて仕方なかった。
バタバタしている間にも、コラボ企画の大学いもサンドがmuseで売り出され、予想を超えるヒットを飛ばしていた。
SNS映えするように、見た目も工夫したものがバズり、museは連日大行列。
大学いもサンドの全国展開も決まり、奈緒はいたく喜んでいた。
10月のスタジオ限定メニュー、ヤンニョムチキンも大人気。レッスンのキャンセル待ちまで出て、エリアマネージャーの橋本にも褒められ、未央はホクホクだった。未央は10月いっぱいで、いまのスタジオから本社のレシピ開発部にうつる予定だったのだが、本社の方針転換があり、スタジオに残ることになった。
レシピ開発部に所属はするものの、基本的にはスタジオに勤務し、指定された日にちに考えたレシピを持ち寄って本社で会議をするスタンスに変わったのだ。
講師の人材不足もあるらしいが、本社にこもるより、生徒さんの希望や流行をキャッチしながらレシピを考えた方がいいということらしい。
未央は拍子抜けしてしまったが、スタジオで講師もやりながら、レシピ開発もできるという、いわばいいとこ取りになったような気がして、じわじわと喜びが溢れてきていた。
「未央、いよいよ明日ね、レシピ開発部の初日は。応援してるわ」
レッスンの材料の軽量をしながら、玲奈は未央を励ました。
「なんかいまからドキドキするよ。でもこのままここで勤務できることになって良かった。玲奈とも会えるし」
「ほんと、うそみたいに上手くいってるわね。火事で焼け出されたと思ったら、彼氏と同棲することになり、レシピ開発部にも所属できて……。人生の春ね!」
「相変わらず、ちょっと昭和だよね」
「いいじゃない、昭和の忘れ形見みたいなもんでしょ。私たち」
年齢的にね。未央はレシピ開発部の初日が楽しみで仕方なかった。その夜、亮介はちょっといいワインを買って、マンションで前祝いをしてくれた。
「レシピ開発部、楽しんでね」
「ありがとう、もしかしたら慣れるまで忙しいかもしれないけど、家事もがんば
るからね」
「無理しないで。僕、家事好きだから」
「助かります」
「基本的には、いまとそんなに生活かわらない?」
「そうだね、休みもいままでみたいに平日だし、早く帰ってこられる日もあると思う」
「もう一緒に帰れなくなると思ってたから、うれしい」
甘えてるのか、酔ってるのか。亮介の目がとろとろになっていてかわいい。
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