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放課後の相談室には、静かな気配が漂っていた。
光の弱い夕方は、いつもこの部屋の家具を沈んだ色に染める。
遥は椅子に腰を掛け、窓の外に揺れる枝の影をぼんやり見つめていた。
ノックの音がして、扉がそっと開いた。
入ってきたのは、背の低い男子生徒だった。
肩まで伸びた前髪が視界を遮るように垂れ、握った手は白くなるほど強張っている。
「……あの、ちょっと話してもいいですか」
声音は小さく、今にも消え入りそうだった。
遥は軽く頷き、向かいの席を示す。
「いいよ。座って」
少年が椅子に腰を下ろすと、空気がわずかに揺れた。
しばらく視線を落としていたが、やがてぽつりと言葉を落とした。
「“自分なんて”って……思っちゃうんです。癖みたいに」
遥は反応を急がず、ただ聞く体勢をとった。
「なんか……誰かに褒められても、絶対嘘だって思う。
“優しいね”とか、“頑張ってるね”とか……言われると、逆に苦しくなるんです。
“そんなわけない”って、頭の中で勝手に反発して」
少年の声はかすれていた。
褒められた瞬間に襲ってくる自己否定――その重さは目の奥の陰に滲んでいた。
「……ほんとは、信じたいんですよ。
でも、信じようとすると、なんか怖くて。
“期待されたらどうしよう”とか、“裏切ったらどうしよう”とか。
だから、全部嘘だと思っといたほうが楽で……」
遥は静かに目を伏せた。
その癖は、彼もよく知っている種類の痛みだった。
「嘘だって思っちゃうのはさ、
“褒められる価値のある自分じゃない”って、ずっと言い聞かされてきたからじゃない?」
少年の肩が、ぴくりと動いた。
「……分かるの?」
「うん。“自分なんて”って口癖になるほど思い続けてるってことは、
誰かにそう思わされる時間が長かったってことだから」
遥の声は、淡々としているのにどこか温度があった。
自分の痛みを語るわけではない。
ただ、相手の痛みの位置を正確に見ているような声音だった。
「本当はさ、褒められるのが苦手なんじゃなくて……
“期待されること”が怖いんだと思う」
「期待……?」
「うん。褒められるって、“あなたはこういう人だよね”って言われるのと同じだから。
その枠に押し込まれるのが怖いんだと思うよ。
もしその通りにできなかったら、失望されるって思っちゃうんだよ」
少年は手を握りしめたまま、小さく唇をかんだ。
「……それ、めっちゃ分かる。
褒められると、“ちゃんとしないと”って焦るんです。
俺、そんな立派じゃないのに」
「立派じゃなくていいよ。
褒められた言葉に合わせて生きる必要なんて、ないんだから」
遥は椅子に少し体を預け、目線を柔らかくした。
「褒められて苦しいのは、性格がひねくれてるからじゃないよ。
“褒められたいのに、褒められるのが怖い”っていう、
めちゃくちゃ矛盾した場所にいるだけ」
少年は視線を揺らしながら、それでも逃げずに遥の言葉を聞いていた。
「じゃあ……どうしたらいいんですか。
この癖……直したいけど、直し方が分からない」
遥は机の端に置かれた消しゴムを指で転がし、静かに答えた。
「直さなくていいよ」
少年が驚いたように目を上げる。
「“自分なんて”って思うのを無理やり消そうとすると、余計苦しくなる。
まずはさ……そう思っちゃう自分を、ちょっとだけ認めればいい。
“また言ってるな、俺”くらいでいい」
そして、遥は続けた。
「褒められて信じられないなら、信じなくていい。
ただ、“その人は本気で言った”ってことだけ覚えといて。
それが少しずつ、自分に届く日が来るから」
少年の表情が、ほんの少しだけほどけた。
涙ではない。
けれど、呼吸にかすかな温度が戻っていた。
「……ありがとう。
なんか……少し、楽になったかもしれません」
「うん。
またしんどくなったら、来なよ。
癖ってすぐには変わらないからさ」
少年が部屋を出たあと、相談室には夕暮れの残り香だけが漂った。
遥は窓の外を見つめる。
自分の痛みと重なる言葉に触れるたび、胸の奥の何かが軋む。
それでも、彼はここに座り続ける。
誰かの癖がすぐには直らないのと同じように――
彼自身も、まだ壊れかけのまま生きている。