テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
はなたろう@推しと恋する物語
黒猫ている
役員業に励み続けて数か月、年度明けのことだった。
専務である兄の翔一との打ち合わせが終わって席を立とうとした時、引き留められた。
「拓真、ちょっと待って」
「何?」
「これやるよ」
翔一は俺の前に白い封筒を差し出す。
「え?」
なんだろうと思いながら封筒の中身を取り出して見ると、それは県境にある某老舗旅館の宿泊券だった。
「どうしたの、これ」
「いや、ほんとはうちの奥さんと行こうと思って予約取ってたんだけど、ちょっとね」
「ちょっとって何だよ」
「妊娠が分かったんだよ。大事にしないといけないだろ。だからさ」
「へえっ!それはおめでとう!」
「ありがとう。でさ、キャンセルするのはもったいないし、お前もここんとこずっと頑張ってたから、褒美といったらなんだけど、どうかなと思ってさ。碧さんとゆっくりしてきたらいいんじゃないか」
俺はありがたくそれを受け取ることにする。
「ありがとう。きっと彼女も喜ぶ」
碧の喜ぶ顔が浮かんで、思わず口元が綻んだ。
「幸せそうな顔しちゃって」
翔一がくすくすと笑っている。
「なんだよ」
「別に。ま、楽しんで来いよ」
「言われなくても。兄さん、ありがと」
俺は翔一に礼を言って、足早にその部屋を後にした。
***
碧と都合を合わせて休みが取れたのは、ちょうど桜が満開の時期。途中で近くの桜の名所に立ち寄りながら目的の温泉地へと向かった。
到着して、その温泉街からやや離れた場所にある専用駐車場に車をとめる。少し歩くと、川を挟んだその向こうに見えてきたのは、大正時代にタイムスリップでもしたのかと錯覚を起こしそうになる建物群だった。
「わぁ、素敵なところね」
隣で碧が感嘆の声を上げる。
「泊まるところって、あの旅館なんでしょ?ネットで調べたら人気の旅館で、予約を取りにくいって書いてあったのに」
碧が感心したように目を見開きながら俺を見上げる。
「お義兄さん、よく予約取れたわよね」
「半年くらいかかったらしいよ。だから兄貴に感謝だね」
「私もお礼言いたいんだけどな」
「あぁ。帰ったら、土産でも持って遊びに行こうか」
俺は笑みを浮かべながら、二人分の荷物を持ち直す。
平日にも関わらず、ここに来る間にもそこかしこに人の姿があったが、やはりそれだけここが人気だということか。海外からの観光客らしき一団も見受けられる。川沿いに足湯が設けられていて、そこに座る人々の言葉は明らかに日本語ではない。
「さて、入ってみようか。その人気の旅館とやらに」
川に架けられた欄干が朱塗りの橋を渡って、俺たちは旅館に足を向けた。広々とした玄関に足を踏み入れ名を告げると、キリリと着物を着こなした年配の女性が顔を出した。
「本日はようこそおいで下さいました」
その物腰や周りの従業員たちの様子から、女性はこの旅館の女将なのだろうと思われた。
「一泊ですがお世話になります」
女性は穏やかな笑みを浮かべる。
「どうぞゆっくりとお過ごしくださいませ」
「ありがとうございます」
そんな会話を交わしているところに、作務衣姿の女性従業員がやってきた。荷物を受け取り、にこやかに俺たちを促す。
「お部屋までご案内いたします」
従業員の後に着いて行きながら、俺と碧は時折感嘆の声をもらしていた。いわゆる大正浪漫を感じるような建物でとても雰囲気がいい。
部屋に着き、従業員は荷物を中まで運び入れた後、簡単な説明をして去って行った。
二人きりになった部屋で、碧が感動したようにふうっと息を吐いた。
「素敵な所よね。それに私、二間続きの部屋に泊まるのなんて、初めてよ」
「俺だってそうだよ。ところでこの後だけど、温泉街を散歩してみない?」
俺の提案に、碧の目は嬉しそうに輝いた。
「行きたい!」
うきうきと出かける準備をしている碧を眺めながら、これまでの数か月を振り返る。最後に彼女と外でデートしたのはいつだったか。一緒に住み始めて数か月、なんだかんだと忙しくて、休日も部屋で過ごすことがほとんどだった。だから、今回こうやって一緒に来られて良かったとしみじみ思う。
「準備できたよ」
「よし、行ってみようか」
俺は碧に笑顔を向けて立ち上がった。
***
温泉街そのものは、たいして広くはなかった。けれど、豊かな緑の山々を背景にして、趣ある落ち着いた外観の建物が立ち並ぶその様は、なんとも風情があった。仮に泊まれなくとも一見の価値ありだ。
碧は俺の隣で終始楽しそうな顔を見せていた。綺麗だ、素敵だと思う景色があれば、目を輝かせて俺にも教えてくれた。途中でふらりと入ったカフェのあんみつが美味しいと言って、照れる俺に同じスプーンで食べさせてくれる。
温泉街の端から端までをのんびりと探検し尽くして、旅館に戻る道すがら、碧は満足そうな顔で言った。
「拓真君と一緒だと、なんでも楽しいね」
俺は彼女を見下ろしながら訊き返す。
「ほんとに?」
「ほんとよ。拓真君は楽しくない?」
分かっているくせに、碧は悪戯めいた可愛い顔を俺に向けながら訊ねる。
すぐにも抱き締めてキスしたいけど――。
人目があるから我慢する。その代わりに、つないでいた彼女の柔らかな手をキュッと握りしめた。
「楽しいに決まってるよ。知ってるくせに」
わざと拗ねたように答えると、碧は嬉しそうに笑って俺の手を握り返した。
***
旅館に戻った俺たちは、食事までまだ時間があるからと、大浴場に向かうことにした。
風呂から出るのはきっと碧の方が遅いだろうと思ったから、鍵は俺が持っている。先に部屋に戻り、置いてあった新聞を眺めているところに、碧が戻ってきた。
「いいお湯だったね」
ほんのりと上気した頬。髪を上げたうなじに見えるおくれ毛。寛いだ様子の碧の姿に、俺の鼓動は騒がしくなった。
彼女の浴衣姿はすでに一度見ている。それだけではなく、すでに何度も肌を合わせ、互いのすべてを知っているというのに、目の前の碧はいつも以上に艶っぽい。
「拓真君?」
碧が不思議そうに首を傾げている。
「な、なんでもない」
俺は今の自分の気持ちを悟られないように、彼女から目を逸らした。衣擦れの音がしたかと思うと、シャンプーかボディソープの匂いがふわりと漂って来た。湿り気を帯びたいい匂いに鼻先をくすぐられ、息が詰まりそうになる。
「湯あたりでもした?」
膝をついた碧が心配そうに俺の額に手を伸ばした。
「あぁ、もうっ」
俺は碧の手を捉えて、そのまま自分の腕の中に引き寄せた。
「我慢しようとしたのに」
「我慢って、何……っ」
俺は碧の言葉を飲み込みながら、彼女の口を塞いだ。よく知っている彼女の唇はやっぱり甘くて、このまま押し倒したくなる。
碧の腕が俺の首に巻き付いたと思った瞬間、すぐ近くで音が鳴った。
きゅるる……。
碧は腕を解いて俺の胸を押した。
「やだ……」
顔を両手で隠し、碧はうつむいた。耳までが赤い。
可愛いな――。
俺は碧の両手をそっと外して、額に口づけた。
「食事が先だな」
「ぜひお願いします」
照れ隠しか、碧はやけに真面目な口調で言った。
***
向かった大広間のテーブルに並んだ食事は豪華で、どれもが美味しかった。
グラスワインを飲み干した後、次はウーロン茶を頼もうかしらと碧がつぶやく。
「もっと飲んでもいいんだよ?」
すると彼女は笑いながら首を横に振る。
「今夜あと一回は温泉に入りたいの。だからお酒はもうやめておくわ」
「あと一回ってどうして?」
「温泉に来たら、三回は入れって言わない?温泉マークの上に波線みたいなのが三本あるでしょ?だから三回なんだって。今夜と明日の朝に入れば合計三回になるでしょ?」
「そんなの初めて聞いたなぁ」
「そう?なんにしても、せっかくの温泉だから、満喫したいのよね」
「まぁね。なかなか来れるものでもないからね」
結局二人して酒はやめて、ウーロン茶を頼む。残りの食事を平らげ、最後のデザートまでをお腹に入れた俺たちは、たいそう満ち足りた気分でその場を後にした。
部屋に戻ると、そこにはすでに布団が二組並べてあった。しかし、布団に入るにはまだ早い時間だ。
俺は碧に訊ねた。
「どうする?寝るにはまだ早いよな」
「私は大浴場に行ってくるわね」
「それなら俺も行こうかな。せっかくの温泉だもんな。碧の言う『三回』を目指してみるか」
くすりと笑みを交わし合い、俺たちは部屋を出て大浴場へと向かった。
女湯、男湯と書かれた古風な暖簾の前で別れ、それぞれの浴場へ入る。
広々とした湯船の中、手足を伸ばして湯につかり、適当に温まった所で風呂を出た。鍵は今回も俺が持っているから、先に部屋に戻った。
備えつけの冷蔵庫の中から水の入ったペットボトルを取り出して、グラスに注いで飲んでいるところに、碧が帰って来た。温まって上気した顔は満足そうだ。
「ただいま。気持ち良かったぁ」
「お帰り。堪能してきた?」
俺はもう一つのグラスを水で満たし、彼女の前に置いた。
隣に座った彼女は、礼を言ってグラスを手に取る。水を口に含み、美味しそうにこくんと飲んでから話を続けた。
「最初に入ったのと別のお風呂に入ったんだけど、そっちは内風呂から外にも出ることができてね、そこに露天風呂があったのよ。星が綺麗だったなぁ」
碧は楽しそうに言いながら、膝を崩した。
ふと見ると、浴衣の衿が少し緩んでいて、彼女の綺麗な鎖骨が目に入った。その線に誘われたように俺は指を伸ばし、その感触を確かめるようにそっとなぞった。
「んっ……」
碧がぴくりと首をすくめた。
「碧。さっきの続き、したい」
「でも、昨日もしたのに……」
彼女が恥ずかしそうに小声で言う。
「だって今夜の碧も色っぽすぎて、俺、もう我慢できないんだけど」
「拓真君たら……」
困ったように笑ってはいるが、そこに拒否の響きはない。だから俺は碧の手を取って、布団が敷かれた部屋に促した。
俺は碧を布団の上に横たえてその首筋に口づけながら、彼女の体から浴衣を取り払う。改めてその綺麗な体に目を走らせて、おやっと思った。彼女にしては珍しいタイプの下着を身に着けている。可愛らしいけれど、どこか煽情的にも見える下着が、彼女の柔らかな胸と腰を包んでいた。
「どうしたの、これ?」
碧ははっとしたように胸元を腕で隠し、両膝を立てた。
「みんなでモールに行ったことがあったでしょ?あの時に買ったの。――やっぱり、似合わない?」
「そんなことないよ。とても似合ってる。もしかして俺を煽るために買ったの?」
「どうだったかしら」
碧は恥ずかしそうにはぐらかした。
俺は彼女の腕を取り払ってその布をずらし、露わになった柔らかな胸にそっと口づけた。
碧の唇から吐息がこぼれる。
俺は味わうように彼女のしっとりとした肌の上にゆっくりと唇を這わせ、指先を走らせた。その度にこぼれる抑えたような彼女の甘い鳴き声が、耳を撫でる。
碧の瞳が、声が、体が切なげに熱く溶け始めた。
彼女を愛おしく思う気持ちは増すばかりだ。最愛の人をますます蕩かしたくて、溢れる彼女への想いを伝えたくて、俺は彼女のしなやかな体を優しく撫で、至る所に口づけた。
(了)
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!