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第2話 未来駅の忘れ傘
雨の音が、屋根の上で鳴っていた。
けれど磁馬の立っている場所に、雨は落ちてこなかった。
巨大駅の天井は高く、見上げると雲のような光がゆっくり流れていた。
本物ではない。
それでも湿った風の匂いがして、遠くで水が流れる音まで聞こえる。
磁馬は傘を閉じた。
古い折りたたみ傘だった。
磁馬が住む現代の駅前で買ったもので、持ち手のあたりに小さな傷がある。
水滴を軽く払って、鞄の横に引っかける。
目の前では、人の流れが幾重にも重なっていた。
上の通路。
下の通路。
横へ滑る床。
音もなく来る列車。
壁に浮かぶ案内表示。
磁馬はその全部を見ようとして、少しだけ口を開けた。
「広いなあ」
声は人の足音に混ざり、すぐに消えた。
駅の中央には、大きな柱が立っていた。
柱といっても、石でも木でもない。
透ける板が何枚も重なり、その中を文字と光が流れている。
行き先。
乗り換え。
遅れ。
おすすめの出口。
迷子案内。
飲食区画。
文字は磁馬の目の前で、読みやすい言い回しに変わった。
けれど、すべてがわかるわけではなかった。
「第七層……浮上連絡線……環状……」
磁馬は眉を寄せた。
人に見られないように、柱の陰へ入る。
鞄の奥から小型訳機を出す。
手のひらに乗る折りたたみ式の機械。
細い画面を開くと、薄い光が灯った。
磁馬は表示の一部を打ち込んだ。
変換が始まる。
少し待つ。
その待つ時間に、磁馬は駅の音を聞いた。
水の音。
人の声。
機械の低い響き。
どこかの売店から漂う、焼いたパンの匂い。
訳機の画面に、言葉が出た。
乗り換え階。
遠回り。
出口を間違えやすい。
磁馬はうなずいた。
「なるほど。間違えやすい」
訳機を閉じる。
その時、すぐ横から声がした。
「お困りですか」
磁馬は、訳機を袖の中へ隠した。
振り向く。
そこに、駅員のような姿の人が立っていた。
人のように見える。
けれど、人より少し静かだった。
灰色の繊維の髪。
整いすぎた姿勢。
胸元の小さな案内灯。
目はやわらかいが、まばたきの間隔が正確すぎる。
磁馬は少し笑った。
「少しだけ」
「目的地をお知らせください」
「目的地は、まだない」
案内用アンドロイドは、ほんの少し首を傾けた。
「目的地がない場合、駅内観覧コースをご案内できます」
「観覧」
「駅の構造、飲食区画、展望通路、旧駅舎保存区画、雨音庭園を巡ります」
「雨音庭園」
磁馬はその言葉をゆっくり繰り返した。
「いい名前だな」
「ありがとうございます。私はミナト七号です」
「磁馬」
「ジバさん」
磁馬は少し身を引いた。
「それはいらない」
ミナト七号は一拍置いた。
「失礼しました。磁馬」
「うん」
磁馬は鞄の留め具を確かめた。
一つ。
二つ。
三つ。
傘もある。
そう思って、歩き出した。
ミナト七号は磁馬の半歩前を歩く。
人の流れをよけながら、無駄のない足取りで進む。
磁馬はついていく。
未来の駅は、商店街よりもずっと広かった。
どこを見ても、何かが動いている。
床の一部がゆっくり進み、人を運んでいく。
壁には広告が浮かび、近づいた人の年齢に合わせて内容が変わる。
飲み物の店では、注文する前に好みの香りが試せる。
弁当売り場では、小さな皿が宙に並び、見本の湯気だけが本物のように立っていた。
磁馬は何度も足を止めた。
「ここも描きたい」
「次の区画にも描画推奨地点があります」
「推奨じゃないところも描きたい」
ミナト七号は少しだけ沈黙した。
「自由描画は可能です」
「それはよかった」
磁馬は笑った。
通路の端で、磁馬はスケッチ帳を出した。
巨大駅の中央を描く。
上へ伸びる通路。
流れる人。
表示板。
雨の音がする天井。
ミナト七号の後ろ姿。
ペンが紙に触れると、駅の音が少し近くなった。
線を置く。
また線を置く。
人は流れ続ける。
描いている間にも、同じ場所に同じ人はいない。
磁馬は、その動きを全部は追わない。
通りすぎた人の気配だけを、線の端に残す。
ミナト七号は横に立ち、静かに待っていた。
「待つのは得意?」
磁馬が聞いた。
「案内対象者が停止した場合、待機します」
「退屈は?」
「退屈の機能はありません」
「そうか」
磁馬はペンを動かした。
「でも、待ってる顔をしてる」
ミナト七号は自分の顔に指を近づけた。
「表情補助が作動している可能性があります」
「いい顔だ」
「ありがとうございます」
案内灯が一度、淡く光った。
磁馬はその光も描いた。
スケッチを終え、立ち上がる。
鞄を肩にかける。
スケッチ帳をしまう。
ペンケースを閉じる。
傘を確認する。
あった。
駅の奥へ進む。
雨音庭園は、駅の中にあった。
天井から雨は落ちてこない。
けれど、透明な細い管の中を水が流れ、その音が庭全体に広がっていた。
床には石が並び、低い植え込みが続いている。
葉は緑で、濡れていないのに濡れているように光っていた。
ベンチがいくつもあり、旅人たちが座っていた。
泣いている人。
眠っている人。
誰かを待っている人。
画面を見つめて動かない人。
磁馬はベンチのひとつに座った。
「ここは、駅の中なのに静かだ」
「乗り換え疲労を軽減する場所です」
「疲れた人は、昔も未来も座るんだな」
ミナト七号は隣に立ったまま、庭を見た。
「座席利用率は高いです」
磁馬は笑った。
「そういうことじゃなくて」
雨音が続いていた。
磁馬は傘を横に置き、スケッチ帳を開いた。
雨音庭園を描く。
濡れていない葉。
流れる水の管。
ベンチの人たち。
立ったまま待つミナト七号。
線を引いているうちに、庭の音が紙の中へ入っていく。
水の線。
人の肩。
眠る子供の靴。
床に落ちる光。
磁馬は夢中になった。
雨が降っていないのに、雨の日の絵になる。
それが面白くて、何本も線を重ねた。
どれくらい時間が過ぎたのか、磁馬にはわからなかった。
ミナト七号の声で、ふと手が止まる。
「次の巡回案内へ進みますか」
「うん」
磁馬はスケッチ帳を閉じた。
ペンをしまう。
鞄を持つ。
立ち上がる。
二人は雨音庭園を出た。
未来駅の中は、さっきより人が増えていた。
浮かぶ表示が切り替わる。
列車の到着音が鳴る。
人の流れが速くなる。
磁馬はその中を、少し頼りない足取りで歩いた。
ミナト七号が前で人波を分ける。
その背中についていけば、迷わずに済む。
そう思った時だった。
磁馬の手が、鞄の横を触った。
何かが足りない。
磁馬は止まった。
鞄の留め具を確かめる。
一つ。
二つ。
三つ。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
ある。
けれど。
傘がない。
磁馬は固まった。
人の流れが、左右に分かれていく。
ミナト七号が振り向いた。
「どうしましたか」
磁馬はゆっくり言った。
「傘を忘れた」
「忘れ物ですね」
「うん」
「駅内忘れ物検索を開始します。傘の特徴を教えてください」
「折りたたみ。古い。持ち手に傷。茶色」
ミナト七号は目を閉じるようにして、数秒停止した。
「該当候補が複数あります。最新の所持確認地点は雨音庭園です」
磁馬は胸に手を当てた。
「戻る」
「ご案内します」
ミナト七号は歩き出した。
磁馬も続く。
けれど、戻る道は簡単ではなかった。
駅の通路は変わっていた。
さっき通ったはずの道が、別の乗り換え用に切り替わっている。
床の流れが逆になり、表示板は違う出口を示している。
人の波が厚くなり、まっすぐ歩けない。
磁馬は目を丸くした。
「駅が動いてる」
「混雑状況に応じて通路構成が変化します」
「道は変わらないほうが好きだな」
「昔の駅には固定通路が多かったと記録されています」
「そう。迷っても、同じ場所で迷える」
ミナト七号は少し沈黙した。
「同じ場所で迷えることは、安心ですか」
「うん。たぶん」
ミナト七号の案内灯が一度光った。
「記録します」
磁馬は歩きながら、人の足もとを見た。
傘はない。
当然だった。
雨音庭園に置いたのだ。
それでも、落としたものを探す時、磁馬は地面を見る。
そうしないと落ち着かなかった。
決めたことは簡単だった。
持っているものは、絶対落とさない。
忘れるのも、落とすのと似ている。
手から離れたものは、探す。
見つかるまで、帰らない。
ミナト七号は歩きながら言った。
「磁馬さんの傘は、駅管理により回収される可能性があります」
「回収されたら、どこへ行く?」
「忘れ物保管区画です」
「じゃあ、そこも行く」
「雨音庭園に残っている場合、保管区画へ移送される前に発見できます」
「急ごう」
磁馬は少しだけ足を速めた。
けれど、すぐに鞄を押さえる。
走ると、また何かを落とす。
ミナト七号はそれに気づいたように、速度を落とした。
「歩行速度を調整します」
「ありがとう」
二人は人の間を進んだ。
途中、小さな子供の泣き声が聞こえた。
磁馬は振り向く。
黄緑の短い上着を着た少女が、柱のそばに立っていた。
首から透明な端末を下げ、片手で目をこすっている。
周りの人は急いでいて、誰も立ち止まらない。
ミナト七号はすぐに少女へ向かった。
「迷子ですか」
少女は顔を上げた。
「お母さんが、乗り換えの光のほうに行った」
「保護者情報を確認します」
少女は端末を握った。
ミナト七号の案内灯がやわらかく光る。
磁馬は少し離れて立っていた。
こういう時、出すぎると驚かせる。
でも放っておくのも違う。
少女が磁馬のほうを見た。
「おじさんも迷子?」
磁馬は少し考えた。
「傘が迷子」
少女は涙を止めて、変な顔をした。
「傘が?」
「うん。雨音庭園に置いてきた」
「傘なのに雨のところに?」
「いい場所だと思ったのかも」
少女は少し笑った。
ミナト七号が言った。
「保護者と接続できました。リノさん、第三連絡柱まで移動します」
少女、リノはうなずいた。
それから磁馬を見た。
「傘、探すの?」
「うん」
「私もそこまで行く。第三連絡柱、雨音庭園の近くだよ」
ミナト七号は一瞬だけ止まった。
「経路を統合できます」
磁馬はうなずいた。
「じゃあ、一緒に」
三人で歩くことになった。
リノはミナト七号の横を歩き、時々磁馬を振り返る。
「どんな傘?」
「古いやつ」
「未来の傘じゃないの?」
「現代の傘」
「げんだい?」
磁馬は少し口を閉じた。
言葉を選ぶ。
「僕がよくいる時代」
「ふうん」
リノはあまり気にしなかった。
未来駅では、人それぞれ、どこかから来てどこかへ行く。
少し変なことを言う人もいるのだろう。
磁馬はほっとした。
訳機を見なくても、なんとなく話せる。
わからない言葉もいくつかあるが、今は流れで歩ける。
リノは首から下げた端末を揺らしながら言った。
「私、駅、嫌いじゃないけど、広すぎる」
「広いと、疲れる」
「うん。どこでも行けるのに、どこにいるかわからなくなる」
磁馬はその言葉を覚えた。
どこでも行けるのに、どこにいるかわからなくなる。
いい言葉だった。
描きたくなる言葉だった。
第三連絡柱へ向かう途中、通路の壁が透明になった。
外が見える。
未来の町が、雨に濡れていた。
高い建物。
浮かぶ通路。
細い列車の光。
遠くまで続く駅の屋根。
雨は斜めに降っている。
地面は見えないほど遠い。
磁馬は立ち止まった。
「すごいな」
リノも横に立った。
「ここから見ると、町が模型みたい」
ミナト七号は少し戻った。
「停止しますか」
磁馬はスケッチ帳に手を伸ばした。
けれど、すぐに止めた。
「先に傘」
リノが言った。
「えらい」
「落としたから」
「忘れたんでしょ」
「似てる」
磁馬は歩き出した。
第三連絡柱に着くと、リノの母親が待っていた。
息を切らして、リノを抱きしめる。
リノは少し苦しそうにしながらも、笑っていた。
磁馬はそれを見て、肩の力を抜いた。
ミナト七号は静かに立っている。
リノは母親の腕の中から顔を出した。
「傘、見つけてね」
「うん」
「見つからなかったら?」
「見つかるまで帰らない」
リノは目を丸くした。
「大変だ」
「大変」
磁馬がうなずくと、リノは笑った。
母親に連れられて、リノは人の流れの中へ消えていく。
黄緑の上着が一度だけ振り返り、小さく手を振った。
磁馬も手を振った。
ミナト七号が言った。
「雨音庭園へ向かいます」
「うん」
そこから先は、少し静かな通路だった。
駅の裏側のような場所。
人は少なく、壁の中を荷物運搬用の小さな台車が走っている。
床には細い光の線があり、ミナト七号はそれに沿って進む。
磁馬は壁を見た。
古い駅の写真が並んでいる。
昔の駅舎。
切符売り場。
改札。
列車を待つ人。
ホームに立つ駅員。
未来駅の中に、過去の駅が飾られている。
磁馬は足を止めた。
「昔の駅だ」
「旧駅舎保存区画の案内壁です」
「あとで見たい」
「傘発見後にご案内できます」
「うん。傘のあと」
磁馬は自分に言い聞かせるように言った。
傘のあと。
忘れ物は、時々、旅の順番を変える。
でも、それでいい。
順番が変わるから、見えるものもある。
雨音庭園の入口が見えた。
水の音が近づく。
磁馬の足が少し速くなる。
ベンチ。
植え込み。
透明な管。
流れる水。
さっき座った場所へ向かう。
そこに、傘はなかった。
磁馬は立ち止まった。
ベンチの横。
下。
植え込みの前。
ない。
ミナト七号が目を閉じた。
「周辺確認中」
磁馬はしゃがみこみ、ベンチの下をのぞいた。
小さな紙片。
水滴の形をした飾り。
誰かの落とした透明な切符。
傘はない。
胸のあたりが少し重くなる。
「ないなあ」
ミナト七号が言った。
「忘れ物回収ドローンが三分前に巡回しています」
「持っていかれた?」
「可能性があります」
「保管区画へ行こう」
「ご案内します」
磁馬は立ち上がった。
その時、雨音庭園の端にある小さな水路のそばで、何かが揺れた。
傘ではない。
子供用の小さな靴だった。
片方だけ。
磁馬は近づいて、それを拾った。
ミナト七号が言った。
「それは登録外の落とし物です」
「これも迷子だ」
「忘れ物保管区画へ届けますか」
「うん」
磁馬は靴を両手で持った。
小さな靴は軽かった。
でも、持つと不思議に重い。
誰かが探しているものは、重い。
忘れ物保管区画は、駅の奥にあった。
人が少ない場所だった。
壁には棚が並び、その中にたくさんの物が入っている。
傘。
帽子。
端末。
小さな玩具。
袋。
本。
片方だけの手袋。
名前のない箱。
未来になっても、人は忘れる。
磁馬は少し笑った。
ミナト七号が受付用の端末へ近づく。
「折りたたみ傘、茶色、持ち手に傷。確認します」
棚の奥から、細い台が滑ってきた。
上には、傘が三本乗っていた。
一本目。
新しすぎる。
二本目。
大きすぎる。
三本目。
古い折りたたみ傘。
持ち手に小さな傷。
磁馬はそっと手を伸ばした。
「あった」
声が、自分でも驚くほど小さかった。
傘を持つ。
重さを確かめる。
留め具を見る。
間違いない。
磁馬は胸に傘を寄せた。
「ありがとう」
ミナト七号は静かに頭を下げた。
「発見できてよかったです」
磁馬は小さな靴を受付へ置いた。
「これも」
「登録します」
ミナト七号が靴を棚へ送る。
靴は透明な箱に入れられ、やさしく奥へ運ばれていった。
磁馬はそれを見届けた。
「見つかるといいな」
「所有者照合を開始しています」
「うん」
磁馬は保管区画の棚を見た。
たくさんの忘れ物。
それぞれ、誰かの手から離れたもの。
誰かが気づくまで、ここで待っているもの。
磁馬はスケッチ帳を取り出した。
ミナト七号が見た。
「描きますか」
「うん」
「ここをですか」
「ここを」
磁馬は棚の前に座った。
忘れ物保管区画を描く。
傘の列。
透明な箱。
小さな靴。
持ち主を待つ帽子。
静かに光る棚。
案内灯を灯したミナト七号。
未来の駅で、いちばん静かな場所かもしれない。
線を引く。
物には、持ち主の形が残っている。
帽子には頭の丸み。
本には指の跡。
傘には雨の日の急ぎ足。
靴には小さな歩幅。
磁馬はそれを描いた。
ミナト七号は横で待っている。
「退屈の機能はないんだよね」
「ありません」
「でも、見てる」
「描画行為を観察しています」
「楽しい?」
ミナト七号は少し停止した。
「該当する感情名は不明です」
「そうか」
「ただ、磁馬さんが線を引くと、忘れ物が保管物ではなく、誰かの一部のように見えます」
磁馬は手を止めた。
ミナト七号は、まっすぐ棚を見ていた。
「それは、よく見えてる」
磁馬はまた線を引いた。
絵の中で、忘れ物の棚に小さな時間が流れた。
傘の表面に雨が戻る。
靴の横を、小さな足音が通り過ぎる。
帽子の影が、誰かの頭の高さで揺れる。
ミナト七号の案内灯も、紙の中で淡く光っていた。
描き終えるころには、駅の外の雨が弱くなっていた。
磁馬はスケッチ帳を閉じた。
「旧駅舎保存区画、行ける?」
「ご案内できます」
「じゃあ、行こう」
傘は今度こそ、鞄の横にしっかり結んだ。
一度。
二度。
三度。
磁馬は留め具を確かめる。
ミナト七号は、その動作を見ていた。
「確認回数が増えています」
「落としたくないから」
「しかし、落とすことで出会いも発生しています」
磁馬は歩きながら笑った。
「それはそう」
「では、落とすことは悪いことではないのですか」
磁馬は少し考えた。
通路の先で、人の流れがまた見える。
「悪いことではないかもしれない。でも、探さないのはよくない」
ミナト七号は案内灯を一度光らせた。
「記録します」
旧駅舎保存区画は、未来駅の端にあった。
そこだけ、時間がゆっくり残されているようだった。
古い改札。
木のベンチ。
切符を売る小さな窓。
時刻表。
時計。
人の声が録音で流れている。
磁馬は何も言わずに立ち尽くした。
ミナト七号も隣に立つ。
「ここは、昔の駅?」
「はい。複数時代の駅構造を参考に再現されています」
磁馬は木のベンチに触れた。
本物かどうかはわからない。
でも、触れた時、誰かが座っていた気配がした。
「未来は、昔を捨ててないんだな」
「保存対象として管理しています」
「管理でも、残ってる」
磁馬は傘を抱え、ベンチに座った。
スケッチ帳を開く。
もう一枚、描く。
古い改札と、未来の駅員。
木のベンチと、案内用アンドロイド。
手に戻った傘。
ミナト七号は少し離れて立っていたが、磁馬が手招きすると近づいた。
「ここに立って」
「案内対象位置ですか」
「絵の中の位置」
ミナト七号は指定された場所に立った。
姿勢がよすぎる。
それが少しおかしくて、磁馬は笑った。
「少し楽に」
ミナト七号は肩を一ミリほど下げた。
「これでよろしいですか」
「うん。たぶん」
磁馬は描いた。
未来の駅で働く案内用アンドロイドが、古い改札の横に立っている。
それは変な光景のはずなのに、妙に似合っていた。
人は駅で迷う。
昔も未来も。
誰かが案内する。
人でも、機械でも。
磁馬は線を足した。
旧駅舎の時計。
床の影。
ミナト七号の案内灯。
傘の曲がった持ち手。
絵の中で、時計の針がほんの少し動いた。
ミナト七号がそれを見ていた。
「その絵は、時間が変化しています」
「うん」
「これは通常の描画ではありません」
「そうかも」
「磁馬さんは、何者ですか」
磁馬はペンを止めた。
古い改札の向こうから、録音の足音が聞こえる。
未来駅の通路から、本物の足音も聞こえる。
二つの音が混ざる。
磁馬は少しだけ笑った。
「画家」
「それだけですか」
「それだけ」
ミナト七号は、それ以上聞かなかった。
磁馬は絵を完成させた。
紙の中では、旧駅舎の時計がゆっくり進んでいた。
でも、進んでも進んでも、夕方にはならない。
駅の時間だけが、行き先を待つように動いている。
磁馬は小さな紙を一枚取り出した。
忘れ物保管区画の絵だった。
棚と傘と靴と、ミナト七号の後ろ姿が描かれている。
「これ、置いていく」
ミナト七号は受け取らなかった。
「私は所有権を持ちません」
「じゃあ、駅に」
「駅への寄贈として記録できます」
「それで」
ミナト七号は紙を両手で受け取った。
案内灯が静かに光った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。傘を探してくれてありがとう」
磁馬は立ち上がった。
鞄をかける。
スケッチ帳をしまう。
ペンケースを閉じる。
訳機を奥に押し込む。
傘を持つ。
確認する。
今度は、ある。
未来駅の出口へ向かう。
雨はほとんど止んでいた。
外へ出ると、湿った風が磁馬の髪を揺らした。
高い建物の間を、細い列車が音もなく通り過ぎる。
駅の屋根から、水滴が落ちる。
磁馬は傘を開かなかった。
ただ持って歩く。
ミナト七号は出口の内側で立ち止まった。
「案内はここまでです」
「うん」
「また迷った際は、駅内案内をご利用ください」
磁馬は振り返った。
「また忘れた時も?」
「忘れ物検索も可能です」
「それは助かる」
磁馬は笑った。
ミナト七号は、ほんの少しだけ首を下げた。
「磁馬さん」
「うん」
「同じ場所で迷えることは、安心だと記録しました」
「うん」
「ですが、違う場所で迷うことも、出会いにつながると記録しました」
磁馬は傘を肩にかけた。
「いい記録だ」
ミナト七号の案内灯が淡く光る。
磁馬は駅を出た。
一歩。
二歩。
三歩。
雨上がりの未来都市が広がっている。
地面に水たまりは少ない。
ほとんどの水は、道の下へ吸い込まれていく。
それでも、端のほうに小さな水たまりが残っていた。
磁馬はそこをのぞいた。
駅の光が映っている。
少し揺れている。
磁馬はスケッチ帳を出しかけたが、やめた。
今日はもう、たくさん描いた。
傘を落とさないように、しっかり持つ。
歩き出す。
背後では、巨大駅の中を人が流れ続けていた。
誰かが何かを忘れる。
誰かがそれを探す。
誰かが案内する。
磁馬の鞄の中で、スケッチ帳が少し重くなっていた。
そこには、未来駅の雨音が入っている。
忘れられた傘が戻ってくるまでの道。
迷子の少女の黄緑の上着。
案内用アンドロイドの静かな足取り。
忘れ物の棚に残る、小さな時間。
ページの中で、傘はまだベンチの横に置かれている。
次の線では、ミナト七号がそれを見つける。
その次の線では、磁馬が受け取る。
何度見ても、傘は帰ってくる。
磁馬はそれを思って、少しだけ笑った。
そして、未来の雨上がりを、ゆっくり歩いていった。
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於田縫紀
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