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於田縫紀
7
第3話 団地のベランダ
団地のベランダには、洗濯物がよく似合った。
シャツ。
タオル。
子供のズボン。
大人の靴下。
色の抜けた布団。
それらが、棟から棟へ渡る風の中で揺れていた。
磁馬は団地の中庭に立ち、上を見上げた。
同じ形の部屋が並んでいる。
けれど、どのベランダも同じではない。
植木鉢を置いている家。
風鈴を吊るしている家。
段ボール箱を積んでいる家。
洗濯物をきっちり並べる家。
ななめに干す家。
暮らし方が、布の揺れに出ていた。
磁馬はそれが面白くて、スケッチ帳を開いた。
中庭には砂場があり、鉄棒があり、小さな滑り台があった。
遠くからテレビの音が漏れている。
どこかで夕飯の準備が始まっていた。
玉ねぎを炒める匂い。
味噌汁の匂い。
濡れたコンクリートの匂い。
磁馬はベンチに座り、ペンを持った。
まず、四階のベランダ。
次に、三階の布団。
二階のタオル。
一階の自転車置き場。
線を重ねるたび、団地が少しずつ紙の中へ入っていく。
「何描いてんの」
声がした。
磁馬が顔を上げると、男の子が砂場のふちに立っていた。
短い髪。
半ズボン。
膝の土の跡。
磁馬は答えた。
「洗濯物」
男の子は上を見た。
「洗濯物なんか描くの?」
「うん」
「変なの」
「よく言われる」
男の子は磁馬の隣に来て、絵をのぞいた。
「うちのタオルある?」
「どれ?」
「あれ。三階の端。しましまのやつ」
磁馬は線の中から探した。
「あった」
「ちっちゃ」
「遠いから」
男の子は納得したようにうなずいた。
「俺、カズ」
「磁馬」
「ジバ?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
カズは笑った。
その笑い声に誘われるように、もう二人が近づいてきた。
髪を結んだ女の子。
丸い眼鏡の男の子。
「カズ、知らない人と話してる」
女の子が言った。
「絵描いてる人だよ」
カズが答える。
「怪しくない?」
「怪しいけど、絵はうまい」
磁馬は少し困った顔で笑った。
女の子はスケッチ帳を見た。
「本当だ。うちのベランダもある」
眼鏡の男の子は黙って、ページの端を見ていた。
「名前は?」
磁馬が聞くと、女の子が先に答えた。
「ミホ」
眼鏡の男の子は少し遅れて言った。
「ジュン」
「よろしく」
磁馬はまたペンを動かした。
子供たちは、いつのまにか横に座っていた。
カズは足をぶらぶらさせる。
ミホは絵と団地を見比べる。
ジュンは磁馬のペン先ばかり見ている。
「なんで洗濯物?」
ミホが聞いた。
「風が見えるから」
「風?」
「布が揺れると、見えないものが少し見える」
カズは大げさに首をひねった。
「よくわかんない」
「うん。僕も少ししかわからない」
「自分で言ったのに?」
「うん」
ミホが笑った。
風が強くなった。
団地のあいだを抜ける風だった。
低いところを走り、急に上へ跳ねる。
洗濯物が大きくふくらんだ。
タオルが踊り、布団がばさりと鳴った。
磁馬は片手でページを押さえた。
その時だった。
上の階から、誰かが布団を叩いた。
ぱん、ぱん、と乾いた音。
風がそれに驚いたように向きを変えた。
磁馬のスケッチ帳が、手の中でめくれた。
一枚。
二枚。
三枚。
磁馬は慌てて押さえる。
けれど、最後のページが風を受けた。
スケッチ帳ごと、手から抜けた。
「あっ」
カズが叫んだ。
スケッチ帳は、鳥みたいに開いたまま浮いた。
磁馬は立ち上がる。
手を伸ばす。
届かない。
スケッチ帳は中庭を越え、滑り台の上を通り、物干し竿の影をかすめた。
そして団地の棟の向こうへ消えた。
磁馬は、しばらく動かなかった。
カズが目を丸くする。
「飛んだ」
ミホがすぐに立った。
「追いかけなきゃ」
ジュンはもう走り出していた。
磁馬は鞄を押さえた。
「探す」
声が少し低くなった。
「見つかるまで帰らない」
カズが振り向いた。
「帰れないの?」
「帰らない」
「なんで」
磁馬は団地の向こうを見た。
「そう決めてる」
ミホはうなずいた。
「じゃあ探そう」
四人は走り出した。
いや、子供たちは走った。
磁馬は急ぎ足だった。
鞄を押さえ、ペンケースを押さえ、足もとを見ながら進む。
もう何も落としたくなかった。
団地の裏には、自転車置き場があった。
古い自転車。
三輪車。
段ボール。
植木鉢。
壊れた傘。
カズが自転車の間をのぞく。
「ない!」
ミホは駐輪場の屋根を見る。
「上にもない」
ジュンは地面の紙を拾った。
「これは違う。チラシ」
磁馬はそれを見て、首を振った。
「違う」
スケッチ帳は見つからない。
風はまだ吹いていた。
団地の棟と棟の間で、向きを変えながら走っている。
ミホが言った。
「風なら、こっちに行くかも」
「わかるの?」
磁馬が聞く。
「洗濯物がいつもこっちに寄るから」
ミホは団地の奥を指差した。
そこには細い通路があった。
両側に植え込みがあり、奥に小さな公園が見える。
四人は通路へ入った。
カズが先頭を走る。
「スケッチ帳ー!」
ミホが怒る。
「呼んでも来ないよ」
「でも聞こえるかもしれないだろ」
ジュンが小さく言った。
「紙だから耳ない」
カズは一瞬止まり、また走った。
「じゃあ気合いだ」
磁馬は少し笑った。
通路の途中で、年配の女の人が買い物袋を持って歩いていた。
ミホが声をかける。
「スケッチ帳、飛んできませんでしたか」
女の人は首をかしげた。
「絵の帳面?」
磁馬が頭を下げた。
「はい。風で飛びました」
「あらまあ」
女の人は植え込みのほうを見た。
「さっき、紙みたいなのが公園のほうへ行ったよ」
カズが跳ねた。
「公園!」
四人は公園へ向かった。
小さな公園には、ブランコと砂場があった。
藤棚の下にベンチがあり、すべり台の影が長く伸びている。
スケッチ帳はなかった。
カズはブランコの下を見た。
ミホは砂場の端を探した。
ジュンはベンチの下にしゃがんだ。
磁馬は藤棚の上を見た。
葉が揺れている。
隙間に何か挟まっているようにも見える。
「上かな」
磁馬が言うと、カズがすぐに藤棚へ登ろうとした。
ミホが止める。
「危ない」
「ちょっとだけ」
「だめ」
カズは口をとがらせた。
磁馬は藤棚の柱に手をかけた。
でもすぐにやめる。
登ったら、鞄から何か落ちるかもしれない。
ジュンが長い棒を持ってきた。
「これ」
磁馬は受け取った。
藤棚の上をそっとつつく。
葉が揺れる。
小さな枝が落ちる。
何かがひらりと落ちた。
全員が息を止めた。
落ちてきたのは、古い新聞の切れ端だった。
カズが地面に寝転がった。
「違うー」
ミホが笑う。
「寝ない」
磁馬は新聞の切れ端を拾い、近くのごみ箱へ入れた。
「買った時代じゃないけど、これはここのものだから」
子供たちはよくわからない顔をした。
磁馬は何も足さなかった。
公園の端で、風がまた吹いた。
葉がざわざわ鳴る。
砂場の砂が少し動く。
ジュンが顔を上げた。
「もっと上に行ったのかも」
「上?」
「風、団地に当たると上がる」
ジュンは団地の壁を見た。
磁馬も見上げる。
ベランダが並んでいる。
洗濯物が揺れている。
どこかの部屋からラジオの音が流れている。
ミホが言った。
「ベランダに入ったかもしれない」
カズが目を輝かせた。
「聞き込みだ!」
それから三人は団地へ戻った。
階段を上がる。
一階。
二階。
三階。
磁馬は息を切らしながらついていく。
カズは各階の踊り場で叫ぶ。
「絵の帳面、飛んできませんでしたか!」
ミホがすぐに言い直す。
「すみません、スケッチ帳です。風で飛んでしまって」
扉が開く。
人が顔を出す。
「見てないねえ」
「紙ならさっき下へ飛んでたよ」
「ベランダには来てないよ」
「何階から飛んだの?」
答えはばらばらだった。
でも誰も怒らなかった。
団地の中では、探し物が少しずつ広がっていく。
三階の踊り場で、磁馬は立ち止まった。
息を整えながら、向かいの棟を見た。
そこに、さっき描いていた洗濯物があった。
風に揺れ続けている。
磁馬の手が、自然にペンを探した。
けれど、スケッチ帳がない。
描けない。
そのことが、胸に小さく刺さった。
ミホがそれに気づいた。
「大事なんだね」
「うん」
「絵が入ってるから?」
「絵も」
「も?」
磁馬は階段の手すりに触れた。
「今日見たものが、入ってる」
ミホは少し黙った。
カズが上から叫んだ。
「早くー!」
三人はまた上がった。
四階。
五階。
五階の踊り場に着いた時、ジュンが向かいの屋上を指差した。
「見えた」
全員がそちらを見る。
向かいの棟の屋上。
物干し台のそば。
何かがめくれている。
茶色い表紙。
磁馬の目が見開かれた。
「あれ」
カズが叫んだ。
「あった!」
ミホがすぐ言う。
「でも向こうの棟だよ」
磁馬はもう階段を下り始めていた。
「行こう」
向かいの棟へ向かう途中、風が何度も吹いた。
スケッチ帳がまた飛ぶかもしれない。
そう思うと、磁馬の足はもつれそうになる。
カズは先に走り、管理人室へ向かった。
「屋上の鍵!」
管理人は驚いた顔をしたが、ミホが事情を話すと、ゆっくり立ち上がった。
「風の日は危ないから、大人と一緒だぞ」
磁馬は深く頭を下げた。
「お願いします」
管理人は鍵を持ち、階段を上がった。
屋上の扉が開く。
風が一気に入ってきた。
団地の上の風は、中庭の風より強かった。
洗濯物の匂いも、夕飯の匂いも、遠くの道路の音も、全部混ぜて運んでくる。
屋上の端に、スケッチ帳があった。
物干し台の足に引っかかり、ページがめくれている。
磁馬はゆっくり近づいた。
急ぐと飛ぶ。
そっと。
そっと。
手を伸ばす。
ページが一枚、風で持ち上がる。
磁馬は押さえた。
今度は離さなかった。
スケッチ帳を胸に抱く。
「見つかった」
カズが飛び跳ねた。
ミホが胸をなで下ろした。
ジュンは眼鏡を直した。
管理人が笑う。
「よかったな」
磁馬は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます」
スケッチ帳のページは少し曲がっていた。
端に埃がついている。
でも破れてはいない。
磁馬はその場に座り込み、ページを開いた。
団地のベランダの絵。
そこには、さっき描いた洗濯物があった。
けれど少し変わっていた。
紙の中で、洗濯物がゆっくり揺れている。
布団がふくらみ、タオルがなびき、ベランダの影が少しずつ伸びる。
カズがのぞき込んだ。
「動いてる」
ミホも見た。
「本当だ」
ジュンは息を止めた。
「風が入ってる」
磁馬は小さくうなずいた。
「飛んだからかな」
カズは笑った。
「スケッチ帳、冒険したんだ」
「うん」
磁馬は絵の端に、三人を描き足した。
階段を駆け上がるカズ。
人に聞いて回るミホ。
風の向きを見るジュン。
そして、スケッチ帳を抱える自分。
屋上の風の中で、線は少し震えた。
でも、その震えがちょうどよかった。
ミホが言った。
「これ、団地の絵?」
「うん」
「うちの団地、こんなふうに見えるんだ」
磁馬はページを見た。
同じ形の部屋。
違う暮らし。
揺れる洗濯物。
探し物をする子供たち。
「いい団地だ」
カズが得意そうに胸を張った。
「まあね」
管理人が屋上の扉を押さえながら言った。
「そろそろ下りるぞ」
磁馬はスケッチ帳を閉じた。
今度は鞄の奥へ入れ、留め具をしっかりかけた。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに両手で押さえた。
カズが笑う。
「もう飛ばすなよ」
「気をつける」
「絶対?」
磁馬は少しだけ考えた。
「今日は絶対」
ミホが笑った。
団地の中庭へ戻るころには、夕方が濃くなっていた。
洗濯物を取り込む声があちこちから聞こえる。
「カズー、ご飯よー」
上の階から声がした。
カズが顔を上げた。
「はーい!」
ミホも家へ戻る時間だった。
ジュンも石をひとつポケットに入れ、階段へ向かった。
磁馬はベンチに座り、小さな紙を三枚出した。
それぞれに、子供たちの絵を描いた。
カズには、風より先に走る姿。
ミホには、団地の人に話を聞く姿。
ジュンには、上へ向かう風を見つける姿。
三人はそれを受け取った。
カズはすぐに掲げた。
「俺、速そう」
ミホは大事そうに両手で持った。
「ありがとう」
ジュンは絵をじっと見た。
「これも動く?」
磁馬は首をかしげた。
「少しだけ」
ジュンの絵の中で、植え込みの葉がほんの少し揺れた。
ジュンは目を丸くした。
「すごい」
磁馬は笑った。
「風が残った」
子供たちはそれぞれの階段へ戻っていった。
磁馬は中庭に一人残った。
団地のベランダから、洗濯物が消えていく。
一枚ずつ。
一本ずつ。
暮らしが部屋の中へ戻っていく。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
団地の絵の中では、まだ洗濯物が揺れていた。
カズが走り、ミホが人に尋ね、ジュンが風を見る。
スケッチ帳は屋上へ飛び、また磁馬の手へ戻ってくる。
同じ時間が、紙の中で何度も過ぎる。
磁馬は鞄を抱えた。
もう何も落としていない。
でも、落としたおかげで、団地の風を知った。
階段の音。
子供たちの足。
ベランダの匂い。
屋上から見た暮らしの形。
磁馬は立ち上がった。
団地の出口へ歩く。
背中の向こうで、誰かの家の窓が閉まる音がした。
その音まで、絵の中に少しだけ残った気がした。
磁馬は振り返り、団地を見上げた。
もう洗濯物はほとんどない。
けれど、風だけはまだあった。
磁馬は小さく手を振った。
誰に振ったのか、自分でもよくわからなかった。
そしてスケッチ帳を抱えたまま、夕方の道へ歩いていった。
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