放課後の教室は、誰もいないのにまだ少しざわついていた。
夕陽の名残が窓ガラスに反射して、床の上に淡い光を落としている。
蓮司は机に肘をつき、古びたノートをめくっていた。
ページの端には、書きかけの言葉がいくつも残っている。
コン、という控えめなノックの音。
「入っていいか?」
低い声。いつもの相談者より、少し年上かもしれない。
「どうぞ」
蓮司が言うと、ドアが開き、背の高い男子が一歩だけ中に入った。
無表情のようで、どこか疲れた目をしている。
「……最近、何も感じないんです」
その言葉は、音よりも軽く、空気の中に溶けていった。
蓮司は顔を上げず、ペンをくるりと回した。
「“何も感じない”って、どんな感じだ?」
「笑っても泣いても、全部同じに聞こえる。
楽しいことも、つらいことも、“そうなんだ”で終わって。
誰かが泣いてても、胸が動かなくて……。
“冷たい”って言われるけど、自分でもどうしたらいいのか分からなくて」
沈黙が落ちた。
時計の秒針が、かすかに音を立てて進んでいく。
蓮司はペンを止め、ようやく視線を上げた。
「壊れる音って、派手じゃねぇんだよな」
相談者が小さく瞬く。
「大声で泣いたり、暴れたりするやつより、静かに何も感じなくなってくやつのほうが、ずっと限界に近い。
自分でも気づかねぇうちに、心が“省エネモード”に入るんだよ」
「……省エネ?」
「ああ。
痛みも悲しみも、処理しきれなくなったら、心が勝手に感情を切る。
感じなきゃ壊れないように。
でもそれって、“壊れない”んじゃなくて、“壊れ方を遅らせてる”だけなんだ」
相談者は、少しだけ眉を寄せた。
「じゃあ、もう終わってるのかもしれませんね。
壊れるの、止められなかったから」
蓮司は首を横に振った。
「止めなくていい。
壊れるのが怖いのは、まだ生きたいってことだ。
それが残ってるうちは、ちゃんと“生きてる”」
相談者は、窓の外に視線を向けた。
空は群青に沈みかけていて、風が木々の葉を鳴らしていた。
その音が、やけに優しく響いた。
蓮司が低く言う。
「何も感じなくなったら、“無理に感じよう”とすんな。
焦ると、余計に麻痺する。
何も感じない自分を責めるな。
そのまま、静かに息してりゃいい。
それだけで、今は十分だ」
「……それで、いいんですか?」
「ああ。
感情ってやつは、死なねぇよ。
時間が経てば、また勝手に動き出す。
その時に“ああ、まだここにいた”って分かる。
それでいい」
相談者は少しだけ息を吐いた。
肩の力が、ほんのわずかに抜けたのが分かった。
蓮司はペンを閉じ、静かに言った。
「静かに壊れるのが怖いのは、まだ“音を聞いてる”からだ。
本当に終わるやつは、自分の音にも気づかねぇ」
相談者は何も言わず、深く頷いた。
その瞳には、まだ薄い影が残っていたが――
その奥には、確かに小さな光があった。







