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第十三章 繋がる願い
第四話 貧民街の灯火 前編
「静かにしろ」
低い声だった。
男の大きな手が、ジントの口元を塞ぐ。
すぐ近くを複数の足音が駆け抜けていった。
「こっちだ!」
「まだ遠くへは行っていない!」
白装束の男達の声。
ジントの身体がビクリと震える。
だが、目の前の男は微動だにしなかった。
薄暗い路地裏。
建物と建物の隙間。
積み上げられた木箱の陰。
二人の身体は隠れている。
激しい鼓動が治まらない。
男は外の様子を窺いながら、小さく舌打ちした。
「……チッ」
「教会の連中かよ」
その言葉に、ジントの瞳が揺れる。
男は二十代半ばほど。
少し伸びた茶色の髪。
日に焼けた肌。
鋭い目つき。
整った顔立ちだが、綺麗とは言えない粗雑な服装。
街の表側で生きる人間とは違う雰囲気を纏っていた。
やがて足音が遠ざかる。
男はようやくジントの口元から手を離した。
「……お前……何したんだ」
低い声。
責めるような響きではない。
ただ、状況を確認する声だった。
ジントは小さく首を横に振る。
話そうとしても、口元の布のせいで声にならない。
「あぁ……悪い」
男は眉を寄せ、ジントの口元の布を外した。
途端に、ジントは浅く息を吸い込む。
「っ……はっ……」
肺が痛い。
呼吸が上手くできない。
男はその様子を見て、顔を顰めた。
「……酷ぇな」
その視線が手首へ落ちる。
縄が食い込み、赤く腫れた跡。
「教会のやつらが、こんな小さい奴を縛って追いかけ回してるのか」
吐き捨てるような声。
ジントはその言葉に僅かに目を開く。
男から感じるもの。
警戒。
苛立ち。
面倒だという感情。
でもそこに、白装束の男達が持っていたものはなかった。
この男は違う。
そう感じた。
その時、遠くから再び声が響く。
「路地裏も探せ!」
ジントの身体が強張る。
男は舌打ちした。
「……最悪だな」
短く呟き、周囲を見る。
そして決めたように口を開いた。
「立てるか」
ジントは小さく頷く。
だが、立ち上がった瞬間視界が揺れた。
「っ……」
倒れかけた身体を、男が咄嗟に支える。
「おい!」
腕を掴んだ瞬間、男の表情が僅かに変わった。
軽い。
思った以上に。
近くで見ると、ジントは驚くほど細かった。
顔色も悪い。
まともに食べているのか疑うほど華奢な身体。
それなのに、黒い瞳だけは折れていなかった。
男は小さく息を吐く。
「……しゃーねぇな」
「こんな状態で放り出したら、どっちにしろ死ぬだろ」
ぶっきらぼうに言う。
そして男はジントの肩を支えた。
ジントが僅かに目を見開く。
「歩け」
「騒ぐなよ」
男は小さくため息をついた。
「俺まで面倒事に巻き込まれる」
文句を言いながら。
けれど手は離さない。
男は薄暗い路地の奥へ歩き出す。
ジントは息を切らしながら、その横顔を見つめた。
知らない男。
信用できるかなんて分からない。
でも、あの白装束の男達とは違う。
それだけは、分かった。
ーーー
路地裏は迷路のように入り組んでいた。
細い通路。
崩れかけた石壁。
頭上を渡された洗濯物。
湿った空気に、酒と煙の臭いが混ざっている。
ジントは男に支えられながら、必死に足を動かしていた。
息が苦しい。
肺が焼けるように痛む。
激しくぶつけた肩と手首も、強い
痛みを主張している。
身体に力が入らない。
それでも止まれば終わりだと分かっていた。
男は慣れた足取りで、次々と細道を曲がっていく。
時折、遠くから白装束の男達の声が聞こえた。
その度にジントの肩が小さく震える。
男はそんな様子を横目で見ながら、ボソリと呟く。
「そんな怯えなくても、ここらの路地はあいつら慣れてねぇよ」
「表の人間は滅多に入ってこねぇからな」
ジントは小さく息を飲む。
表の人間。
その言い方で、ここが東門近くの貧民街なのだと察した。
やがて男は古びた建物の前で立ち止まった。
木製の扉を軽く叩く。
「オレだ」
ギィ、と扉が開いた。
中から顔を出したのは、十代前半くらいの少年だった。
「ツヨシ兄ちゃん……って、誰その人!?」
「今説明してる暇ねぇ」
ツヨシと呼ばれた男は短く言う。
「教会の連中がうろついてる。しばらく匿うぞ」
その言葉に、少年の顔色が変わる。
「えっ、また厄介事!?」
「うるせぇ」
ツヨシは軽く少年の頭を小突き、ジントを支えたまま中へ入った。
建物の中は薄暗かった。
だが外よりずっと暖かい。
狭い部屋。
古い机。
雑多に置かれた椅子。
奥には簡易的な寝台も見える。
生活感のある空間だった。
「座れ」
ツヨシは椅子を引き、ジントを座らせる。
そこでようやく、ジントの身体から力が抜けた。
「っ……」
椅子へ座った途端、視界がぐらりと揺れる。
だがなんとか持ち堪え、軽く息を吐いた。
ツヨシはしゃがみ込み、ジントの手首の縄を見た。
「……酷ぇな」
ナイフを取り出し縄を切る。
解放された瞬間、ジントの腕から力が抜けた。
擦り切れた手首が熱を持って痛む。
ツヨシはその痕を見て、険しい顔になる。
「教会がこんなことするとはな……」
その言葉に、ジントの肩が僅かに揺れた。
ツヨシはふとジントの顔を見る。
長い黒髪。
黒い瞳。
色のない肌。
そして、異様なほど静かな雰囲気。
一瞬だけ、背筋に妙な感覚が走った。
「……名前は?」
問われ、ジントは少し迷った。
教会に追われている。
本名を名乗るのは危険かもしれない。
だがこの男は、助けてくれた。
ジントは小さく唇を開く。
「……ジント」
掠れた声だった。
ツヨシはその名前を繰り返すように呟く。
「ジント、か」
そしてジントの目を真っ直ぐ見た。
「オレはツヨシ」
「とりあえず今は安心しろ」
「ここなら、簡単には見つからねぇ」
ーー安心しろ
その言葉を聞いた瞬間だった。
今まで張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
ジントの身体がぐらりと傾く。
「お、おい!?」
ツヨシが慌てて肩を支える。
ジントは荒い呼吸を繰り返していた。
顔色が悪い。
額には嫌な汗が浮かんでいる。
「熱あんじゃねぇか……?」
ツヨシは眉を顰める。
ジントは小さく首を横に振った。
「だい、じょうぶ……」
「大丈夫な顔してねぇだろ」
即答だった。
ツヨシは呆れたように息を吐く。
「コウ!」
先ほどの少年が奥から顔を出した。
「水持ってこい」
「あと傷薬」
「えぇ〜……またオレぇ?」
「いいから早く」
「はいはい!」
コウは慌てて奥へ引っ込む。
その間も、ジントの呼吸は落ち着かなかった。
胸の奥が重い。
嫌な感覚が身体に残っている。
あの男の魔法だ。
呼吸を無理やり封じられた時の感覚が、まだ肺にこびりついている。
ツヨシはそんなジントを見ながら小さく舌打ちした。
「……教会の奴ら、何したんだよ」
ジントは答えない。
答えられない。
言えば、この人達まで巻き込んでしまう気がした。
その沈黙に、ツヨシは何かを察したようだった。
深くは聞かない。
ただ、無理やり話させることもしない。
やがてコウが水の入ったコップを持って戻ってきた。
「はい」
ツヨシはそれを受け取り、ジントへ差し出す。
「飲めるか」
ジントは小さく頷き、震える手でコップを受け取った。
冷たい水が喉を通る。
それだけで、少しだけ生き返るようだった。
ツヨシはその様子を見ながらふと呟く。
「……お前さ」
ジントが顔を上げる。
「教会に追われるようなこと、本当にしたのか?」
真っ直ぐな問いだった。
疑うような声ではない。
ただ、知ろうとしている声。
ジントは言葉に詰まる。
何から話せばいいのか分からない。
月蝕の子。
教会。
世界の理。
全部、普通の人間には理解できない話だ。
だからジントは小さく目を伏せる。
「……何も、してない」
掠れた声。
それを聞いたツヨシは、しばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「……まぁ、そんな顔してるよな」
「え……?」
「悪いことした奴の目じゃねぇ」
ツヨシはぶっきらぼうにそう言った。
ジントは目を見開く。
黒髪黒眼。
不吉。
恐ろしい。
化け物。
そういう視線には慣れていた。
けれど目を見て、“違う”と言われたのは初めてだった。
ジントの喉が小さく震える。
何か言おうとして、でも上手く言葉にならない。
そんなジントを見て、ツヨシは頭を掻いた。
「……で?」
「そのボロボロのまま、これからどうすんだ」
その問いに、ジントは息を飲んだ。
帰らなきゃ。
ダイチ達のところへ。
そう思った瞬間、脳裏に白装束の男達が浮かぶ。
もし戻れば、また狙われるかもしれない。
皆を巻き込むかもしれない。
ジントの表情が曇る。
ツヨシはそれを見逃さなかった。
「……帰れねぇ事情でもあんのか」
静かな声だった。
ーー帰れない。
その言葉が、胸の奥へ重く沈んだ。
ジントは視線を落としたまま、答えられずにいた。
ダイチの顔が浮かぶ。
ハヤト。
ジュウタロウ。
シュンタ。
帰りたい。
今すぐ会いたい。
無事だと伝えたい。
でももしまた教会の連中が現れたら。
もし皆まで巻き込んだら。
そう考えるだけで、胸が締め付けられる。
ツヨシは黙ってジントを見ていた。
無理に聞き出そうとはしない。
だが、放っておくつもりもないらしい。
やがて小さく息を吐いた。
「……まぁ、事情は話したくなったらでいい」
「今は追手を撒く方が先だな」
そう言って立ち上がる。
「コウ」
「なにー?」
部屋の奥から声が返る。
「表の様子見てこい」
「白い服の連中がまだいるか確認」
「えぇ〜……また危なそうなやつじゃん……」
「いいから」
「はいはい……」
ぶつぶつ言いながらコウは外へ出て行った。
扉が閉まる。
部屋の中へ静寂が落ちた。
ツヨシは腕を組み、壁へ背を預ける。
「……ったく」
「教会の連中が貧民街まで来るとか、ろくな話じゃねぇ」
ジントはその言葉に反応した。
「……よく、教会に逆らえますね」
掠れた声。
ツヨシは少し目を丸くする。
「逆らってるつもりはねぇよ」
「ただ、追われてる奴がいたから隠しただけだ」
あっさりした口調だった。
「でも相手は……」
「教会だろ?」
ツヨシは肩を竦める。
「だから何だ」
「オレら貧民街の連中は、元々“表”の人間に好かれちゃいねぇ」
「今さら教会に睨まれたところで、大して変わらん」
乱暴な言い方。
けれど、その声には諦めに近いものが混ざっていた。
表にいる人間と、裏側で生きる人間。
最初から違うものとして扱われてきた者の言葉だった。
ジントは静かに目を伏せる。
ラディスへ戻ってきた時から感じていた違和感。
街の人々は優しかった。
普通に接してくれた。
けれど同時に、どこか薄い膜一枚隔てられているような感覚もあった。
まるで——“触れてはいけないもの”を見るような。
ジントは無意識に自分の黒髪へ触れた。
その仕草を見て、ツヨシがふと口を開く。
「……黒髪、珍しいな」
ジントの肩が僅かに強張る。
まただ。
その言葉の先に続くものを、身体が覚えている。
不吉。
怖い。
気味が悪い。
そう言われる。
そう思った。
けれど。
「綺麗だけどな」
ツヨシは何でもないように言った。
ジントはゆっくり顔を上げる。
ツヨシは特別な意味などないように続ける。
「この辺じゃあんま見ねぇ色だから、目立つけど」
「……」
言葉が出なかった。
あまりにも普通だった。
怖がらない。
避けない。
ただ、珍しいものを見たように言っただけ。
何か言われると思っていた。
拒まれると思っていた。
けれど返ってきた言葉は、あまりにも自然だった。
胸の奥で、小さな何かが揺れる。
その瞬間。
——コンコン。
不意に、扉が叩かれた。
ジントの身体がビクリと震える。
ツヨシの目つきが変わった。
「……誰だ」
低い声。
すると扉の向こうから、聞き覚えのない男の声が響いた。
「教会の者です」
「少し、お話を伺いたい」
空気が一瞬で、張り詰めた。
コメント
8件
時差コメント失礼します! 今回もめっちゃ良き話でした!でも、まさかツヨシくんが出るとは、、、 つよじんの関係がこれからどうなっていくのか気になります!!
ちょ、ちょっと…え、私だけですか!? いろんな意味で心中穏やかでないのは😰😰 ら、らいばる…とかでは、ないですよ、ね…!? 親切心って思っていいですよね!?
ジントの黒髪にただ「綺麗だけどな」というツヨシの優しい言葉に泣けてきます😭きっと優しくて困っている人を見過ごせない人なんだろうなぁ
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ばたっちゅ
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成瀬りん
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