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「ありがとうございましたー!」
午後十時。
最後のお客様を見送った柚は、ふう……と大きく息を吐いた。
近頃の夢見の悪さのせいなのか。
いや、五月も下旬。寝苦しい夜も出てきたせいだろうか。やけに怠い。
「なんだよ、天野さん疲れた?」
背後から声がして振り返る。 明るく響く声の主はこの喫茶店の店長をしてる谷口航平である。
(そして、私の……)
「い、いえ。 ずっと事務職だったので、なんかダメですねえ。 体力が」
ここ最近の唯一の癒し。ちょっと気になる人ということにしとおこう。
艶のある少し硬そうな黒髪は短く切り揃えられていて、背は高く、スラリと長い脚が伸びている。
腰に巻いた黒いエプロンがこれまた素敵で。
「ははは、なんだそりゃ、まだ若いのによ」
豪快な笑い声と柔らかな笑顔は、ちぐはぐなようで、けれどとても綺麗だ。
「店長だってそんなに変わらないですよ」
「変わるだろ、十も違うとなぁ」
二十五歳の柚。三十五歳の航平。
だと、どうしても妹扱いが当たり前になってしまっていて。
柚は癖の強い、柔らかく張りのない髪の毛を指でくるくると弄ぶ。
この髪質は昔から好きじゃない。
おまけに童顔だし、こんな歳のくせに恋愛経験といえば、ろくなものがない。頑張って迫ってみたいと思っても、その方法さえさっぱりわからないのが現状だ。
(って、今それどころじゃないか)
「……ま、でも天野さんが来てもう半年くらい経つか? 」
頷きながら、柚はテーブルを拭いて回る。 五卓とカウンター六席の、決して大きくはない店内だからしっかりと声は行き渡る。
「はい。 この歳でアルバイトだなんて恥ずかしいですけどね」
「……働いてんだから恥ずかしくないだろ。 ゆっくり次探せばいいんじゃないか?」
優しく力強い声。
その度に胸の奥を、じわりと暖めてくれていること。 この人はきっと知らないから。
「ありがとうございます」
「天野さんらしく、自分のペースで考えりゃいいんだからな」
「はい」と、頷くが。
いつまでもアルバイトでは将来が心配だ。
父の存在は知らず、母も亡くし兄弟親戚はいない。
そんな柚にとっては、貯えのあるなしは死活問題。
奨学金を借り、必死に勉強をして、やっと入った大学。
卒業後は無事に電気機器メーカーへ就職したのだけれど……恋人だと思っていた男性が重役幹部の一人娘と結婚をした。
それを機に社内に居づらくなった柚は退職をしてしまったのだ。
そうこうしているうちに、唯一の家族である母が亡くなった。
小さな頃は体が弱く、苦労ばかりをかけた母に、結局私は何ひとつ親孝行をできていないまま。