夕方の相談室。
外は薄い灰色の光で、校舎の影がゆっくりと長く伸びていた。
日下部は机の上の書類を整えていたが、ノックの音に顔を上げた。
「……どうぞ」
扉の隙間から、小柄な男子生徒が顔をのぞかせた。
制服の襟が少しだけ曲がっている。
入っていいかと目で尋ねて、静かに一礼する。
「失礼します」
声が小さい。
日下部が椅子を勧めると、彼は深く腰を下ろした。
そのまま、しばらく沈黙が続いた。
日下部は無理に問いかけず、湯気の立つマグカップを彼の前に置いた。
「……これ、飲める? ちょっと甘いけど」
「……ありがとうございます」
彼は両手でカップを包み込み、目を伏せたまま、かすかに笑った。
その笑みは、温度のない、かすれるような笑みだった。
「最近、どうした?」
日下部が穏やかに尋ねる。
「……親が、期待してるのが分かるんです」
少年は視線を落としたまま、ぽつりとつぶやく。
「“お前ならできる”“頑張れば報われる”って。……そう言われるたびに、自分が小さくなる気がして」
カップの中の湯気がゆらいだ。
彼の声がそこに吸い込まれていくようだった。
「期待って……、悪いことじゃないのに。
それを苦しいって思う自分が、わがままなんじゃないかって。
この前、模試の結果が少し下がったんです。
父に“どうした”って聞かれただけで、息が詰まって……
謝るしかなかった。理由もないのに、“ごめんなさい”って」
日下部は、そっと眉を寄せた。
彼の言葉の中に、“生きるたびに評価される”息苦しさが染みこんでいた。
自分の存在が点数に換算されていく――そんな感覚。
「親の期待ってさ、たぶん、愛情の形なんだよ」
日下部は静かに言葉を選ぶ。
「でも、受け取る側が苦しくなるときもある。
“信じてる”って言葉の裏で、“失望しないで”って、勝手に構えちゃうから」
少年は唇を噛んだ。
ほんの一瞬、揺れるように目を伏せたあと、かすかに笑った。
「……そうかもしれません。
信じられてるって、怖いんです。
それに応えられない自分を見せたら、全部壊れる気がして」
「壊れないよ」
日下部は言い切った。
「壊れるのは、“完璧じゃないといけない”って思い込みのほう。
親も、本当はただ、“お前が生きてる”ってことを信じたいだけかもしれない」
少年は黙っていた。
少しして、俯いたまま、両手でカップを握りしめた。
指先が震えていた。
「……でも、もし本当にそうなら、俺、ずっと勘違いしてたんですね。
“できる子でいなきゃ”って、そればっかり考えてた」
「それだけ真面目だったってことだよ」
日下部は微笑んだ。
「人はな、頑張ることでしか、自分を守れなかった時期がある。
でも大人になると、“頑張らなくてもいい場所”を探せるようになる。
少しずつでいいから、その練習をしてみよう」
少年の目が、ほんのわずかに潤んだ。
けれど、その奥にあるのは絶望ではなかった。
静かな安堵――長い冬の終わりに訪れるような、淡いぬくもり。
「……はい」
その声は小さかったが、確かに空気を震わせた。
日下部はその言葉を聞きながら、机の上に置かれたカップの湯気がゆっくりと消えていくのを見つめていた。
部屋を包む沈黙は、もう重くはなかった。
窓の外では、夕陽が傾き、白い光が少しずつオレンジに溶けていく。







