放課後の相談室は、夕焼けの光でうっすらと染まっていた。
窓の外では、部活帰りの声が遠くに響いている。
日下部はファイルを閉じ、ふと時計を見る。
約束の時間より、少し早いノックの音がした。
「……入っていい?」
「もちろん。どうぞ」
扉の向こうから現れたのは、細い肩の男子生徒だった。
鞄を抱えたまま、どこか落ち着かない様子で立ち尽くしている。
視線が何度も床と天井を往復したあと、ようやく小さな声が落ちた。
「……テスト、全然だめで」
日下部は頷き、向かいの椅子を指さした。
彼はおそるおそる腰を下ろし、両手を膝の上に置く。
握りしめた拳が、白くなっていた。
「点数、聞いてもいい?」
「……平均より、けっこう下です。
でも、誰にも言えなくて。
友達には“まあまあ”って言っちゃったし、家でも“普通だった”って……
本当は“やばい”って思ってるのに、なんか言えないんです」
言葉の端が震えていた。
悔しさとも情けなさともつかない感情が、彼の喉の奥でつかえている。
「言えなかった理由、なんとなく分かるよ」
日下部は柔らかく言う。
「“できない自分”を見せたくなかったんだろ」
生徒は、少し驚いたように顔を上げた。
そして、視線を伏せて小さく笑った。
「……そうです。
笑われるのも、がっかりされるのも怖くて。
でも、シラを切る自分も嫌で……。
ほんとは、“頑張ったけどだめだった”って言いたいだけなのに」
その言葉には、焦げついたような自己嫌悪が滲んでいた。
日下部はしばらく黙り、机の上のマグカップに手を伸ばした。
温かいカフェオレを注いで、彼の前に差し出す。
「隠したくなるのは、逃げてるんじゃなくて、守ってるんだと思う」
日下部の声は静かだった。
「“できない”って言葉って、思ってるより重い。
それを人に見せるのは、勇気がいるんだよ」
「……守ってる?」
「うん。自分の心を。
本気で頑張ったことほど、失敗を認めるのは痛い。
だから人は、ちょっとだけ強がる。
それは悪いことじゃない」
少年はカップを両手で包み、湯気の向こうを見つめた。
まるで自分の呼吸が戻ってくるのを確かめるように。
「……でも、また怒られるかもしれません。
“なんで前より下がったんだ”って。
そう言われるのが、もう怖くて」
「怒られても、点数は“お前の価値”じゃない」
日下部は真っ直ぐに言った。
「点数は“今の状態”を映す鏡みたいなもので、
それをどう使うかはお前次第だ。
誰かの顔色を見るために勉強するのは、しんどいだろ」
生徒の目が揺れた。
何かを堪えるように、唇がきゅっと結ばれる。
そして小さく、言葉がこぼれた。
「……ほんとは、褒めてほしかっただけなのかもしれません。
“頑張ったね”って、誰かに言われたら、もう少し頑張れた気がして」
「その気持ち、大事にしていいよ」
日下部は微笑む。
「“認められたい”って、ちゃんとした願いだ。
それを自分で否定しないで。
人に言えないときは、まずここで話せばいい。
点数のことでも、気持ちのことでも」
夕焼けが、窓の縁を金色に染めていた。
少年はその光を見つめながら、少しだけ肩の力を抜いた。
空気がふっと軽くなったのを、日下部は感じた。
「……次は、ちゃんと話してみようと思います。
怖いけど、逃げてるのも疲れるし」
「うん。逃げるのも頑張るのも、“生きてる証拠”だからな」
少年は静かに笑い、深く頭を下げた。
その姿を見送りながら、日下部はカップの底に残ったわずかな泡を見つめていた。
あの子が自分を責める代わりに、少しでも息をつける夜が来ることを願いながら。
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