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午後の光が傾きはじめた相談室。窓際の観葉植物が、ゆらりと影を落としている。
ドアをそっと開けて入ってきたのは、高校二年の生徒――仮名で「ナツ」。
「すみません。ちょっと、聞いてほしくて」
机に書類をまとめていた日下部は、顔を上げて椅子をすすめた。
「どうぞ。ゆっくり話して」
ナツは制服の袖をいじりながら、息を吐く。
「たいしたことじゃないんです。……ただ、数学の小テストで、答えをひとつ書き忘れたんです。十点分。気づいた瞬間、頭が真っ白になって」
日下部は軽くうなずく。
「それは、ちょっとへこむな」
「はい。たかが小テストなのに、ずっと胸がざわざわして。自分がすごくダメな人間に思えて……。それで、友だちに『全然気にしてない』って嘘ついたんです」
静かな沈黙が流れる。廊下の向こうからチャイムの余韻がかすかに響く。
「その嘘が苦しくて?」
ナツは小さくうなずいた。
「どうでもいいことなのに、なんでこんなに気にするんだろうって。自分でもよくわからなくて」
日下部は窓の外をちらりと見やる。
「“たいしたことじゃない”って言ったけど、君にとっては大きいことなんだよ。点数より、“忘れた自分”にショックを受けたんだと思う」
「……そう、かもしれません」
「人は、ミスを自分の価値と結びつけがちだ。でもな、テストの一問と君の価値は関係ない」
ナツは少し目を伏せ、机の木目を指でなぞった。
「わかってても、すぐ忘れちゃうんですよね」
「それでいい。何度も忘れて、何度も思い出す。大人だって同じ。大切なのは“思い出し直せる”ことだよ」
ナツは小さく笑った。
「……ちょっと楽になりました」
「その笑顔が出るなら、今日の十点は安い買い物だ」
夕方の陽が差し込み、二人の影が重なる。
相談室は、もうすぐ放課後の匂いに包まれようとしていた。