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夜風が、川面をかすめていく。
冷たくもない、ただ肌をなぞるような風だった。
遥は、濡れたように冷たい土の上に座っていた。
声はもう出なかった。喉が、何かを拒むように閉じている。
視界の端で、街の灯りが滲んで揺れていた。
少し離れた場所で、蓮司が煙草に火をつけていた。
その仕草ひとつひとつが、静かで、丁寧だった。
まるで“何事もなかった”夜を演出するように。
「……寒いか?」
低く、優しい声。
遥は首を横に振った。
寒いかどうかなんて、もう分からなかった。
川の流れが、規則的に音を立てる。
その一定のリズムが、逆に胸を圧迫してくる。
「怒ってんのか、俺に」
蓮司が言った。
その声は、謝罪でも挑発でもない。ただ、淡々と空気に溶けるような音だった。
「……怒るとか、もう、わかんねぇ」
遥の声は掠れていた。
自分の声なのに、遠くで誰かが喋っているみたいだった。
「そうか」
蓮司は短く呟き、煙を吐いた。
白い煙が、ゆっくり夜空に散っていく。
「でもな、遥。お前は悪くねぇ」
その言葉は、やさしすぎて、逆に痛かった。
遥の胸の奥で、何かが軋む音がした。
「……悪くないって、何が」
「全部だよ。お前、ただ居ただけだろ」
「“居ただけ”で、壊れた」
静かな声。
その静けさこそが、蓮司の“支配”だった。
殴られるよりも、叫ばれるよりも、ずっと重く、逃げ場がなかった。
「……俺、わかんねぇんだ」
遥は唇を噛む。
言葉を絞り出すたびに、肺の奥が焼けるようだった。
「どうして俺が動くと、誰かが傷つくんだ。
誰かを守ろうとしたら、壊す。
何かを信じようとしたら、全部裏切りになる。
なんで、俺がいない方が、みんな上手くいくんだよ」
言葉が、止まらなくなっていた。
胸の奥に積もり積もっていたものが、一気にあふれ出した。
「俺、日下部のことも……守りたかっただけなんだ。
でも結局、壊した。
俺がいなきゃ、あいつ、傷つかなかった」
その“あいつ”という一言に、蓮司の目がわずかに動いた。
彼は何も言わず、煙草を足で消す。
火の残り香が、湿った夜気の中に沈んでいく。
「なあ、遥」
「……なに」
「お前、壊れてるって思ってんだろ」
「思ってる。ずっと前から」
「違ぇよ。壊れてんじゃねぇ。……壊され慣れてんだ」
その言葉が、静かに刺さった。
優しさの形をした、刃のように。
遥は目を伏せた。
涙は出なかった。ただ、心の奥で何かが完全に折れた音がした。
「それでも、お前は来るんだろ。明日も」
蓮司の声は、まるで確認のようだった。
遥はゆっくり頷いた。
もう、拒むという選択肢が思いつかない。
家にも、学校にも、誰の中にも逃げ場はなかった。
逃げても、結局“見つかる”。
そういう場所で、生きてきた。
蓮司が立ち上がる。
風が彼のコートを揺らした。
去り際、ほんの一言だけ落とす。
「……お前がいないと、何も始まらねぇんだ」
その声は、優しかった。
残酷なほど、優しかった。
足音が遠ざかる。
川の音がまた戻ってくる。
遥はただ、空を見上げた。
光のない夜だった。
その暗闇の中で、自分がまだ“生きている”という感覚だけが、痛みのように確かだった。