手を振り、部屋に戻って行くカーネの背中が見えなくなるまでシスが見送った。完全に彼女の姿が見えなくなった途端、騒がしかったはずの飲食スペースが一気にしんっと静まる。
「——さて、今の話は聞いていたな?全ての条件に当てはまるシェアハウス向けの物件をすぐに用意し、明日の午前中までに彼女を迎い入れられる様に用意しておくんだ。家具の類は気付かれない程度に高級な物で揃えろ。衣類の全ては直々に二人で買いに行くから、一切用意しなくていい。居住者には確定でテオとリュカを。他に選ぶのはほぼ帰宅しないような職種の者か、遠征の多い者の名前だけを借りておけ。たまに顔を出すくらいは不定期でした方がいいが、シェアハウスに泊まるのだけは絶対に禁止だ」
カーネと喋っていた時よりも少し低い声でシスが言う。今まで掛けていた眼鏡を片手で外してカウンターテーブルに置くと、彼は気だるそうな青い瞳を周囲に向けながら長い前髪を邪魔そうにかき上げた。
「了解しました。すぐに準備を始めます」
さっきまでジョッキに入った酒を陽気に煽っていた数人の男女がそう答え、恭しく頭を下げてから直様宿を後にした。カウンターの向こう側で待機して、カーネに料理を運んだりもした店員もシスの側に戻って来ると、「近隣の治療院に『しばらくヒトは雇い入れるな』と連絡もしておきますか?」と確認してくる。
「あぁ、そうしてくれ。徒歩圏にある治療院全てに通達するんだ。もし、『やっぱり治療院で働く』と行動を起こしても、再度心変わりしてもらわねばな」
「了解です。んでも、ララ様がそうはならない様にきっちり誘導してくれるでしょ」
茶色い髪に白いメッシュの入った店員がそう言うと、『——そりゃそうダヨ。ボクの妹は優秀だかラネ』と言って、猫にしては規格外の巨体を持つ黒猫が何処からともなくぬるりと姿を表し、シスの足元に寄り添う。
『良かっタネ、トト様。明日からはやット、カカ様と一つ屋根の下ダヨ』
甘えるような声でそう言うと、黒猫は音もなくシスの膝の上に乗っかった。
「ロロの言う通りだな。そうだよな……この先は、一つ、屋根の下、なんだ」と噛み締める様に呟き、ロロの背中を撫でながらシスが逆の手で鼻を押さえる。これからの生活をちょっと想像しただけで今にも鼻血が出てしまいそうだ。
「……メンシス様。あんまり早くボロを出さないよう、マジで気を付けて下さいね?さっきだって『勃ちそう』とか呟くから、オレめちゃくちゃ焦りましたよ」
カウンターの向こうに立つ男性はそう言うと「はぁ」と大きなため息を吐いた。そんな彼に向かい、ロロが呆れた様な眼差しを向ける。
『そう言うリュカの方ガ、既にボロを出しているケド?今のトト様の名前は「シス」でショウ?』
「——あっ!」とリュカが叫び、「で、でも、今は絶対に聞こえていないし。その辺はわきまえてますから」と拗ねた顔で続ける。
『カカ様は無自覚だけど聴力が優れているからネェ。今はボクのおかげで絶対にこの場のやり取りは漏れないケド、今後は徹底した方が良イヨ』
「そうだな。——じゃあ、今後の連絡係はテオが担当してくれ。彼女との面識もないし、丁度良いだろう」
客達の中に混じっていたテオが席を立ち、恭しく頭を下げて「かしこまりました」と返す。テオの褐色肌はこの国ではとても目立つが、そういった知識にも疎いカーネが相手なら問題無いだろう。
「では、今日は解散だ。各自仕事に戻るなり、帰って休むなり好きにしてくれ」
そう言って、カーネには『シス』と名乗ったメンシスは席を立つと、黒猫のロロを連れ立って宿の方へ足を向ける。そして当然のようにカーネの借りている部屋の、隣の部屋の中へ消えて行った。
「——あ、あ、危なかったぁぁぁぁ」
宿泊先の部屋に飛び込み、扉を閉めた瞬間、カーネの全身から冷や汗がドバッと出た。シャワーでも浴びたのか?と訊かれそうな程の汗の量だ。本心をひた隠し、テキトウに謝って事なきを得るのには慣れたものだが、嘘や誤魔化し、言い訳を並べる事など不慣れないせいでどうやってあの場を切り抜けたのか思い出せない。もしかすると、『戸惑うばかりになってしまうのは語彙力の不足も原因かもしれないな』とカーネは思った。
(今後は、体力作りと同時に語彙力も鍛えていかないと)
シェアハウスの仕事が掃除だけをしていればいいものだとは思えない。きっと住人とのやり取りも少なからずあるだろうから、そうなるとコミュニケーション能力も必要だろう。だがそんなもの、色々な状況に慣れていくしか鍛えようがない気もするが、語彙力の無さで言葉が出てこないくらいなら努力で改善出来そうなので、カーネは目標内容を改めた。
『お疲れ様でしタ。あとはもウ、シャワーでも浴びてゆっくり休むと良いワ』
颯爽とベッドの上にララがあがり、ゴロンと隅っこの方で丸くなった。白いボディが丸くなると雪の塊みたいでちょっと綺麗だ。そんな彼女の隣にそっと座り、寄り添うみたいにカーネも寝転がる。
「ねぇ、ララ。一つ、訊いてもいい?」
『えェ、もちろんヨ』
ララが赤い瞳を少し開け、カーネに優しい眼差しを向けた。
「さっきの、“神力”の話、だけど……今の私って、本当に使えるの?」
『そうヨ。「今までは使え無かったのに、何故急に?」って思っているんでショ。……そうねェ、“神力”の仕組みってわかル?』
「そう言えば、そう珍しいものではない、くらいしか……」
『えェ、確かにそうネ。昔は誰だって使えたんだもノ。カルム様の一件でヒト族が“加護”を失ってからハ、使えない人が増えたってだけデ』
「そうだったの?」
『昔は“魔力”を操れる者の方が珍しかったいくらいヨ。——まず、“魔法の原理”は知ってル?』
そう訊かれ、カーネは素直に首を横に振った。
『“魔力”は、個々の魂の力を源にしているノ。イメージとしては命を燃やして特別な力を得ている感じネ。それぞれ持っている力の差が激しくっテ、弱いと“魔力”に変えて魔法を使うことは出来ズ、強い者は魔法として扱う事が出来るノ。一度に強大な魔法を使うと死んでしまう事があるのはそのせいネ。だから魔法使いは皆、自分の力量の限界値をまずは見極め、限界以上の魔力を使わない様にする事から学ぶワケ』
「そ、そうなの?私……なんとなく適当に使っちゃってるけど、これって大丈夫なのかな」
不安そうなカーネに、ララは『大丈夫ヨ』と断言した。
『今のカカ様は“魔力”を人並み以上には使えるかラ、今まで通りで問題無いワ。“神力”に関しても同じヨ』
「でも、神殿での測定では“神力”が無いって言われたのに?」
『“神力”はネ、文字通り「神の力」を借りる行為なノ。その力に耐えうる器を持チ、始めて使えるものなのヨ。でもネ、“ティアン”の体は神力との親和性が最高値でモ、中に入っている魂はゼロだったから「“神力”は無し」と言われたノ。逆ニ、“カーネ”の魂は“神力”との親和性が最高値なのニ、体の方は親和性がゼロだから何をしても“神力”は扱えなかったのヨ』
「そうなんだ……知らなかった」
『まァ、そこまできちんと研究はされていないでしょうからネ。その事実を研究者達に教えてくれそうな者は軒並み太陽の神官達とは不仲だシ。その点、シス様はちゃんと色々学んでいるんじゃないかしラ。カカ様と同じく“魔力”も“神力”も扱える者はとっても珍しいかラ、いっぱいあの御仁を頼りにすると良いワ』
「そうなの?じゃぁ、心強いね」
『えェ、そうネ』と言って、ララが嬉しそうに微笑んだ。
『アタシはもう休むかラ、後はカカ様の好きにするといいワ。でモ、部屋から出る時は起こしてネ?女性の一人歩きは危険だかラ』
「うん、わかった。おやすみなさい」
『おやすみなさイ、カカ様』
瞳を閉じ、ララがゴロゴロと喉を鳴らす。そんなララの体を優しく撫でているうちに、昼間は歩き通しだったせいか、カーネもそのまま眠りに落ちたのだった。
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