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それは、ほんの小さな風邪だった。
夕立の日に少し濡れただけのはずが、翌朝、喉がひりつき、微熱があった。
「……大丈夫、だいじょうぶ」
朔は無理やり笑って学校へ向かった。
雨は降っていない。
晴弥に会える日は、できるだけ休みたくなかった。
けれど午前の授業が過ぎる頃には、
ペンを持つ手がじわりと汗ばみ、
文字がかすんで見えた。
「天野、大丈夫か?」
友人が眉をひそめる。
「あ、うん。ちょっと眠いだけ」
そう答えた瞬間、咳が込み上げた。
止められず、小さく肩が震えた。
視線を感じて顔を上げると、
晴弥がちらりとこちらを見ていた。
その目は、わずかに曇っているように見えた。
保健室で少し寝てきなさい、と担任に言われ、
朔は一人、ベッドに身を横たえる。
消毒液の匂いと静けさが、余計に熱を意識させた。
うとうとしながら、
朔の思考は一人の人物にばかり向かった。
――晴弥、授業受けてるかな。
ノート、後で写させてもらえるだろうか。
そんなことを考えているうちに、
いつの間にか眠っていた。
放課後。
まだ少し身体がだるい。
下駄箱へ行くと、自分の靴の上に何か乗っていた。
プリントの束。
欠席した授業の分が、一枚一枚揃えられている。
「……え?」
手に取ると、最後のページに短い文字が書かれていた。
『薬、ちゃんと飲め』
癖のある筆跡。
でも、誰のものかは一瞬で分かった。
――晴弥だ。
その事実だけで、胸が熱を持ったように熱くなる。
どこか見られている気がして振り向くと、
階段の影に彼がいた。
朔が気づいたと分かると、
晴弥は目を逸らし、ポケットに手を突っ込んだまま歩き出す。
「あ……晴弥!」
声をかけると、立ち止まった。
朔はプリントを胸に抱えながら駆け寄る。
「ありがとう! 本当に……助かった」
晴弥は少し眉を寄せた。
「別に。お前、風邪なんて珍しいし」
そのぶっきらぼうさに、
なぜか安心してしまう自分がいた。
外へ出ると、またしても唐突な雨。
細かい雨粒が風に乗って流れてくる。
「うそ……また?」
傘はない。
晴弥は無言で鞄から黒い傘を取り出し、
朔の頭上へ差し伸べた。
「風邪、悪化すんだろ」
自然に肩が寄る。
袖口が運動のたびに掠め、呼吸に合わせて近づく。
歩幅を合わせてくれるのが、嬉しかった。
薬袋を持っている朔の手に気づいたようで、
晴弥が少しだけ目を伏せる。
「……ちゃんと飲めよ。こういうの、蓋回すの苦手だろ」
その言い方が妙に正確で、
思わず苦笑が漏れた。
「わかってるよ。ありがとう」
蓋に触れた指が、少し震える。
晴弥は、その様子を黙って見ていた。
そして、さりげなく薬瓶を受け取り、
くるりと蓋を回して戻してくれる。
「ほら」
短い一言。
でも、その動作に込められた優しさは大きい。
朔が受け取るとき、
指先と指先が触れた。
雨よりも確かな温度。
その熱が、離れたあとも指に残り続ける。
「……晴弥」
呼ぶ声が小さく震えた。
晴弥は黙ったまま前を向いて歩く。
けれどその横顔は、ほんの少し照れているようにも見えた。
傘に当たる雨音が、世界を包み込む。
また雨が二人の時間を作ってくれている。
――守られている。
そんな実感が胸を満たしていく。
家の近くまで来ると、晴弥が立ち止まった。
「ここまででいいだろ」
「うん……ありがとう」
朔が頭を下げると、
晴弥は一瞬だけ目を合わせた。
「……無理すんな」
言葉とは裏腹に、声は驚くほど優しかった。
朔は笑う。
熱のせいだけじゃない笑顔が、自然と浮かんだ。
「また明日」
晴弥がほんの少しだけ頷いた気がした。
雨の中、二人の影が静かに重なり、
やがて少しずつ離れていった。