放課後の空は、季節の変わり目らしく落ち着きがない。ついさっきまで明るかったはずの西日が、雲に隠れて色を失っている。
昇降口に並んだ傘立ての中で、黒い傘がひときわまっすぐに立っていた。晴弥の傘だ。
朔は靴を履き替える手を止め、その傘を見つめる。彼はまだ来ていない。帰りに委員会で呼び止められたと言っていたから、きっともうすぐ来る。
――待つ理由なんて、本当はないのに。
自分の心にそう言い聞かせようとした、その瞬間だった。
「……待ってたのか?」
背中に、落ち着いた声が落ちてくる。
振り返ると、晴弥が立っていた。鞄を片手に、少し息を弾ませながら。前髪からひと筋、濡れたように光が垂れている。曇り空に反射した薄い光が、黒い瞳に小さな煌めきを宿していた。
「いや、その……ちょうど帰ろうとして」
朔は慌てて靴のかかとを直す。心臓が跳ねているのが、自分でもわかる。
別に、彼を待っていたわけじゃない。
けれど――
「そうか」
晴弥は短く相槌を打つ。その表情はいつも通り無愛想で、読みづらい。
だけど、彼の指先が黒い傘を取るその仕草に、どこかやわらかさがあった。柄の端に触れた親指が、少し震えて見えた。気のせいだろうか。
外に出ると、雨上がりの湿った匂いが漂っていた。路上に残る水たまりが、空を鈍く映している。
「……降ってないんだな」
晴弥が空を仰ぐ。朔もつられて見上げる。
雨は止んでいた。でも、雲は低く垂れ込めていて、いつまた降り出すかわからない。
「雨、好きなの?」
朔の問いに、晴弥は意外そうに眉を少し動かす。
「別に。……お前が濡れるのが嫌なだけだろ」
その言葉は、風に紛れるほど小さかった。朔は聞き返せなかった。ただ胸の奥がぎゅっと熱くなる。
二人で歩き出す。並ぶ距離は、指先がぎりぎり触れない位置。
――触れられたらいいのに。
そんな願望を口にできる強さは、朔にはまだない。
しばらく黙ったまま歩き続けた。雑踏のない帰り道。足音だけが二人を繋いでいるようで、朔はその静けさが少し怖くなる。
「なぁ、晴弥」
勇気を振り絞って呼びかけると、晴弥が目を細めて朔の方を向く。
その瞬間、雲の切れ目から柔らかな光が差し込んだ。
雨上がりの光が、晴弥の目元に小さく反射する。
濡れた睫毛の隙間から覗く視線が、どこか照れくさそうに揺れた。
「……何」
「なんでも……ないよ」
俯いた朔を見て、晴弥はほんのわずか、唇の端を上げた。
それは、誰も見たことのない微笑だった。
ふと、指が震える。
自分のじゃない。晴弥の指だ。
傘の柄を握る手が、かすかに、だけど確かに震えている。
その震えが、朔の胸の奥深くに波紋を広げた。
「……なに笑ってんだよ」
朔が小さく呟くと、晴弥は一瞬だけ目を見開き、すぐに目を逸らした。
「笑ってねぇし。勘違いすんな」
そっけない言葉。
なのに、頬の奥が少し赤い。
朔は、息を吸うタイミングさえわからなくなる。
「晴弥って、もっと笑えばいいのに」
言った瞬間、自分でも驚くほど声が震えた。
晴弥は黙ったまま、朔の顔を見つめる。
「……嫌だ」
「なんで?」
「……お前に見られるの、恥ずかしい」
目を逸らしたまま呟く声は、不器用で、正直で。
朔は一瞬で息を奪われた。
「……何、それ」
「素直じゃねぇからな、俺」
けれどその言葉とは裏腹に、晴弥は小さく肩を揺らして笑った。
雨の匂いが残る空気の中で、微かな笑い声が溶けていく。
朔は――気づいてしまった。
晴れの日の曖昧な光の中でも、
雨上がりの薄い匂いが漂うだけで、
晴弥は少しだけ優しくなる。
そしてその優しさは、自分だけに向けられていると信じたくなる。
指先が触れない距離を保ちながら歩く二人。
けれど、その距離は確かに縮まっている。
初めて見た笑顔が、それを証明していた。
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