テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
20
瀬名 紫陽花
第4話 覚えていない話
夜の食堂は、疲れた音でできていた。
缶のふたをこじ開ける音。
湯の薄い沸き方。
椅子を引く脚。
誰かの咳。
皿の底をこする匙。
壁の向こうで回り終えた発電輪が、まだ少しだけ癖みたいに鳴っている。
その音の真ん中へ、ナミオはいつものラジカセを抱えて入った。
布を巻いた箱は胸の前で角ばり、抱きかかえるたびに骨へ当たる。何度も縫い直された作業着の胸ポケットは、工具の重みでいつも通りふくらんでいた。前髪の根元には赤い砂が少し残り、頬の薄い硬化は灯りの下で浅く浮く。
カザンが先に気づいた。
鍋のそばで立ったまま、袖をひじまでまくり、首の太い影を壁に落としている。鼻筋の横の浅い傷だけが先に動いた。
「来たな、食うやつ」
「食うやつって何」
「話すやつ、の前」
トウヤが席から顔を上げる。
痩せた首が灯りにのび、耳にかかる髪が片側だけ跳ねていた。笑うと遅れて片方の口角が上がる。
「今日は何の話」
「昨日も聞いたろ」
「昨日のは忘れた」
「早いな」
「疲れてるから」
カザンが鍋をかき回しながら言う。
「おまえの話って、残るやつと残らないやつあるんだよ」
「選別されてるみたいな言い方」
「されてるんだろ」
食堂の奥でユラが振り向いた。
肩で切りそろえた髪を後ろでざっとまとめ、長い袖の先から指先だけ出している。目の下の影は薄いのに、目そのものはよく起きていた。
「歌は残る」
「何の歌」
「ほら、前に拾ったやつ。途中だけ高くなるやつ」
「あれ先月じゃない?」
「先月だった?」
「たぶん」
トウヤが首をかしげる。
「でも覚えてる」
「歌は覚えるんだよな」
カザンが笑う。
「話は忘れるのに」
ナミオはラジカセを壁ぎわに置いた。
傷だらけの角、別の鉄で継いだ持ち手、赤い砂の入りこんだ溝。今では食堂の誰も、それを珍しそうには見ない。珍しいのは、中から鳴るものの方だった。
鍋の湯気がゆっくり上がる。
保存食の豆と、地下菜を刻んで入れた薄い汁。塩気は強く、香りは弱い。けれど、空の腹に漂ってくれば、それだけで場が少し丸くなる。
カザンが鍋から皿へよそい、まず自分の分を置き、それからナミオの空いた場所を顎で示した。
「座れよ」
「今日は何と引き換え」
「まず値を聞くんじゃない」
「大事だろ」
トウヤが言う。
「同じ話なら半分、知らないやつなら一食」
「歌つきなら?」
ユラが横から聞く。
「歌つきなら汁多め」
「安い」
「汁は大事だぞ」
ナミオは座りながら、ふっと息を吐いた。
これももう何度目かわからない。
労働のあと、夜の食堂で、自分が知っている前の時代の断片を話す。そのたびに、みんなは初めて聞くみたいな顔をしたり、途中だけ思い出したり、まったく覚えていなかったりする。けれど、誰かが「前にも聞いた」と言った直後に、「でもその続きは知らない」と言い出すこともある。
忘れているのか、残っているのか、線があいまいだった。
「じゃあ今日は」
カザンが匙を鍋の縁に当てた。
「食いながら聞くか。あんまり長いと冷める」
「もともとそんな熱くない」
「気分の話だ」
ナミオの前に皿が置かれる。
湯気は細い。地下菜は溶けかけて形がなく、豆はところどころ潰れている。けれど、今日はいつもより少し多い。カザンが気づかれないくらいに匙を深く入れたのが見えた。
「一食分、先払い?」
「まだ前金だ」
「話の途中でつまんなくなったら返せよ」
「無理だろ」
トウヤが笑う。
ナミオは匙を持ったまま、ラジカセの方を見た。
「歌もある」
その一言で、数人の目が少しだけ上がった。
湯気の向こうで、疲れた顔が同じ向きを向く。
それが少しおかしかった。
話の時より、歌の時の方が、耳が先に起きる。
「発掘?」
ユラが聞く。
「発掘って言うほどじゃない」
「拾ったやつ?」
「昨日の続きの途中で、変な切れ方してたやつの前」
「前」
トウヤが眉を寄せる。
「おまえ、前とか途中とか手前とか好きだな」
「好きっていうか、そういうのばっかりなんだよ」
「ちゃんと鳴らないってこと?」
「ちゃんと鳴りきらない」
カザンが頷く。
「それはこの世界っぽい」
誰かが小さく笑った。
ナミオは匙を口へ運んだ。塩気が先に来て、そのあとに地下菜のやわらかい癖が舌に残る。水は少し金気がある。けれど空腹で飲み込めば、体の奥の冷えた隙間に落ちていく。
「じゃあ、先に話」
トウヤが言う。
「歌流すと、そっちに引っ張られて途中のこと全部飛ぶから」
「もう飛ぶ前提なんだ」
「だって毎回そうじゃん」
ユラが袖の中で指を組む。
「前にさ」
「うん」
「外で動く階段の話した」
「動く階段?」
ナミオは目をしばたいた。
「そんな話したっけ」
「したと思う」
「したの?」
トウヤが首を傾げる。
「聞いた気もするし、夢かもしれない」
カザンは鍋の底を見ながら笑った。
「ほらな。こうなる」
ナミオはしばらく考え、それから肩をすくめた。
「じゃあ、もう一回する」
「それがいい」
「何度でも新鮮」
「雑だな」
皿の湯気が、弱い灯りに溶ける。
ナミオは口を拭い、話し始めた。
「前の時代は、上に行くための階段が勝手に動いてた」
「上って、どこ」
「建物の中の上」
「建物って、そんな高かったの」
「高いやつは高い」
「どのくらい」
ナミオは少し宙を見た。
「……見上げて首が疲れるくらい」
トウヤがすぐ笑う。
「雑」
「でもわかる」
ユラが言った。
「それで、勝手に動くの?」
「うん。立ってるだけで運ばれる」
「怖くない?」
「最初は怖い人もいたと思う」
「じゃあ、慣れるんだ」
「慣れる」
カザンが匙を止めた。
「何のためにそんなもん作るんだろうな」
「上まで行くため」
「歩けばいいだろ」
「たぶん、歩くのが面倒だったんじゃない」
「贅沢だな」
その言い方に、食堂の空気が少しだけやわらかくなる。
誰も見たことのないものを、贅沢だと笑う。
羨ましさと呆れが半分ずつ混じったような笑いだ。
ナミオは続きを口の中で探した。
「あと、道の横に飲み物を売る箱があった」
「売る箱?」
「押すと出てくる」
トウヤがすぐ顔をしかめる。
「また変なの来た」
「前にも聞いたかも」
ユラが言う。
「冷たいって言ってた」
「冷たいのもあった」
「今それ言われるとずるい」
カザンが笑う。
「冷たい飲み物は卑怯だ」
「缶に入ってて」
「缶」
「いろんな味があって」
「味って何個」
「いっぱい」
「雑」
また笑いが起きる。
ナミオも少し笑った。
いつも同じようなところで、みんなが同じように引っかかる。動く階段。冷たい飲み物。箱から出てくる。昼に歩ける。映る画面。顔を見ながら話せる。どれも前の時代の話なのに、この食堂ではもう昔話の癖みたいに座っていた。
けれど、不思議と全部は残らない。
明日になれば、動く階段のことは誰かの中で消える。冷たい飲み物だけが残るかもしれない。箱の方が残るやつもいる。あるいは、何も残らず、ただ「ナミオがまた何か変な話をした」だけが残る夜もある。
「その箱、歌も出る?」
トウヤが聞く。
「歌はたぶん出ない」
「たぶん、って」
「俺も見たわけじゃないから」
「またそこか」
カザンが匙を置いて、皿の底を少し叩いた。
「見たわけじゃないのに、よくそんなに話せるよな」
「聞いたから」
「誰に」
「老爺」
その名前が出ると、場が少しだけ落ち着く。
誰もが顔を知っているわけではない。でも、ナミオにラジカセを渡したのがその老爺で、前の時代の断片をいくつも知っているらしいことは、拠点の一部にはもう通っていた。
ユラが小さく頷く。
「老爺の話って、なんか残るんだよね」
「じゃあ、俺の話も残ってるじゃん」
「経由すると薄まる」
トウヤが言った。
「ひどい」
「でも、歌は残る」
ユラがまた言う。
その言い方には、少しだけ本気があった。
カザンが鍋のふちに手を置く。
「よし。じゃあ、今日の残るやつ聞くか」
ナミオは立ち上がり、ラジカセを持って戻った。
食堂の壁に寄せた棚の上へ置く。
傷だらけの箱のつまみに指をかけると、室内の会話が少しずつ細くなる。疲れた労働者たちの目が、弱い灯りの中で同じ場所へ集まる。真っ正面から見る者もいれば、皿を見たまま耳だけ向ける者もいる。眠そうな顔のまま、指先だけ止まる者もいる。
ナミオは布を外し、つまみを回した。
ざ。
ざあ。
いつもの雑音が立つ。
その奥に、小さなかすれ。
さらに少し回す。
低い揺れがひとつ。
そのあとに、短く切れた音が二つ。
そして、ごく短い、歌の欠片。
一度だけ。
ほんの二息ぶん。
高くはない。低くもない。けれど、雑音の海の中で、その部分だけが妙に丸い。欠けた陶器のかけらにまだ模様が残っているみたいな、途切れたのに終わっていない音。
ユラが先に息を止めた。
トウヤの眠そうな目が、少しだけ開く。
カザンは皿を持つ手を止めた。
歌は一瞬で終わり、またざらつきへ戻る。
ざあ……。
ナミオはそこでつまみを戻した。
静かになる。
食堂に残るのは、鍋の湯気と、人の呼吸と、さっきまで鳴っていたものの名残だけだ。
「短い」
最初に言ったのはトウヤだった。
「短いけど、残る」
ユラが小さく続ける。
「何て言ってるかわからないのに」
「言葉じゃないのかも」
ナミオが言う。
「でも歌っぽい」
「歌だろ」
カザンが断言した。
「半分歌」
誰かが食堂の奥で言って、くぐもった笑いが起きた。
その言葉はもう、少しだけ拠点の中で歩き始めていた。
ナミオはラジカセの上に手を置いた。
あの短い欠片が、昨日も今日も、誰かの中に残る。
自分が何度話したかもわからない動く階段のことより、冷たい飲み物の箱のことより、ずっと短いのに、形だけは強く残る。
「もう一回」
ユラが言う。
「汁と引き換え?」
ナミオが聞くと、カザンが鍋を持ち上げた。
「一回ごとに一匙」
「安いのか高いのかわからない」
「この鍋の最後の方は価値高いぞ」
トウヤが皿を寄せる。
「俺の分も一口やるから、もう一回」
「それは話も追加」
「何の」
「前の時代の、顔を見ながら話すやつ」
「またそこ」
「忘れたから」
ナミオは呆れたように笑い、でも、つまみへ指を戻した。
ざ。
今度は少し長く探る。
低い唸りのあとに、短い高まり。
また二息ぶんの歌。
食堂の隅で、誰かが目を閉じる。
別の誰かが、皿の底を匙で軽く叩く。
リズムでも取るみたいに。
ナミオは音を切った。
「顔を見ながら話すって」
トウヤが先を促す。
ナミオはラジカセを抱えたまま、棚へ寄りかかった。
「離れた場所の相手と、箱みたいなやつ越しに喋るんだけど」
「また箱」
「だって箱なんだよ」
「何でも箱にするな」
「薄い板みたいなのもあった」
「板か箱か決めろ」
「どっちもある」
カザンが匙を鍋に差し入れる。
「その相手の顔が映る」
「顔」
「目も、口も、向こうで動く」
ユラの目が少し大きくなる。
「歌じゃなくて?」
「歌じゃなくて」
「じゃあ、向こうが笑ったらわかるの」
「わかる」
「怒ってても?」
「たぶん」
トウヤが首を振る。
「面倒だな」
「何が」
「顔見えるの」
それで、何人かが小さく笑った。
ナミオも笑う。
「おまえら、いまでも顔見えてるだろ」
「でも、離れてたらいいじゃん」
「楽なのか?」
「楽な時ある」
カザンが頷く。
「疲れてる日は、声だけで済ませたい」
「でも、前の時代の人はそれもできたんだろ」
ユラが聞く。
「顔も、声だけも」
「たぶん」
「たぶん、ばっかり」
「全部は知らないよ」
ナミオがそう言うと、少しだけ静かになった。
知らない。
そこはいつも同じだ。
自分は前の時代を生きたわけじゃない。ただ、老爺から聞いたり、拾った電波から断片を受け取ったり、歌の欠片や言葉の癖をつないでいるだけだ。なのに、こうして話していると、見たことのないものの輪郭が少しずつ自分の中で厚くなる。
それを話すたび、誰かが笑う。
誰かが忘れる。
誰かが、ひとつだけ残す。
「じゃあさ」
トウヤが皿を持ち上げた。
「その顔見ながら話すやつと、この歌、どっちがすごい」
「比べ方おかしいだろ」
カザンが言う。
「でも聞きたい」
ナミオは少し考えた。
食堂の天井は低い。弱い灯りは皿のふちで止まり、奥まで届かない。人の肩や髪や泥化の跡が、その半端な光に切られて見える。こうして同じ鍋からよそって、同じ部屋で息をしているのに、疲れのせいで、昨日の会話は半分消えている。
その中で、何が残るのか。
「歌」
ナミオが言うと、ユラがすぐに笑った。
「だよね」
「顔見るのもすごいけど」
ナミオはラジカセを指で叩いた。
「歌は、忘れても戻ってくる」
カザンが少し目を細める。
「忘れても?」
「話って、うまく残らないことあるだろ」
「ある」
「でも歌は、途中だけでも残る」
トウヤが頷いた。
「それはわかる」
「顔とか、動く階段とか、箱とか」
ナミオは少し笑う。
「そういうのは、聞いてると面白いけど、次の日には端っこから欠ける」
「端っこから欠ける」
ユラがその言い方を気に入ったみたいに繰り返した。
「歌は、欠けても歌なんだよ」
食堂の奥で、誰かが小さく頷いた。
知らない労働者だった。地下菜の運搬に入るだけの男で、普段あまり喋らない。短く刈った髪に赤い砂が残り、片手の甲だけ泥化の跡が深い。
その男が珍しく口を開く。
「前に流したやつ」
「うん」
「高いとこから入って、最後だけ落ちるやつ」
「あった」
「まだ少し覚えてる」
ナミオは瞬いた。
その歌は二週間前の欠片だ。短くて、途中しかなくて、最後は雑音に削られていた。それでも、残っている者がいる。
「ほらな」
カザンが言う。
「話は忘れるけど、歌は残る」
「俺の話も一部は残ってるかもしれない」
「一部ね」
トウヤが笑う。
「動く階段」
ユラが言う。
「冷たい飲み物」
トウヤが足した。
「箱」
カザンが続ける。
「雑」
ナミオは顔をしかめたが、笑いは止めなかった。
結局、少しは残っているのだ。
全部じゃない。
輪郭の濃いところだけ。
引っかかった言葉だけ。
変なものだけ。
歌はもっと残る。
それだけのことかもしれない。
でも、その違いは、ナミオには大きかった。
食事が進むにつれ、鍋の底が見えてくる。
カザンが匙を入れ、残りを均等にしようとして、少しだけ失敗し、ナミオの皿へ余計に落とした。
「また前金」
「今日は歌つきだから」
「安いなあ」
「じゃあ返せ」
「返さない」
トウヤが自分の豆を一つぶ拾い、ナミオの皿へ放った。
「これで追加一話」
「一つぶで何の話するんだよ」
「前の時代の、窓が開かない建物」
「それはある」
「ほんとに何でもあるな」
「でも忘れるんだろ」
「明日にはな」
ユラが長い袖の中で手をこすり、ふっと笑う。
「でも、明日忘れても、次の夜また聞けるからいいんじゃない」
その言い方で、食堂の空気が少しだけ静かになった。
たしかにそうだった。
忘れる。
残らない。
けれど、夜はまた来る。
労働はまた終わる。
鍋はまたかかる。
そのたび、ナミオはまた同じ話をするかもしれない。
動く階段のこと。
冷たい飲み物のこと。
顔を見ながら話す箱のこと。
誰も覚えていなくても、もう一度話せる。
歌も、また流せる。
食堂の奥から、ミツが遅れて入ってきた。
細い体で立つと、一本の影みたいに見える。まとめた髪のこめかみに短い毛が浮き、喉の近くの小さな泥化跡が、弱い灯りの下でわずかに引きつった。
「遅い」
カザンが言う。
「板見てた」
「食う?」
「残ってるなら」
「残ってるよ。今日はナミオがしゃべるから、みんな食う手が止まってた」
ミツがナミオを見た。
「また」
「また」
「何の話」
「前の時代の、顔見ながら話すやつ」
「それ、前も聞いた気がする」
トウヤがすぐ言う。
「でも覚えてない」
「でしょうね」
ミツは椅子へ座り、皿を受け取った。
「歌は?」
「二回流した」
「それは覚えてる」
「話より先に?」
「先に」
即答だった。
ナミオは肩を落としたふりをして、でも少し嬉しかった。
ミツは皿を口へ運び、それからラジカセの方を見る。
「新しいやつ?」
「途中だけ」
「途中でも残る」
ユラが言う。
「さっき、みんなで言ってた」
ミツは小さく頷いた。
「記録もそう」
「何が」
「長い報告は欠ける。短い異常は残る」
ナミオはその言い方に少し笑った。
「俺、異常側なんだ」
「もうとっくに」
トウヤが言って、カザンが吹き出した。
食堂の壁がその笑いを薄く返す。
鍋はほとんど空になった。保存食の塩気は最後ほど強い。地下菜は形をなくし、水分だけが少し残る。
ナミオは最後の一口を飲み込んだ。
腹の奥がやっと落ち着く。
一食分。
いや、今日は少し多かった。
話と歌と引き換えに、みんなが少しずつ上乗せした夜だった。
引き換えという言い方は、最初は冗談だったのに、今では半分ほんとうになっている。ナミオが何か新しい断片を持ってくる夜は、鍋の底が少しやさしくなる。前の時代の変な話でも、歌の欠片でも、異常な信号でも、とにかく「昨日までここになかったもの」があると、一匙ぶんだけ価値が増える。
それは誰も口にしない決まりみたいだった。
食後、何人かは先に立った。
次の労働に備えて眠る者、地下菜の様子を見に行く者、水を汲みに行く者。夜の食堂は、集まる時より散る時の方が早い。
ユラが立ち際に言う。
「明日また忘れてるかも」
「いいよ」
ナミオが答える。
「その時はまた話す」
「歌も」
「歌も」
ユラは頷き、長い袖の中へ手をしまったまま出ていった。
トウヤも立つ。
「動く階段だけは残しとく」
「そこなのかよ」
「あと冷たい飲み物」
「そこも」
「顔見ながら話すやつは、まあ、また今度」
カザンが鍋を持ち上げながら笑う。
「ほらな。こうやって削れてくんだ」
「雑に食われてる感じがする」
「でも腹にはなる」
「話が?」
「気分の」
食堂には最後に、ナミオとミツとカザンだけが残った。
鍋の底を洗う水の音がする。
壁の向こうで、誰かが咳をした。
ミツが皿を置き、ラジカセの方へ視線を投げる。
「それ、あとで少し聞かせて」
「歌?」
「うん」
「覚えてない話の方じゃなくて?」
「話は明日また聞く」
「忘れる前提」
「たぶん忘れる」
ミツは言い切って、それから少しだけ口もとをやわらげた。
「でも、忘れるから悪いとも思ってない」
ナミオは椅子に座ったまま、顔を上げる。
「悪くないの」
「労働のあとだし」
ミツは喉元を指で軽く押さえた。
考える時の癖だ。
「残るものだけ残るなら、それでいい時もある」
カザンが鍋の底をこすりながら頷く。
「歌とか、変な話とか、明日の力にならないやつほど、残る夜あるしな」
「明日の力にならないのに」
「だから残るのかも」
ナミオはその言い方を、少し長く考えた。
明日の力にならないもの。
たしかにそうだ。
動く階段は腹を満たさない。冷たい飲み物の話は水を綺麗にしない。顔が映る箱の話は通信の時間を延ばさない。歌の欠片は赤い砂を止めない。
それでも、食堂の夜には残る。
少なくとも、一部は。
ナミオは立ち上がり、ラジカセを抱えた。
「じゃあ、歌だけもう一回」
ミツが小さく頷く。
カザンは鍋を洗う手を止めないまま、耳だけこちらへ向けた。
弱い灯りの下、ナミオはつまみを回した。
ざ。
ざあ。
雑音の奥。
低い揺れ。
それから、短い歌の欠片。
今度は前より少しだけ、食堂の静けさと混じって聞こえた。
鍋をこする音も、水の揺れも、遠い咳も、その歌の外側に薄く残る。
欠けているのに、妙にここに合っていた。
歌が止む。
ミツがゆっくり息を吐く。
「これ、残る」
「話より?」
「話より」
「ひどいなあ」
ナミオはそう言いながら、少し笑った。
ひどいのに、正しい。
たぶん明日には、誰も動く階段の細かい話は覚えていない。冷たい飲み物の箱も、顔が映る話も、端っこから欠けている。
けれど、この短い歌の欠片は、誰かの耳の奥に残る。
半分だけ。
途中だけ。
それで十分なのかもしれない。
食堂を出る時、カザンが背中越しに言った。
「また明日な」
「話?」
「飯」
ナミオは振り返る。
「話はついで?」
「歌つきなら前金」
「やっぱり安いな」
「じゃあ、新発見持ってこい」
「持ってくるよ」
「それなら一食分」
ナミオはラジカセを抱え直し、通路へ出た。
地下の夜は長い。
壁の湿り、灯りの弱さ、遠い川の音、どれも毎日少しずつ似ている。似ているのに、食堂を出たあとの腹の重みだけが、今日は少しやさしかった。
前の時代の話は、いつも同じようで、毎回少し削れて届く。
歌は短くて、いつも途中で、なのに妙に残る。
その違いを抱えたまま、ナミオは老爺の部屋の前を通り過ぎた。
今夜は寄らない。
なんとなく、食堂の余熱をそのまま持って歩きたかった。
動く階段。
冷たい飲み物。
顔を見ながら話す箱。
歌の欠片。
半分歌。
意味のない信号。
忘れられるものと、残るもの。
その両方が、夜の食堂で皿一杯ぶんの価値になっていた。
ナミオは小さく笑い、地下の暗がりを歩く。
明日にはまた誰かが忘れる。
それでも夜になれば、同じ鍋の前で、また話せる。
また歌える。
また一匙ぶん、増えるかもしれない。
そう思うと、赤い砂だらけの世界でも、夜だけは少しやさしい形をしている気がした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!