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第5話 赤い雨の夜
その夜、最初に変わったのは音だった。
地下の通路を歩く足音が、いつもより少しだけ湿って聞こえる。
壁に触れた手が、すぐ離れる。
空気の中に細かなにおいが混じる。
鉄でも土でもない、もっと薄い、舌の先へ先に触れるようなにおい。
ナミオは寝床の布を押しのけて起き上がった。
まだ誰も呼びに来ていない。
灯りも半分しか点いていない。
けれど、耳の奥が先にざわついていた。
通路の向こうで、小さく戸を叩く音がした。
すぐあとに声。
「ナミオ」
ユラだった。
ナミオはラジカセを抱えて戸口へ出る。
ユラは長い袖の中へ手を入れたまま立っていた。肩で切った髪の先に細かな湿りがついている。寝起きなのか、目の下の影はいつもより濃い。
「上、来てる」
「赤い雨?」
ユラが小さく頷く。
その頷きだけで、通路の空気が一段重くなる。
赤い雨の夜は、みんな少しだけ声を低くする。
地下にいる限りすぐどうにかなるわけではないのに、上で落ちているものの重さが、そのまま背骨へ伝わってくるみたいになる。
ナミオは裸足のまま出かけそうになり、途中で戻って靴を履いた。
ユラがそれを見て小さく笑う。
「そんな急がなくても、外には出ないよ」
「音が変なんだよ」
「何の」
「まだわからない」
「いつもそれ」
「でも、ほんとに」
二人で通路を急ぐ。
地下口へ近づくほど、湿りのにおいが強くなる。風のかわりに、落ちるものの気配だけが上から押してくる。戸は閉じたままだ。分厚い板のつなぎ目から、細く赤い筋みたいなものがにじんでいる。雨というより、濡れた砂が上で砕けている感じだった。
地下口の前にはすでに何人か集まっていた。
カザンが腕を組んで立ち、袖をひじまでまくったまま天井を見ている。鼻筋の横の浅い傷が、弱い灯りで少し深く見えた。トウヤは壁にもたれて半分眠そうな顔をしているが、耳だけは起きていた。ミツは板戸の継ぎ目を見下ろし、落ちてきた細かな粒を布で受けている。ハジメは少し離れたところで、灯りの脇へ薄い鉄板を立てていた。
「起きてたのか」
カザンが言う。
「起こされた」
ナミオはユラを見る。
「おまえが起こした」
「正解だったでしょ」
「たぶん」
ミツが布の上の粒を見ている。
赤い砂は濡れると色が深くなる。
乾いた時より暗く、重く、まだ地面を決めていない顔をしている。
「今日は多い」
ハジメが言った。
「粒が細かい」
「嫌な言い方だな」
カザンが返す。
「細かいと何が違う」
「乾いたあと、よく舞う」
その一言で、通路の奥にいた誰かが小さく息をのんだ。
赤い雨は、その時に終わらない。
乾いて残る。
踏まれて砕ける。
風に持ち上がる。
光と合う。
肌へ付く。
泥になる。
わかっているから、誰も余計なことを言わなかった。
戸の向こうで、ぱ、ぱ、と細かな粒が当たる音がする。
不安定ラジオ
2
ほわ🌇
21
ふぃる汰
2,015
ミモザ
640
雨というより、薄い殻が無数に弾けているみたいだった。
ナミオはその音を聞きながら、胸に抱えたラジカセへ視線を落とした。
まだ鳴らしてもいないのに、箱の中が少しざわついている気がする。
「それ持ってきたの」
ミツが気づいた。
「うん」
「こういう日に?」
「こういう日だから」
ミツはすぐには返さない。
喉の近くの小さな泥化跡が、呼吸に合わせてかすかに引きつる。
「今日は通信、遅らせるかも」
「全部?」
「様子見てから」
「でも六つ……」
「向こうも同じとは限らない」
ハジメが鉄板へ落ちる粒を見ながら言う。
「同じとは限らないが、似た日はあるかもしれない」
トウヤが壁から顔を上げた。
「赤い雨って、向こうにも降るの」
「降るところと、違う形で来るところがある」
「違う形」
「細かな砂だけ先に来る場所もある」
「嫌だな」
「嫌だ」
短いやり取りのあと、また静かになる。
赤い雨の夜は、会話までしっとりする。
いつもの軽口も、半分だけ壁へ吸われてしまう。
ナミオは戸の近くへ寄った。
継ぎ目から冷たい湿りが伝わってくる。耳を寄せると、落ちる粒の音の奥で、もっと細かな、ざらついた揺れが聞こえる気がした。
「……今の」
「何」
ユラがすぐ横で聞く。
「いや」
ナミオは答えきれず、ラジカセを抱え直した。
落ちる音とは別の何かが混じった気がした。
ただの気のせいかもしれない。
赤い雨の夜は、誰でも少し神経が尖る。
けれど、その尖り方が、ラジカセを持っている手の中だけ違った。
「ナミオ」
ミツの声が低く飛ぶ。
「開けるなよ」
「まだ何もしてない」
「その顔、する時はしてる」
「それ前も言った」
「前も当たった」
カザンが鼻で笑う。
「信頼ないな」
「あるから見張ってる」
ミツが即座に返し、そこでトウヤが少しだけ笑った。
笑いはすぐ消えた。
戸の向こうの音が、一段だけ強くなったからだ。
ぱた、ぱた、ぱた。
細かな粒が一斉に当たる。
誰かが後ろで戸をもう一枚閉める。
地下口の前に重たい布が下ろされ、灯りがさらに鈍くなる。
ナミオはその暗さの中で、急にラジカセを鳴らしてみたくなった。
今しかない気がした。
赤い雨が降る夜だけ、何かが変わる。
そういう感じが、耳の裏でずっと鳴っている。
「ちょっとだけ」
「だめ」
ミツの返事が早い。
「まだ言ってない」
「ちょっとだけって顔した」
「顔で判断しすぎ」
「外してない」
「何を」
「信頼」
カザンがまた笑う。
「それ、信頼って言うのか」
ミツは答えず、布で受けた赤い砂を板の端へ寄せた。
ナミオはその横顔を見て、それ以上言うのをやめた。
言えば止められる。
止められてもやる時はやる。
けれど今は、まだちゃんと聞きたかった。
赤い雨が弱まるまで、みんな地下口の前で細かな作業をした。
布を替える。
粒を払う。
戸の締まりを確かめる。
換気の流れを少し変える。
ハジメは落ちた粒を薄く広げ、灯りの近くで見たり、鉄板へこすってみたりしていた。
ナミオはその合間、何度もラジカセへ指をかけかけて、やめた。
やがて戸の向こうの音が、少しずつ細る。
ぱた、ぱた。
ぱた。
……。
最後に一つ、遅れて落ちた音がして、それきり静かになった。
赤い雨は止んだらしい。
けれど、止んだあとが本番だと、みんな知っている。
カザンが腕を下ろした。
「今日は終わったな」
「終わってないよ」
ハジメが言う。
「これから乾く」
「だから嫌なんだよ」
トウヤが壁へ頭を当てた。
「通信どうする」
ミツが少し考え、それから板を抱え直す。
「やる。時間ずらすと向こうが待つ」
「待たせてもいいだろ」
「今日は六つの予定」
その言い方に、カザンもそれ以上は言わなかった。
六つ。
それだけで、少し価値が変わる。
発信室へ移る頃には、地下口の前に落ちた赤い粒がもう少し乾き始めていた。濡れていた時の重さが消え、布の上で細かく割れる。誰も踏まないよう避けながら歩く。
ナミオも発信室へついていく。
ラジカセはまだ抱えたままだ。
ミツが一度だけ振り返る。
「今日は後ろ。もっと後ろ」
「そんなに」
「雨の夜だから」
その理由はよくわからないまま、ナミオは言われた通り後ろへ下がった。
発信室はいつもより少し湿っていた。
壁の金具が冷え、灯りの縁に小さな粒が残っている。カザンとトウヤが発電輪につく。ハジメは送受信台のそばに立った。ミツが板を広げる。
針が起きる。
最初の確認音。
その瞬間、ナミオは顔を上げた。
「……入ってる」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
送受信台の乾いた音の底に、いつもより細かなざらつきがある。
雨上がりの地面を指でなぞった時のような、かすかな引っかかり。
打音の間に、余計な薄い膜が一枚かぶっている。
ミツがすぐ反応した。
「何」
「今」
「静かに」
返事を打ちながら言う。
その声は短い。けれど、完全に無視したわけではない。
アメリカから応答。
いつもより少し遅い。
打音の後ろに、ぱち、と細かな散りが混じる。
ナミオの指がラジカセの角へ食い込む。
「向こうも」
「ナミオ」
「でも」
ハジメが針を見たまま低く言った。
「……確かに荒れてる」
ミツの指が一瞬だけ止まる。
ほんの半拍。
そのあと、打ち直す。
アメリカからの報告は短かった。
発電、維持。
外壁、湿り。
音、少し荒れる。
ナミオの喉が動く。
音、少し荒れる。
向こうも書く。
つまり、こっちだけじゃない。
大中国からの返しも、少し重い。
輪郭はあるのに、端が毛羽立っている。
ロピはさらにひどかった。
間のあいだに細かな散りが入り、風の夜とも違う乱れ方をする。
中東は、乾いた打音の奥に、ざ、と引くような薄い膜。
自治区は一番不安定で、打っている間じゅう、細い砂が板の上をこすっているようだった。
発信室の中に、いつもと違う集中が生まれる。
カザンは輪を回しながら眉を寄せる。
トウヤは眠そうな目を今日は完全に開いている。
ハジメは針と金具の両方を見て、時々天井の湿りまで確かめる。
ミツは板へ打ち込みながら、答えを削り、余計な言葉をさらに短くしていく。
ナミオだけが、後ろでラジカセを抱えたまま、音の中の砂を聞いていた。
これは偶然じゃない。
赤い雨の夜だけ入る。
電波に。
信号の底に。
打音の奥に。
そういうノイズだ。
ミツが短く打つ。
全拠点、音荒れ確認。
雨または粒子影響、推定。
向こうから返る。
アメリカ、肯定。
大中国、肯定。
ロピ、肯定。
中東、観測一致。
自治区、笑うような間を置いて肯定。
最後に、少し遅れてもう一つ来た。
中東から。
赤い雨の夜、音は地表に触る。
発信室が静まる。
その一文だけ、報告の顔をしていなかった。
ハジメの目が細くなる。
ミツは喉元を指で一度押さえたあと、打ち返す。
詳細、後日求む。
中東はすぐには返さない。
代わりに、ロピから短い私語が来た。
今夜、空が重い。
そのあと、自治区。
こちらは屋根が鳴る。
アメリカ。
輪より先に耳が疲れる。
大中国。
記録継続。
短い。
短いのに、それぞれの拠点の様子が少しずつ見える。
見たこともない屋根。
見たこともない空。
同じように耳を澄ませている誰かたち。
ナミオはもう、我慢できなくなっていた。
ラジカセを少しだけ持ち上げる。
電源は切ったまま。
ただ、送受信台の音を近くで拾わせたい。
今日のノイズを、箱の中へ通してみたい。
ミツが横目で気づく。
だめ、と目だけで言う。
ナミオは半歩だけ後ろへ下がる。
でも、手は離さない。
通信は続く。
今夜も無事であれ、と打つにはまだ早い。
その前に、今日は全員が同じことを書いていた。
音荒れ。
粒子影響。
赤い雨。
記録継続。
いつもの水位や地下菜や輪の摩耗に混じって、今日は空から落ちたものが電波の上まで来ている。
ナミオは急にぞくりとした。
赤い砂は、肌を泥にするだけじゃない。
光と合うだけじゃない。
音にも触る。
信号にも触る。
もしかしたら、ずっと。
もしかしたら、雨の夜だけ。
そこまで考えたところで、通信が最後の確認へ入った。
六つの拠点が、短く無事を打ち合う。
今夜はどこもいつもより言葉が少ない。
それでも最後に、自治区だけが余計な一文をつけた。
ざらつく夜ほど、耳を貸せ。
トウヤが輪を回しながら小さく笑う。
カザンは笑わない。けれど口もとが少しだけ動く。
ミツはその一文も板へ残した。
通信が終わる。
針が伏せる。
輪が止まる。
発信室に残るのは、人の息と、まだ耳の奥で鳴っている細かなざらつきだけだった。
「今の」
ナミオが最初に口を開く。
「赤い雨の夜だけだろ」
ミツは板に書き足しながら答えない。
代わりにハジメが言う。
「たぶんだけじゃ足りない」
「でも」
「でも、とは思う」
ハジメは針の金具を軽く押さえる。
「乾いた日より荒い。輪のせいだけじゃない」
カザンが腕を回す。
「つまり、上がぐちゃぐちゃだと音もぐちゃぐちゃになるってことか」
「雑だけど近い」
トウヤが息を吐いた。
「嫌だなあ。雨までしゃべってくるの」
ナミオはそれを聞き流し、ラジカセを見下ろした。
「今なら拾えるかも」
ミツが顔を上げる。
「何を」
「このノイズ」
「今日はだめ」
「なんで」
「赤い雨のあとだから」
「だから今しか」
「だから今はだめ」
その言い方は強かった。
ナミオは食い下がりかけたが、ミツの目を見て止まった。
怒っているのとも違う。
怖がっているのとも少し違う。
見逃したくないのに、いま無理に触れて壊したくもない。
そういう顔だった。
ハジメが低く言う。
「明日、乾いたあとでも残るか確かめる」
「残らなかったら?」
ナミオが聞く。
「じゃあ、夜だけのものだ」
その言い方に、ナミオの胸がざわつく。
夜だけのもの。
赤い雨の夜だけ、電波へ入るノイズ。
それは嫌な気配のはずなのに、同時にひどく気になる。
食堂へ移ると、今夜は歌の話より先に赤い雨の話になった。
鍋の湯気は薄い。
保存食の塩気はいつも通り強い。
けれど、皿を持つ手は少しずつ早い。
誰もが早く座って、早く聞きたい顔をしている。
ユラがすぐ聞いた。
「ほんとに入った?」
「入った」
ナミオが言う。
「全拠点」
「歌じゃなくて?」
「歌じゃなくて」
「じゃあ、雨の音みたいな感じ?」
「もっと細かい」
トウヤが横から口を出す。
「耳の中に砂入る感じ」
「嫌すぎる」
カザンが鍋から皿へよそいながら言う。
「でも向こうも同じだった」
「同じって、ちょっと安心するな」
ユラがぽつりとこぼす。
その言い方に、ナミオは少しだけ顔を上げた。
安心。
たしかにそうかもしれない。
赤い雨はどこか一つだけへ降っているわけじゃない。
同じ夜に、遠い拠点でも、誰かが耳の奥のざらつきを聞いていた。
そう思うと、怖さの形が少し変わる。
「歌はないの」
トウヤが聞く。
「今夜はその話じゃないだろ」
ミツが遅れて食堂へ来た。
板を脇に抱えたまま座る。
喉の近くの小さな泥化跡が、呼吸で浅く動く。
「でも、あとで聞きたい」
ナミオが言う。
「何を」
「今日のノイズ」
ミツは皿を受け取りながら少し黙った。
「板には残らない」
「ラジカセには残るかも」
「かも、で動くな」
「でも今日だけなんだろ」
「今日だけかはまだわからない」
「じゃあ、確かめたい」
ハジメが食堂の戸口に立ったまま言う。
「明日、私も立ち会う」
それで場が少し静まる。
研究者がそう言う夜は、ふざけ半分では済まない感じになる。
カザンが皿を置く。
「危ないことじゃないんだろうな」
ハジメはすぐに答えない。
その間が、正直だった。
「上へ出るよりはましだ」
「比べる相手が悪い」
「そうだな」
トウヤが豆をつぶしながら呟く。
「でも、赤い雨の音が電波に乗るって、ちょっと変だよな」
「変」
ユラが頷く。
「変だけど、知りたい」
ミツはその会話を聞きながら、板の端を親指でなぞった。
「今日の記録、残す」
「何て」
ナミオが聞く。
ミツは短く答える。
「赤い雨の夜、全拠点で音荒れ確認」
「そのままか」
「そのまま」
「そこに、少し面白いって書いといて」
「書かない」
即答だった。
でも、そのあとでほんの少しだけ、口もとがゆるんだ。
食堂の空気は、結局いつも通り少しやわらいだ。
赤い雨は止んだ。
でも、乾いた赤い砂はまだ戸の向こうに残っている。
明日になれば、掃う。
集める。
避ける。
踏まないよう生きる。
その先に、今日聞いたざらつきがまだ残るのかどうか。
それを確かめる夜が、もう次へ続いている。
食後、ナミオは見張り小屋の下まで歩いた。
地上への戸は閉じたまま。
その向こうに、乾き始めた赤い砂が広がっているはずだ。
見えないのに、色だけは頭の中へ浮かぶ。
ラジカセを胸に抱く。
今日は鳴らさない。
鳴らせない。
でも、箱の中がまだ少しだけざらついている気がした。
赤い雨の夜だけ、電波にノイズが入る。
その形を、耳がもう覚えかけている。
ナミオは目を閉じた。
遠い拠点の打音がまた浮かぶ。
音荒れ。
粒子影響。
空が重い。
屋根が鳴る。
ざらつく夜ほど、耳を貸せ。
赤い砂は、降って終わりじゃない。
肌へ触る。
地面へ残る。
光と合う。
そして今夜、音にも触った。
ナミオはラジカセの角を指でなぞる。
明日、乾いたあとでも残るのか。
残らないなら、夜だけのものか。
夜だけのものなら、なおさら拾いたい。
その考えが、眠気のかわりに胸の中で静かに鳴る。
地下の通路の向こうで灯りが一つ消える。
また一つ消える。
最後の灯りだけが、少し長く残る。
赤い雨の夜は終わった。
けれど、その夜だけ入ったノイズは、もうナミオの耳の中へ入り込んでいた。