テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第5話 赤い雨の夜
その夜、最初に変わったのは音だった。
地下の通路を歩く足音が、いつもより少しだけ湿って聞こえる。
壁に触れた手が、すぐ離れる。
空気の中に細かなにおいが混じる。
鉄でも土でもない、もっと薄い、舌の先へ先に触れるようなにおい。
ナミオは寝床の布を押しのけて起き上がった。
まだ誰も呼びに来ていない。
灯りも半分しか点いていない。
けれど、耳の奥が先にざわついていた。
通路の向こうで、小さく戸を叩く音がした。
すぐあとに声。
「ナミオ」
ユラだった。
ナミオはラジカセを抱えて戸口へ出る。
ユラは長い袖の中へ手を入れたまま立っていた。肩で切った髪の先に細かな湿りがついている。寝起きなのか、目の下の影はいつもより濃い。
「上、来てる」
「赤い雨?」
ユラが小さく頷く。
その頷きだけで、通路の空気が一段重くなる。
赤い雨の夜は、みんな少しだけ声を低くする。
地下にいる限りすぐどうにかなるわけではないのに、上で落ちているものの重さが、そのまま背骨へ伝わってくるみたいになる。
ナミオは裸足のまま出かけそうになり、途中で戻って靴を履いた。
ユラがそれを見て小さく笑う。
「そんな急がなくても、外には出ないよ」
「音が変なんだよ」
「何の」
「まだわからない」
「いつもそれ」
「でも、ほんとに」
二人で通路を急ぐ。
地下口へ近づくほど、湿りのにおいが強くなる。風のかわりに、落ちるものの気配だけが上から押してくる。戸は閉じたままだ。分厚い板のつなぎ目から、細く赤い筋みたいなものがにじんでいる。雨というより、濡れた砂が上で砕けている感じだった。
地下口の前にはすでに何人か集まっていた。
カザンが腕を組んで立ち、袖をひじまでまくったまま天井を見ている。鼻筋の横の浅い傷が、弱い灯りで少し深く見えた。トウヤは壁にもたれて半分眠そうな顔をしているが、耳だけは起きていた。ミツは板戸の継ぎ目を見下ろし、落ちてきた細かな粒を布で受けている。ハジメは少し離れたところで、灯りの脇へ薄い鉄板を立てていた。
「起きてたのか」
カザンが言う。
「起こされた」
ナミオはユラを見る。
「おまえが起こした」
「正解だったでしょ」
「たぶん」
ミツが布の上の粒を見ている。
赤い砂は濡れると色が深くなる。
乾いた時より暗く、重く、まだ地面を決めていない顔をしている。
「今日は多い」
ハジメが言った。
「粒が細かい」
「嫌な言い方だな」
カザンが返す。
「細かいと何が違う」
「乾いたあと、よく舞う」
その一言で、通路の奥にいた誰かが小さく息をのんだ。
赤い雨は、その時に終わらない。
乾いて残る。
踏まれて砕ける。
風に持ち上がる。
光と合う。
肌へ付く。
泥になる。
わかっているから、誰も余計なことを言わなかった。
戸の向こうで、ぱ、ぱ、と細かな粒が当たる音がする。
雨というより、薄い殻が無数に弾けているみたいだった。
ナミオはその音を聞きながら、胸に抱えたラジカセへ視線を落とした。
まだ鳴らしてもいないのに、箱の中が少しざわついている気がする。
「それ持ってきたの」
ミツが気づいた。
「うん」
「こういう日に?」
「こういう日だから」
ミツはすぐには返さない。
喉の近くの小さな泥化跡が、呼吸に合わせてかすかに引きつる。
「今日は通信、遅らせるかも」
「全部?」
「様子見てから」
「でも六つ……」
「向こうも同じとは限らない」
ハジメが鉄板へ落ちる粒を見ながら言う。
「同じとは限らないが、似た日はあるかもしれない」
トウヤが壁から顔を上げた。
「赤い雨って、向こうにも降るの」
「降るところと、違う形で来るところがある」
「違う形」
「細かな砂だけ先に来る場所もある」
「嫌だな」
「嫌だ」
短いやり取りのあと、また静かになる。
赤い雨の夜は、会話までしっとりする。
いつもの軽口も、半分だけ壁へ吸われてしまう。
ナミオは戸の近くへ寄った。
継ぎ目から冷たい湿りが伝わってくる。耳を寄せると、落ちる粒の音の奥で、もっと細かな、ざらついた揺れが聞こえる気がした。
「……今の」
「何」
ユラがすぐ横で聞く。
「いや」
ナミオは答えきれず、ラジカセを抱え直した。
落ちる音とは別の何かが混じった気がした。
ただの気のせいかもしれない。
赤い雨の夜は、誰でも少し神経が尖る。
けれど、その尖り方が、ラジカセを持っている手の中だけ違った。
「ナミオ」
ミツの声が低く飛ぶ。
「開けるなよ」
「まだ何もしてない」
「その顔、する時はしてる」
「それ前も言った」
「前も当たった」
カザンが鼻で笑う。
「信頼ないな」
「あるから見張ってる」
ミツが即座に返し、そこでトウヤが少しだけ笑った。
笑いはすぐ消えた。
戸の向こうの音が、一段だけ強くなったからだ。
ぱた、ぱた、ぱた。
細かな粒が一斉に当たる。
誰かが後ろで戸をもう一枚閉める。
地下口の前に重たい布が下ろされ、灯りがさらに鈍くなる。
ナミオはその暗さの中で、急にラジカセを鳴らしてみたくなった。
今しかない気がした。
赤い雨が降る夜だけ、何かが変わる。
そういう感じが、耳の裏でずっと鳴っている。
「ちょっとだけ」
「だめ」
ミツの返事が早い。
「まだ言ってない」
「ちょっとだけって顔した」
「顔で判断しすぎ」
「外してない」
「何を」
「信頼」
カザンがまた笑う。
「それ、信頼って言うのか」
ミツは答えず、布で受けた赤い砂を板の端へ寄せた。
ナミオはその横顔を見て、それ以上言うのをやめた。
言えば止められる。
止められてもやる時はやる。
けれど今は、まだちゃんと聞きたかった。
赤い雨が弱まるまで、みんな地下口の前で細かな作業をした。
布を替える。
粒を払う。
戸の締まりを確かめる。
換気の流れを少し変える。
ハジメは落ちた粒を薄く広げ、灯りの近くで見たり、鉄板へこすってみたりしていた。
ナミオはその合間、何度もラジカセへ指をかけかけて、やめた。
やがて戸の向こうの音が、少しずつ細る。
ぱた、ぱた。
ぱた。
……。
最後に一つ、遅れて落ちた音がして、それきり静かになった。
赤い雨は止んだらしい。
けれど、止んだあとが本番だと、みんな知っている。
カザンが腕を下ろした。
「今日は終わったな」
「終わってないよ」
ハジメが言う。
「これから乾く」
「だから嫌なんだよ」
トウヤが壁へ頭を当てた。
「通信どうする」
ミツが少し考え、それから板を抱え直す。
「やる。時間ずらすと向こうが待つ」
「待たせてもいいだろ」
「今日は六つの予定」
その言い方に、カザンもそれ以上は言わなかった。
六つ。
それだけで、少し価値が変わる。
発信室へ移る頃には、地下口の前に落ちた赤い粒がもう少し乾き始めていた。濡れていた時の重さが消え、布の上で細かく割れる。誰も踏まないよう避けながら歩く。
ナミオも発信室へついていく。
ラジカセはまだ抱えたままだ。
ミツが一度だけ振り返る。
「今日は後ろ。もっと後ろ」
「そんなに」
「雨の夜だから」
その理由はよくわからないまま、ナミオは言われた通り後ろへ下がった。
発信室はいつもより少し湿っていた。
壁の金具が冷え、灯りの縁に小さな粒が残っている。カザンとトウヤが発電輪につく。ハジメは送受信台のそばに立った。ミツが板を広げる。
針が起きる。
最初の確認音。
その瞬間、ナミオは顔を上げた。
「……入ってる」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
送受信台の乾いた音の底に、いつもより細かなざらつきがある。
雨上がりの地面を指でなぞった時のような、かすかな引っかかり。
打音の間に、余計な薄い膜が一枚かぶっている。
ミツがすぐ反応した。
「何」
「今」
「静かに」
返事を打ちながら言う。
その声は短い。けれど、完全に無視したわけではない。
アメリカから応答。
いつもより少し遅い。
打音の後ろに、ぱち、と細かな散りが混じる。
ナミオの指がラジカセの角へ食い込む。
「向こうも」
「ナミオ」
「でも」
ハジメが針を見たまま低く言った。
「……確かに荒れてる」
ミツの指が一瞬だけ止まる。
ほんの半拍。
そのあと、打ち直す。
アメリカからの報告は短かった。
発電、維持。
外壁、湿り。
音、少し荒れる。
ナミオの喉が動く。
音、少し荒れる。
向こうも書く。
つまり、こっちだけじゃない。
大中国からの返しも、少し重い。
輪郭はあるのに、端が毛羽立っている。
ロピはさらにひどかった。
間のあいだに細かな散りが入り、風の夜とも違う乱れ方をする。
中東は、乾いた打音の奥に、ざ、と引くような薄い膜。
自治区は一番不安定で、打っている間じゅう、細い砂が板の上をこすっているようだった。
発信室の中に、いつもと違う集中が生まれる。
カザンは輪を回しながら眉を寄せる。
トウヤは眠そうな目を今日は完全に開いている。
ハジメは針と金具の両方を見て、時々天井の湿りまで確かめる。
ミツは板へ打ち込みながら、答えを削り、余計な言葉をさらに短くしていく。
ナミオだけが、後ろでラジカセを抱えたまま、音の中の砂を聞いていた。
これは偶然じゃない。
赤い雨の夜だけ入る。
電波に。
信号の底に。
打音の奥に。
そういうノイズだ。
ミツが短く打つ。
全拠点、音荒れ確認。
雨または粒子影響、推定。
向こうから返る。
アメリカ、肯定。
大中国、肯定。
ロピ、肯定。
中東、観測一致。
自治区、笑うような間を置いて肯定。
最後に、少し遅れてもう一つ来た。
中東から。
赤い雨の夜、音は地表に触る。
発信室が静まる。
その一文だけ、報告の顔をしていなかった。
ハジメの目が細くなる。
ミツは喉元を指で一度押さえたあと、打ち返す。
詳細、後日求む。
中東はすぐには返さない。
代わりに、ロピから短い私語が来た。
今夜、空が重い。
そのあと、自治区。
こちらは屋根が鳴る。
アメリカ。
輪より先に耳が疲れる。
大中国。
記録継続。
短い。
短いのに、それぞれの拠点の様子が少しずつ見える。
見たこともない屋根。
見たこともない空。
同じように耳を澄ませている誰かたち。
ナミオはもう、我慢できなくなっていた。
ラジカセを少しだけ持ち上げる。
電源は切ったまま。
ただ、送受信台の音を近くで拾わせたい。
今日のノイズを、箱の中へ通してみたい。
ミツが横目で気づく。
だめ、と目だけで言う。
ナミオは半歩だけ後ろへ下がる。
でも、手は離さない。
通信は続く。
今夜も無事であれ、と打つにはまだ早い。
その前に、今日は全員が同じことを書いていた。
音荒れ。
粒子影響。
赤い雨。
記録継続。
いつもの水位や地下菜や輪の摩耗に混じって、今日は空から落ちたものが電波の上まで来ている。
ナミオは急にぞくりとした。
赤い砂は、肌を泥にするだけじゃない。
光と合うだけじゃない。
音にも触る。
信号にも触る。
もしかしたら、ずっと。
もしかしたら、雨の夜だけ。
そこまで考えたところで、通信が最後の確認へ入った。
六つの拠点が、短く無事を打ち合う。
今夜はどこもいつもより言葉が少ない。
それでも最後に、自治区だけが余計な一文をつけた。
ざらつく夜ほど、耳を貸せ。
トウヤが輪を回しながら小さく笑う。
カザンは笑わない。けれど口もとが少しだけ動く。
ミツはその一文も板へ残した。
通信が終わる。
針が伏せる。
輪が止まる。
発信室に残るのは、人の息と、まだ耳の奥で鳴っている細かなざらつきだけだった。
「今の」
ナミオが最初に口を開く。
「赤い雨の夜だけだろ」
ミツは板に書き足しながら答えない。
代わりにハジメが言う。
「たぶんだけじゃ足りない」
「でも」
「でも、とは思う」
ハジメは針の金具を軽く押さえる。
「乾いた日より荒い。輪のせいだけじゃない」
カザンが腕を回す。
「つまり、上がぐちゃぐちゃだと音もぐちゃぐちゃになるってことか」
「雑だけど近い」
トウヤが息を吐いた。
「嫌だなあ。雨までしゃべってくるの」
ナミオはそれを聞き流し、ラジカセを見下ろした。
「今なら拾えるかも」
ミツが顔を上げる。
「何を」
「このノイズ」
「今日はだめ」
「なんで」
「赤い雨のあとだから」
「だから今しか」
「だから今はだめ」
その言い方は強かった。
ナミオは食い下がりかけたが、ミツの目を見て止まった。
怒っているのとも違う。
怖がっているのとも少し違う。
見逃したくないのに、いま無理に触れて壊したくもない。
そういう顔だった。
ハジメが低く言う。
「明日、乾いたあとでも残るか確かめる」
「残らなかったら?」
ナミオが聞く。
「じゃあ、夜だけのものだ」
その言い方に、ナミオの胸がざわつく。
夜だけのもの。
赤い雨の夜だけ、電波へ入るノイズ。
それは嫌な気配のはずなのに、同時にひどく気になる。
食堂へ移ると、今夜は歌の話より先に赤い雨の話になった。
鍋の湯気は薄い。
保存食の塩気はいつも通り強い。
けれど、皿を持つ手は少しずつ早い。
誰もが早く座って、早く聞きたい顔をしている。
ユラがすぐ聞いた。
「ほんとに入った?」
「入った」
ナミオが言う。
「全拠点」
「歌じゃなくて?」
「歌じゃなくて」
「じゃあ、雨の音みたいな感じ?」
「もっと細かい」
トウヤが横から口を出す。
「耳の中に砂入る感じ」
「嫌すぎる」
カザンが鍋から皿へよそいながら言う。
「でも向こうも同じだった」
「同じって、ちょっと安心するな」
ユラがぽつりとこぼす。
その言い方に、ナミオは少しだけ顔を上げた。
安心。
たしかにそうかもしれない。
赤い雨はどこか一つだけへ降っているわけじゃない。
同じ夜に、遠い拠点でも、誰かが耳の奥のざらつきを聞いていた。
そう思うと、怖さの形が少し変わる。
「歌はないの」
トウヤが聞く。
「今夜はその話じゃないだろ」
ミツが遅れて食堂へ来た。
板を脇に抱えたまま座る。
喉の近くの小さな泥化跡が、呼吸で浅く動く。
「でも、あとで聞きたい」
ナミオが言う。
「何を」
「今日のノイズ」
ミツは皿を受け取りながら少し黙った。
「板には残らない」
「ラジカセには残るかも」
「かも、で動くな」
「でも今日だけなんだろ」
「今日だけかはまだわからない」
「じゃあ、確かめたい」
ハジメが食堂の戸口に立ったまま言う。
「明日、私も立ち会う」
それで場が少し静まる。
研究者がそう言う夜は、ふざけ半分では済まない感じになる。
カザンが皿を置く。
「危ないことじゃないんだろうな」
ハジメはすぐに答えない。
その間が、正直だった。
「上へ出るよりはましだ」
「比べる相手が悪い」
「そうだな」
トウヤが豆をつぶしながら呟く。
「でも、赤い雨の音が電波に乗るって、ちょっと変だよな」
「変」
ユラが頷く。
「変だけど、知りたい」
ミツはその会話を聞きながら、板の端を親指でなぞった。
「今日の記録、残す」
「何て」
ナミオが聞く。
ミツは短く答える。
「赤い雨の夜、全拠点で音荒れ確認」
「そのままか」
「そのまま」
「そこに、少し面白いって書いといて」
「書かない」
即答だった。
でも、そのあとでほんの少しだけ、口もとがゆるんだ。
食堂の空気は、結局いつも通り少しやわらいだ。
赤い雨は止んだ。
でも、乾いた赤い砂はまだ戸の向こうに残っている。
明日になれば、掃う。
集める。
避ける。
踏まないよう生きる。
その先に、今日聞いたざらつきがまだ残るのかどうか。
それを確かめる夜が、もう次へ続いている。
食後、ナミオは見張り小屋の下まで歩いた。
地上への戸は閉じたまま。
その向こうに、乾き始めた赤い砂が広がっているはずだ。
見えないのに、色だけは頭の中へ浮かぶ。
ラジカセを胸に抱く。
今日は鳴らさない。
鳴らせない。
でも、箱の中がまだ少しだけざらついている気がした。
赤い雨の夜だけ、電波にノイズが入る。
その形を、耳がもう覚えかけている。
ナミオは目を閉じた。
遠い拠点の打音がまた浮かぶ。
音荒れ。
粒子影響。
空が重い。
屋根が鳴る。
ざらつく夜ほど、耳を貸せ。
赤い砂は、降って終わりじゃない。
肌へ触る。
地面へ残る。
光と合う。
そして今夜、音にも触った。
ナミオはラジカセの角を指でなぞる。
明日、乾いたあとでも残るのか。
残らないなら、夜だけのものか。
夜だけのものなら、なおさら拾いたい。
その考えが、眠気のかわりに胸の中で静かに鳴る。
地下の通路の向こうで灯りが一つ消える。
また一つ消える。
最後の灯りだけが、少し長く残る。
赤い雨の夜は終わった。
けれど、その夜だけ入ったノイズは、もうナミオの耳の中へ入り込んでいた。
#カントリーヒューマンズ