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放課後の相談室。 日下部は、机の上に置いた漫画をめくっていたが、引き戸の開く音に顔を上げた。
「……失礼します」
おそるおそる入ってきたのは、二年生の女子だった。
目の下にはうっすらとクマ。手首には小さな絆創膏がいくつも貼られている。
「どうぞ」
椅子を指さすと、彼女は腰を下ろし、手のひらを膝の上で握りしめた。
「……家のこと、話してもいいですか」
「うん」
彼女はゆっくりと話し始めた。
父親と母親はここ数年ほとんど口をきかず、食卓は毎晩、箸の音とテレビの音だけが響く。たまに会話があっても、声は荒く、物が壊れる音で終わる。
「私、そこに座ってるだけで、息苦しくて……」
「だから、夜はできるだけ遅く帰ってる。コンビニとか、公園とか」
日下部は漫画を閉じ、机の上に置いた。
「……それ、しんどいな」
「……はい」
「でもさ、“家がつらい”って言うの、結構勇気いるだろ」
彼女は少し目を丸くして、かすかに笑った。
「友達には……言えないです。『うちも親うるさいよ』って軽く返されるのが、こわくて」
沈黙が落ちた。
日下部は椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
「……俺、アドバイスとか得意じゃねぇんだよ」
「はい」
「でも、“つらい”って口に出した時点で、ちょっとだけマシになるって思ってる」
彼女は、机の木目を指先でなぞりながら、うなずいた。
「家ってさ、帰れば安全な場所であるべきなんだろうけど、そうじゃない時もある。だったら、別の安全地帯を作ればいい」
「……安全地帯」
「学校でも、図書館でも、友達んちでも。なんなら、この相談室でも」
彼女はしばらく黙って、やがて小さく息をついた。
「……ここ、ちょっと静かで、落ち着きます」
「だろ。俺があんま喋んねぇからな」
少し笑いがこぼれた。
「でも……家のことって、変えられないですよね」
「うん。大人の喧嘩は、子どもが止められるもんじゃない」
日下部は机の端を指で叩き、ゆっくりと言った。
「けど、自分の居場所は変えられる。そこを勘違いすんな」
外はすっかり暗くなっていた。
彼女は「……ありがとう」と言って立ち上がる。
「また来てもいいですか」
「別にいいけど、漫画読んでる時は静かに入ってこい」
そう言った日下部の声は、からかうようで、どこか優しかった。