テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「乾さん!?」
突然、明瞭な声が耳に飛び込んで来た。
その瞬間、私は反射的に手を伸ばした。
触れたものをギュッと握る。
「落ちる!!」
なぜかなんてわからない。
ただ、そう思った。
思った途端、吐き気が止んだ。
「乾さん? 大丈夫!?」
顔を上げると、溝口さんが心配そうに私を見下ろしていた。
「具合が悪いの? あ、袋。念のために――」
「――大丈夫です」
バッグに手を突っ込んで、恐らく袋を探してくれているであろう溝口さんに、はっきりとそう言った。
本当に、大丈夫だった。
立ち上がろうと腰を上げた時、フワッと身体が軽くなった。
それから、引きずられるように三歩ほど移動する。
「本当に大丈夫?」
「え――」
グッと肩を掴まれて、支えられながら立ち上がった私は、顔を上げて思わず仰け反った。
「――鴻上さん!?」
私は昨夜の、死相が出ていた極上イケメンさんに肩を抱かれていた。
見た目は細いのに、なんて力強い腕。
悠長にそんなことを考えている自分にハッとした。
「す、すみません! もう大丈夫です。ありがとうございます!」
私は身を捩って彼の腕から抜け出る。
「乾さん、本当に大丈夫? 顔が赤いよ?」
そりゃ、こんな至近距離でこんなイケメンさんを見たら、顔どころか足の爪先まで赤くなりますよ!
当の本人にはそんなことは言えず、私は顔を隠すように頭を下げた。
「本当に大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんて。けど――」
「――少し休んだ方がいいんじゃない?」
溝口さんが私の顔を覗きこむ。
「さっき、『落ちる!』って言ったけど――」
「――え?」
「気持ち悪くてそう感じたのかもしれないけど、目眩とか、軽く見ない方がいいと思うの。本当に、エスカレーターや階段の途中だったら、落ちてたと思うし。だから――」
そうだ。
私はエスカレーターの列に並んでいた。
ようやく周囲を見ると、列の邪魔にならない壁際に寄っていた。
さっき、鴻上さんが引き寄せてくれたのだ。
「――俺が付き添います」
「えっ?」
「とりあえず、乾さんの席まで付き添って様子を見ますので」
鴻上さんの申し出にギョッとする。
「だ、大丈夫です!」
「始業時間になっちゃいますし、先に行ってください」
「あ、はい。そうだ。遅れちゃいますから! 鴻上さんも、お先にどうぞ!」と、仰々しく両手でエスカレーターへ促す。
「じゃあ、乾さんのフロアの人に、遅れることは伝えておきますね」
溝口さんが私ではなく鴻上さんに言った。
「はい。お願いします」と、鴻上さん。
「いやっ! 鴻上さんもどうぞ――」
「――乾さん。無理はしない方がいいですよ」
聖母のような微笑みでそう言うと、溝口さんはエスカレーターにのって行ってしまった。
溝口さん、なんて優しくて親切な女性……。
「どうする? どこかで休む?」
降ってきた柔らかな低音ボイスに、思わずほうっとため息が漏れる。
いやっ!
漏らしている場合ではない!
「大丈夫です! 本当に大丈夫ですので、鴻上さんは――」
「――『落ちる』って?」
「え?」
「さっき、しゃがみこんでた時に言ったよね? 俺の腕を掴んで」
「あ……」
「昨日の、あの事故の前と様子が似ていた」
彼の言う通りだ。
昨日と同じで、なぜかわからないけれど『落ちる!』と思った。
そして、落ちて欲しくなくて、咄嗟にしがみついた。
「乾さん、震えてる」
「え?」
「昨日もそうだった」
言われて気が付いた。
足がカクカクする。
指先が痺れているように不自然に小さく揺れている。
「もしかして、俺?」
「え?」
「『落ちる』の」
鴻上さんが、困ったように言った。
「そうなら、一緒にいると乾さんも危ないかな」
「そんなこと――」
「――けど、そうか。落ちる……か。昨日もだったよな」
鴻上さんが顎に手を当てて、考えている仕草をする。
「二日連続で落ちるようなこと……はない……ですよ」
思ってもいないことを、ハハハッと笑いながら言った。
昨日は、『止まって』と思った後、目の前には鴻上さんがいたのに、違う、とわかった。
今は、彼以外に目が向かない。
彼じゃない、と思えない。
怖くなる。
今は目の前にいる、極上イケメンさんが落ちてしまうかもしれない。
せめて、どこから落ちるのかだけでもわかれば……。
階段、エスカレーター、ベランダ、ステージ……。
あ、案外、椅子とか?
尻餅をつくくらいで済んだり?
「乾さん?」
けど、昨日は大事故だった。
けど、身近でそんなにしょっちゅう大事故が起きる?
「乾さん?」
人の少ない階段やエスカレーターなら、気をつければ大丈夫なんじゃ……。
いや、ここはもう、家から出ないでいてもらった方が……。
ん? 待って。
『落ちる』って――。
「乾さん!」
「え? あ……」
またも、極上イケメンさんのドアップに驚き、仰け反る。
「正直に言って? 俺、乾さんの言葉を信じるから」
「え?」
「俺、落ちる?」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!