テラーノベル
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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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白いポストの再開を知らせても、最初の数日は人通りの方が多かった。店を覗く目はあるのに、扉を押して入ってくる足が少ない。そんな空気を吹き飛ばしたのは、サムソの一声だった。
「犬だ! 犬を呼ぼう!」
「その説明で通ると思ってます?」
イドゥレが呆れると、サムソは胸を張った。
「通る。前にここでやっただろ、犬連れ昼食会。あれ、復活しようぜ」
祖母の代に一度だけ開かれた、保護犬も一緒に芝生で食べられる昼食会。名前は「ワンワンピクニック」。気が抜けるほど軽いが、覚えやすかった。
準備は想像以上に騒がしかった。ラウシャンは借りてきたテーブルクロスを犬にくわえられて泣きそうになり、サムソは大鍋のスープを運んで芝に足を取られ、半分ほどこぼした。イドゥレは塩タルトを守るために両手でトレーを抱えたまま叫ぶ。
「そっち、リード! リード踏まないで!」
「水皿どこ!?」
「犬が持っていった!」
朝から悲鳴と笑い声が入り混じり、店の庭はまるで小さな運動会だった。
その横でモリネロは、逃げた子犬の首輪の金具を見ていた。
「これ、留めが緩いです」
「今それ!?」
「今だからです」
彼は道具箱から小さなやっとこを出し、その場で首輪を直し始めた。ついでに、古びたキャリーの取っ手まで補強したせいで、犬の飼い主たちに取り囲まれる。
「すごい、職人さんなの?」
「うちの犬のハーネスも見てもらっていい?」
「順番に!」
イドゥレが叫び、ラウシャンが犬に引きずられながら皿を配り、サムソが「保護犬より俺の方が待てない」と怒られ、白いポストの庭は昼前からてんやわんやだった。
それでも不思議なことに、失敗はそのまま笑いになった。スープを浴びたサムソは自分が一番大声で笑い、犬に鼻先を舐められたモリネロは、初めてはっきり口元を緩めた。イドゥレが焼いた塩タルトは、犬連れの客だけでなく、通りがかりの親子まで引き寄せた。芝生の上で紙皿を持つ人たちを見ていると、店が少しずつ息を吹き返していくのがわかる。
「ねえ」
紙皿を持った男の子が、イドゥレとモリネロを見上げる。
「ほんとに夫婦なの?」
その場にいた何人かが、面白がって振り向いた。ラウシャンは息を飲み、ハリクレイアは少し離れた場所で配信機材を向けている。
イドゥレは一瞬だけ答えに詰まった。ここでためらえば、変な空気になる。そうわかっているのに、喉が動かない。
するとモリネロが先に口を開いた。
「ええと」
珍しく歯切れが悪い。思わずイドゥレも彼を見た。その視線がぶつかった瞬間、なぜだか可笑しくなった。あまりにも不向きな二人が、今だけは同じ穴に落ちそうになっている。
「……練習中です」
イドゥレが言うと、モリネロが続けた。
「夫婦の」
男の子はきょとんとしてから、なぜか満足そうに頷いた。
「じゃあ、がんばって」
周囲に笑いが広がり、ハリクレイアが「それ撮れ高高い!」と騒ぐ。イドゥレは顔をしかめたが、隣のモリネロも同じ顔をしていて、少しだけ肩の力が抜けた。
片付けのあと、芝生に落ちた紙片や犬用おやつの欠片を拾いながら、イドゥレはふと祖母のことを思い出した。大きなことは言わないのに、気づけば人を輪の中へ入れてしまう人だった。今日の騒ぎは完璧から程遠い。それでも、犬の足音と人の笑い声が交じる景色は、たしかに白いポストに似合っていた。
店内へ戻って白いポストを開けると、小さく折られた紙が一枚入っていた。
『あなたたちが店を続けてくれてうれしい』
差出人の名はない。けれど筆圧の弱いその文字には、確かに体温があった。
イドゥレは紙を胸の前で開いたまま、黙ってモリネロに見せた。
彼は読み終えると、すぐには返事をしなかった。
「……一枚でも、入るんですね」
「はい」
「手紙って、返事がなくても入れるものなんですね」
「返事より先に、置いていきたい気持ちがあるんだと思います」
白いポストを閉じる音が、夕方の店に小さく響く。
その日から、二人にとってこの店は、守るだけの場所ではなくなり始めた。