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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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焼き上がったバタークッキーを網に移した瞬間、二階の階段から足音が止んだ。モリネロは下りてくる途中で手すりに指を置いたまま、ふっと息を吐いた。
「今日は、平気そうですね」
イドゥレが言うと、彼は少し首を傾げた。
「何がですか」
「人の多い日、朝から肩が上がってるので」
図星だったらしい。モリネロは手を下ろしてから、焼き上がりの皿を見た。
「匂いがあると、助かります」
「クッキーの?」
「バターと、あとレモン。ここに戻ってきた感じがするので」
戻ってきた、という言い方に、イドゥレは一瞬だけ胸がざわついた。
その日、タニアが融資相談の資料を抱えてやって来た。景観継承補助金と改修融資の申請は前に進んでいるが、最終面談では「住居兼店舗の実態」と「共同経営の継続性」が細かく見られるという。
「一緒に住んでます、だけじゃ弱いの。食事、掃除、買い出し、店番、そういう積み重ねが見たいのよ」
「積み重ねならあります」
イドゥレは帳簿を示したが、タニアは首を振った。
「数字だけじゃなくて、二人の生活の線が欲しいの」
「線」
「たとえば相手が風邪を引いたとき、どうするか」
「寝かせる」
イドゥレとモリネロの声がぴたりと重なった。タニアはにやりと笑う。
「今のは悪くないわね」
悪くなかったのはそこまでだった。練習として始めた夫婦らしい受け答えは、見事なくらい失敗した。
「好きな食べ物は?」
タニアが面談官の真似で聞く。
「白身魚の香草焼き」
イドゥレが答える。
「飲むヨーグルトです」
モリネロが言う。
「それは食べ物では?」
「広い意味では」
「狭い意味で答えてください」
イドゥレが切る。タニアは笑いをこらえきれない。
次は「相手の尊敬するところ」だった。
イドゥレはすぐ答えられず、指先でエプロンの端をつまんだ。帳簿を崩さず、壊れた椅子を黙って直し、犬の留め具が緩いと見ればその場で直す。そういうところ、と口にしてしまえば簡単だ。だが簡単にすると何か違う気がした。
「手が早いところです」
結局、そう言った。
「雑に聞こえるな」
モリネロがぼそりと返す。
「褒めています」
「わかりました」
彼も少し考えてから、イドゥレの方を見る。
「……匂いでわかるところ」
「何がですか」
「焦がす寸前とか、客の帰る時間とか。店の空気の変わり目を、先に気づくので」
タニアが急に黙った。からかうつもりだったラウシャンまで、なぜか顔を見合わせている。
「何ですか」
イドゥレが聞くと、ラウシャンがにやにやした。
「いや、今の普通に、かなり」
「かなり何ですか」
「夫婦っぽかった」
その言葉に、二人とも同時にそっぽを向いた。
そのあとも練習は続いたが、良くなるどころか妙な方向へ進んだ。イドゥレが「夫の長所は床板の異音に気づくことです」と真顔で言えば、モリネロは「妻の長所は犬に顔を舐められても怒れないところです」と返す。どちらも嘘ではないのに、タニアは机を叩いて笑い、ラウシャンは「もう普通にしゃべった方が早い」と呆れた。夫婦らしく見せようとするほど、不自然になる。その不器用さ自体が、かえって二人らしかった。
夕方、窓を閉めるために並んで立ったとき、不意に目が合った。レモンの香りと、革と石けんの混ざった匂いが、狭い空間に重なる。どちらも先に視線を外せない。たった数秒なのに、妙に長い。
ようやくモリネロが窓の鍵へ手を伸ばした。
「……閉めます」
「はい」
イドゥレも同じような返事しかできなかった。
誰かが家にいる安心というものは、音や手順だけでなく、匂いからも始まるのかもしれない。そんなことを考えた自分に、イドゥレは少しだけ困った。