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第5話「トイレと水槽と塩の話」
登場人物:シオ=コショー(潮属性・非常勤講師)/潮属性・1年のトトカ
シオ=コショーは、今日も静かに出勤していた。
職員用の裏通路から入り、潮属寮の水草水槽にタオルをしぼる。
黒に近い濃い藍の上着を羽織り、制服の名札には“非常勤”の白いプレート。
髪は波型に後ろへなびいていて、白と灰の縞模様がある。
耳の奥には**シャチを思わせる潮孔(ちょうこう)**が小さく動いていた。
ソルソ学区では、校内の波圧が不安定にならないよう、トイレと水槽が“感情の排出口”として重視されている。
“流す”も“沈める”も、すべては波の行為。
潮属性のトイレと水草水槽は、最も共鳴が乱れやすい場所だ。
だからシオ先生は、出勤日だけは必ずここを回る。
誰かに会わずに済むように、早朝か夜の間に。
その日、潮属性1年のトトカ=レーンは、トイレの奥の個室から出てこなかった。
髪はねじれた緑色で、眉の上に海藻のような模様が浮いている。
表情はあまり動かないが、共鳴が過敏なタイプで、最近波域手帳も空欄が続いていた。
「……あの、シオ先生……ですよね」
個室の扉越しに、ぽつんと声がした。
声の波は、濁っていたけれど、遠くまで届く柔らかさだった。
「……来るって、思ってました」
「ごめんね。掃除だけのつもりだったんだけど……」
「名前、呼ばれるのが怖くて……波がぜんぶ耳に刺さって……」
「うん……わかるよ。わたしも、名前の波が大きい人が、怖いから」
沈黙のあと、水槽の泡がひとつ上がる音がした。
「水草……毎日変えてるんですね」
「うん。気づいてくれて、うれしい」
「今日の……緑、やさしい波してた」
「それ、あなたの波かも」
トイレと水槽。
排出と共鳴。
それはどちらも、“自分の中にあるものを一度、外に流す行為”だ。
その日、トトカは初めて波域手帳にひとこと書いた。
「水草の音、やわらかかった」
ページににじんだその波は、潮と海藻の混じった色で、ゆっくりとにおい立っていた。
シオ先生は、それを見届けずに清掃を終えて去った。
でも、あとで水槽管理記録にはこう書かれていた。
《本日の泡:深め。にごりあり。記録者:S》
誰かの波を治すことはできない。
でも、寄り添う波にはなれる。
シオ=コショーは、そういう先生だった。