コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
『クレヨン』
──ねぇ、あそぼ。
小さな声が、誰もいないはずの部屋の中に
響いた。
一
新しい家に越してきたのは、六月の終わり。
夫の転勤で見つけた郊外の小さな中古住宅。少し古びてはいるが、静かな住宅街で、庭には季節外れのタンポポが咲いていた。
「どう? 気に入った?」
「うん、すてき!」
小学一年生の娘・みうは、段ボールの山の中で新しい部屋を探検していた。
小さな足音が、木の床をトントンと跳ねていく。
その夜、夫は仕事で遅くなり、母と娘のふたりだけの夕食。
食後、みうは部屋の隅で何かを拾い上げた。
「ママ、これなに?」
「……あら、クレヨンね。前の持ち主の忘れ物かしら」
一本だけ、ポツリと落ちていた古びたクレヨン。
ラベルには、かすれた赤いインクで名前が書かれている。
――さやか。
「ねぇママ、このクレヨン使ってもいい?」
「ええ、いいわよ。でも汚さないようにね」
そう言って、母は気にも留めなかった。
その夜、リビングのテーブルに広げられた白い紙に、みうは小さな手で絵を描いていた。
二
翌朝。朝食の準備をしていた母は、何気なくテーブルに目をやり、息を呑んだ。
昨夜、みうが描いていたはずの絵は、まるで違うものになっていた。
──女の子がふたり。
ひとりは笑顔で、もうひとりは顔が黒く塗り潰されている。
その下に、震えるような文字が並んでいた。
『わたし、さやか。あなたは?』
母は眉をひそめた。「……みう、これ、あなたが描いたの?」
「うん。でも、なんか、夜起きたら、絵がちょっとちがってたの」
「ちがってた?」
「うん。さやかちゃんが、お手紙くれたの」
冗談だと思った母は笑って流した。
けれど、その夜も──翌朝も──新しい絵が増えていた。
『あそぼ』
『すぐそばにいるよ』
『ともだち、できた』
絵は次第に増え、紙いっぱいに広がっていった。
女の子の顔が何枚も、何枚も、笑っていた。
三
一週間が過ぎたころ、みうの様子が変わり始めた。
夜中に誰かと話している声。
朝になると部屋中に散らばる紙。
床や壁にまで、クレヨンで描かれた子供の落書きが広がっていた。
「みう! 何してるの、これ全部あなたが……!」
「ちがうの、ママ。さやかちゃんが描いたの」
みうは怯えた様子でもなく、ただ嬉しそうに笑っていた。
「さやかちゃんね、もうすぐ遊びに来るんだって。クレヨンの中から、出てくるんだよ」
母の背筋を、冷たいものが這い上がった。
四
その晩、母は寝室の扉の向こうから音を聞いた。
カリ、カリ、カリ……と壁を削るような音。
そっと覗くと、みうが真っ暗な部屋の中で、床に膝をつき、赤いクレヨンを握っていた。
「みう……?」
娘は振り向かない。
ただ、壁に何かを書き続けている。
母が灯りをつけた瞬間、全身が凍りついた。
壁一面に、無数の手形と顔。
子どもの絵で埋め尽くされたその中心に、血のような赤で大きく書かれていた。
──『友達がほしい』
──『なってくれる?』
「やめなさいっ!」
母は娘を抱き上げた。
その手から滑り落ちたクレヨン。転がるその軸には、震えるような赤い文字でこう書かれていた。
――みう。
終
翌朝、母が見たのは、色紙の海だった。
部屋中に散らばる絵、絵、絵。
その中の一枚には、ふたりの少女が仲良く手をつないで笑っていた。
一人は「さやか」。
もう一人は、「みう」。
──その後、娘の姿は、どこにも見つからなかった。
【この物語の意味】
この話のテーマは「無垢な孤独」と「残留する願い」。
さやかという少女は生前、友達ができないまま亡くなった。
その強い願いが“クレヨン”に宿り、次にその家へやってきた同年代の子を“絵の中の世界”へと引きずり込んでしまう。
彼女にとっては「永遠に一緒に遊べる友達」を手に入れた、幸せな結末。
だが現実では、ひとりの少女が“絵の中”に囚われた、という悲劇──。