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その夜、公民館の古い事務室には、電気ポットの湯気だけが静かに立っていた。壁の時計はやけに大きな音で秒を刻み、誰もまだ座ろうとしない。
ルドヴィナは机の上へ一枚の書類を置いた。
「空き部屋の使用の件、いったん白紙にします」
サペたちは言葉を失う。正式な申請前だからこそ撤回できる。理屈は分かる。けれど、それが何を意味するかも分かった。
「ここを拠点にしなければ、少なくとも公民館は巻き込まれません」
ルドヴィナは書類の端を指でそろえた。
「管理人として、そう判断します」
「管理人として?」
キオノフが聞き返す。
彼はいつものやわらかい笑顔を消していた。
「それ、本当に管理人として?」
ルドヴィナが目を伏せる。
「……個人的な感情が混じっていないとは言いません」
「混じってるなら、なおさら一人で決めるな」
その強い声に、サペまで息をのんだ。
キオノフはふだん、怒鳴らない。相手が失敗しても、まず礼を言ってから始める人だ。だが今は違った。
「私は、あんたが支えてくれたから店を続けられた日が何度もある。帳場が足りない時も、祭りの申請で困った時も、台風で店の前がぐしゃぐしゃになった朝も」
ルドヴィナの唇がわずかに震える。
「だから、噂が出たからって、その全部をなかったことにするな。私はそんな軽い気持ちで礼を言ってきたんじゃない」
静まり返った事務室で、ポットの湯がぼこりと鳴った。
ルドヴィナはようやく顔を上げる。
「……私は、変わるのが苦手です」
「知ってる」
「決めた形が壊れるのも苦手です」
「それも知ってる」
「だから、壊れる前に自分で片づけたくなるんです」
キオノフは、そこで初めて少しだけ声を戻した。
「それ、片づけてるんじゃない。逃がしてる」
ルドヴィナの目が赤くなる。
エリアは腕を組んだまま、壁にもたれて聞いていたが、最後に小さくつぶやいた。
「やっと本音が出た」
白紙の書類は、まだ机の上にある。
けれど誰も、そこへ判を押そうとはしなかった。
#勧善懲悪
#勧善懲悪