【追憶】
「えーっ、では本日定年退職を迎えられました坂崎部長に最後のご挨拶をお願い致します」
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「えーこんなに素敵な花束をありがとう! 私は今日まで君達とこの会社で働く事が出来てとても幸せでした。私が無理を言ってもいつもみんなついて来てくれたね。そんな君達には感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとう。信頼できる部下がいたからこそ定年までなんとか頑張る事が出来たよ。本当に今までお世話になりました。ありがとう!」
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「部長! お元気で!」
「会社の近くまで来たら是非顔を出して下さいねー!」
「今までありがとうございましたー」
社員の中には涙する者も大勢いた。それほどまでに部長の坂崎は部下達に慕われていた。
拍手をしながら隅の方にいた新人の女性社員は先輩社員に聞く。
「先輩、坂崎部長は今日家に帰ったらテレビドラマみたいにあの花束を奥様へ渡すんですかね?」
「ううん、それはないわ。だってね、坂崎部長の奥様は3年前に亡くなられたの」
「え? じゃあ今日は家に帰っても一人なんですか?」
「たしか近くに娘さん一家が住んでいたと思うけれど、どうかしらね」
「そうなんですね…….坂崎部長、いつも凄く優しかったから…….なんだか切ないです」
女性社員は潤んだ瞳でフロアを立ち去る坂崎の後ろ姿を見送った。
坂崎義彦(さかざきよしひこ)は、本社ビルのエントランスを出ると一度立ち止まり後ろを振り返る。
そして会社に向かって深く一礼をした。
この日定年退職を迎え会社を後にした義彦はすぐに帰路についた。
大々的な送別会は先週終わっていた。世話になった同期や同僚達とは、この一ヶ月の間に何度か飲みに行き既に挨拶を終えていた。
だから最終日の今日はこのまま真っ直ぐ家に帰るだけだった。
帰宅ラッシュの満員電車を乗り継ぎ自宅へ向かう。義彦の家は神奈川県の海の傍にあった。
義彦はそこから毎日1時間半かけて長い間会社へ通い続けた。
途中数年間、単身赴任で地方へ行っていた時期もあったが、それ以外は毎日同じ電車に乗り続けた。
この混雑した電車にもう乗らなくて済むのだと思うとホッとするような、少し淋しいような…複雑な気分だ。
吊り革に捕まりながら窓の外を見ると、明るい月が煌々と輝いていた。
(そうか、今日は満月か)
義彦はそう思いながらぼんやりと明るい月を眺め続けた。
しばらくすると斜め後ろから女性二人の会話が聞こえてきた。
「今日はスーパームーンなんだよ。1年で月が一番大きく見えるんだって」
「あー知ってる知ってる。なんかね、大学で超霊感の強い子がいたでしょう? あの子が変な事を言ってたよ」
「変な事って何?」
「えっとね、満月の夜は不思議な事に遭遇しやすいんだって」
「不思議な事ってどんな事?」
「なんかね、この世とあの世の境目が曖昧になるんだって、それで色々な事が起こるみたい」
「色々な事って何よ?」
「あはは、聞き忘れた」
「なによぉもぅ、そこが肝心なのにー」
女性2人はキャッキャッと笑いながら違う話題へと移っていった。
(満月の夜の不思議な遭遇…….か)
義彦は思わずフッと笑う。
(その不思議な事とやらに一度くらいは遭遇してみたいもんだな)
義彦がそう思っていると電車が駅に着いた。
午後7時を過ぎていたので駅前商店街の店のシャッターはほとんどが閉まっていた。この辺りの店は閉まるのが早い。
一つだけ開いていた焼き鳥の店で義彦は焼き鳥を一人前買って帰る。今夜はこれで一杯やるつもりだ。
右手にはバッグと焼き鳥の袋を、そして左手には大きな花束を持ち義彦は海沿いの道までのんびりと歩く。
(最後の日くらいは海辺を散歩でもして帰るかな)
そう思った義彦は夜の海の砂浜へ下りて行った。
大きな花束からは甘い香りが漂ってくる。
花の香りを嗅ぐと、いつも思い出すのは妻・さゆりの事だった。
さゆりは花が好きな女だった。
さゆりがまだ元気だった頃、家の中にはいつも綺麗な花が飾られていた。
本来ならこの花束は今夜さゆりに渡すはずだった。
しかしさゆりはもうこの世にはいない。
さゆりは三年前この世を去ってしまった。
突然倒れて救急車で運ばれ、翌日にはもう帰らぬ人となっていた。
あまりにも急だったのでゆっくり別れを告げる暇もなくあっという間に逝ってしまった。
定年後は妻との時間を楽しむつもりだった。
外食やドライブ、温泉旅行。買い物だってゆっくりつき合ってやるつもりだった。
庭には家庭菜園でも作ろうかと話していた。
定年後の計画を立てながら、さゆりは義彦の定年の日を心待ちにしていた。
それまではずっと仕事が中心の日々だった。
残業、休日出勤、出張、付き合いゴルフや釣りの接待、そして単身赴任。
(君の人生は全て僕の予定を中心に回っていたね。今頃君は天国で自由を満喫しているだろうか?)
義彦は亡き妻に語りかける。そして更に続けた。
(さゆりには本当に申し訳ない事をしたと思っている。だから僕はもう一度君に会って心から謝りたいと思っているんだ。もしも満月とやらの不思議な遭遇があるのなら、どうかさゆりにもう一度会わせて欲しい)
義彦は真剣にそう願う。
しかしそんな事を考えている自分が急に可笑しくなり思わずフフッと笑う。
そしてそのまま砂浜を歩き続けた。
しばらく歩いて行くと大きな流木を見つけた。
義彦はそこで少し休みながら海を眺めようと静かに腰を下ろした。
コメント
15件
奇跡が起こりますかね😃
満月の夜の奇跡🌕
定年のお祝いにさゆりさんが駆け付けてくれるのかなぁ。 新しいお話、こちらも楽しみ♪